キングな夜
「もう一本だけ、かけさせてくれ」
そう言いながら助手席の金髪の男が、青白く光る携帯の画面を覗きこんでいる。
「あぁ、悪い」
自分のために何本も電話をかけている幼馴染に軽く頭を振って返事した後、窓から外を覗く。
車内と同じ闇の中で、やたらと分厚い門の奥にたたずむ古そうな洋風建築の家を眺める。
豪邸……と言えるのだろうか。
豪邸とそうじゃない家との判定基準がよく分からない。
少なくとも自分の実家に比べれば、遥かに小さい。
だいたい玄関から門までの距離が無駄に長い。
あれでは客が来たときに何メートルも歩いて出迎えに行かなければならず、自分がしんどいだけだ。金を使ってわざわざ自分が疲れる家の造りにするというのは、どういう発想なのだろう。
教師を目指すために生まれて初めて住んだ一人暮らし用のアパートの方がずっと住みやすいはずだ。狭いという事があんなに素晴しい事だとは思ってもみなかった。
なぜ執事や家政婦を雇わないで、あんな不便な家に住んでいられるのかが謎だし、なぜ召使的な人間を雇わないかも謎だ。
教師になった暁には、この世の全てが理解できる様な気がしていたが、そうでも無かった。教師になって多くの事を見聞きするようになってから、余計に分からない事が増えた気がする。
今日この家を訪れるのは二度目だ。
夕方に教師らしく、退学届けを直接生徒に届けに来たのだ。
黄昏の中で手紙の束に目を通している少年を見つけた。
その少年の背中にあったはずの羽がもぎ取られていた。
俺の前に天使が降ってきたのは、もう一年半程前になる。
自分が経営を任されたバーからそれほど遠くない風俗街の裏路地のゴミ置き場で、人一人入れそうな大きな青いゴミ箱にもたれ掛り、足を投げ出して地面に座り込んでいた。
外見も中身も絵に描いた様にボロボロだ。
なぜ自分はこうも満たされないのだろうと、薬漬けの頭で考える。
有り余る程の金で欲しい物も人も全てが手に入るのに、何故だ。
先程手放したばかりの買い物の顔を思い出す。
「ありがとう」そう小さく呟いた泣き顔が、自分よりもずっと幸せそうに見えた。
好みの人間を買っては、最終的にそいつに金を投げて自由にしてやる。 金と言っても貧乏人の借金なんて、こんな金額で人生を売るのかと反吐が出る程くだらない桁数だ。
最初はいつもそんなつもりは無いのに、何故か最後には喜んだ顔が見たいと思ってしまう。
別れ際に礼を言われると、一瞬満たされた気がして俺は間違っていなかったと思う一方、その後の虚無感と言ったら死にたくなるほど苦痛だ。そのせいで、また薬や酒に溺れる。その繰り返しだ。
煙草を吸おうと胸のポケットの位置を掌で確認すると、クシャリと箱が潰れる感触で切らしている事を思い出した。
すると奥の裏道から、天使が煙草を吸いながら歩いて来た。
見間違いでは無く、ちゃんと背中にふわふわとした羽を生やして、身体全体が薄ぼんやりと白く発光している。今思えば薬の力ってのは大したもんだ。
息をするのを忘れて、目をこらした。
「よお、そこの天使。 煙草くれよ」
思い切って呼びかけると、大通りに出ようとしていた天使が振り返る。
声の出所を確かめるように、眉をひそめながらこちらを覗き込む。
「ちょうど今切らしてたとこだ。俺に煙草渡すためにわざわざ天から降って来てくれたんだろ?」
一二歩寄ってきた天使が、ゴミ置き場に座り込む俺を見つけ怪訝そうな顔をした。
天使に自分の声が届いた事が嬉しくてニヤニヤと笑う。
近くで見るこの世の者では無い姿は、透き通っていて本当に美しかった。
幼い顔付の下をよく見れば、制服のようなブレザーを着ている。
天使は大通りの方を振り返ったりして、少し悩んでからポケットから煙草を取り出し、箱ごとこちらに投げた。
「悪いな」
膝に転がった箱から一本煙草を取り出し、投げ返そうと腕を上げた。
「あげるよ」
初めて聴く天使の澄んだ小さな声に一瞬意識が遠退く。
「……いいのか?」
「いいよ。俺、今日金持ちだし」
そう言いながら吸っていた煙草をアスファルトに落とし、靴で踏みねじった。最近の天使はマナーが悪い。
「へ――、その割には浮かない顔だな」
地面から視線を上げた天使の顔は、何かに落胆したかのように沈んだ無表情が張り付いていた。
「金持ってるのに幸せじゃないって事あるのか?」
自分で言って、自分の事だと気付く。
「どうした、天国に帰れなくなったとか? 俺に相談してみろよ。煙草の礼だ」
天使は寂しそうに少し微笑んだ。
「お兄さん教師かなんか?」
「なんだ、教師じゃないと相談できないような事なのか?」
「別に……」
途切れた会話の隙間が、大通りのにぎわいのせいでやけに静かに感じた。
「沢山……大切な物、無くしたんだ……」
うるさいざわめきの向こうで、凛とした呟くような声が微かにだが、はっきりとそう言った。
そうか、それで天に帰れなくなって悲しんでいるのか。
「その無くしたものって何だ? 金で買えるのか?」
自分の汚れた手で天使を救える錯覚に陥り、上半身を起こして聞いた。
天使は儚げに微笑んだまま、今にも目の前から消えそうなほど透明度を増した。
「なあ、何なんだ? その無くした物って。俺が何とかしてやるよ」
気が付けば言葉に力が入って、真剣になっていた。
「お兄さんホント教師みたいだね。素質あるよ。教師になれば?」
初めて天使が鈴の音のような笑い声をあげた。
「俺が教師だったら……お前の事、助けてやれるか?」
消えようとする白い影にすがる思いで身を乗り出した。
「さあね。でも教師だったら……また会えるかも」
意味ありげな言葉を最後に残していこうとする。
「ちょっ、待ってくれ! 消えるな!
お前の事……絶対助けに行く。その無くしたって物、俺が取り戻してやるよ。で、天に帰してやる。
だから……だから俺の事忘れないでくれ……」
「それは無理かな……。俺、精神科の薬飲んでるから、たぶん忘れる。今日は忘れたい事ばっかりだったし……明日になれば、今日の事と一緒にお兄さんの事も忘れてると思うよ?」
天使の悲しそうな声が路地裏の汚い空気を小刻みに震わせる。
「お兄さんの事だけじゃなくて……他のいろんな事もどんどん忘れていく。沢山大切な物を失ったって事も……それでいいんだ。そうやって忘れるから、生きられるんだよ……」
違う。
それは絶対違う。
俺がどれだけ多くの過ちを犯して、間違った生き方をしてきた最悪な人間でも、それだけは違うと言い切れる。
畜生。天使にこんな事言わせるようなまねしたのは、どこのどいつだ。
俺がこいつを救ってやる。
こいつに教えてやる。
忘れるために生きてるんじゃなくて、忘れないために生きられるんだって事を。
忘れられないくらいの素敵な思いを、その思いのために生きていけるような、そんな風に思えるって事を絶対教えてやる。
気が付いたら天使は姿を消していた。
放心状態の頭に、いつかくだらない賭けに負けたせいで取らされた教員免許を思い出す。
ボロボロの身体を持ち上げて、自分の部屋へ向かう。
いつの間にか走っていた足を止めて、ドアを開ける。
くたびれたソファーに寝そべって名前も忘れた高校生のガキが携帯ゲームで遊んでいる。幼馴染の金髪が腕を組みながらそれを覗き込んで楽しく雑談していた。
俺が駆け込んで来た事に驚いて顔を上げた少年が、天使と同じ制服を着ていた事に、その時は気付かなかった。
「俺の前に天使が堕ちてきたんだよ……だから教師になる」
待ってろ。絶対俺が迎えに行く。
俺の顔を忘れなくてもいいような世界を教えてやる。
最低限の物だけをポケットに入れ、ゲームを手に持ったまま口を半開きにして固まったガキと、慌てて携帯を取り出し誰かに助けを要請しだした幼馴染を置いて、廊下に出た。
裏口のドアを開けると、無数の小雪がさっき別れた天使の涙のように闇を伝って、地面に落ちていた。
次天使に会ったのは、驚いた事に自分の経営しているバーの奥の個室だった。
一年半ぶりに幼馴染の女みたいな顔を捜して半分開いていた扉の中を覗くと、何度も夢で再会を果した天使が、ソファで横になって男と舌を絡ませていた。
天使は俺に気付くと挑発するように唇を繋げたまま笑った。
救えるものなら救ってみろ、と。
苦しみながら薬漬けの身体を何とか漂白した後、教員採用試験のために何ヶ月も狭いアパートに暮らし、生まれて初めて自分の力だけで生活をした。
自分の脆さを知り、この上なく惨めな日々だったが、ずっと捨てれずにいる煙草の空き箱を眺めながら、透き通った声を思い出して耐え抜いた。
ところが、やっとまともな社会人になった俺と入れ替わりに、天使は天国からは一番遠い暗黒の深海に溺れていた。
地球上で一番重たい重力と水圧が天使の身体を押しつぶそうとしている。
風俗街の裏路地に金をもった綺麗な少年が歩いてる。
それが何を意味しているか、薬中を脱した脳ミソは痛いくらいに解答を点滅させた。
それから深海を覗き込んで手を伸ばす事に躍起になった。
「先生。俺さ、好きな人と一緒に住む事にしたんだ」
その言葉を聞いて、やっと差し伸べた手を掴んでくれたと喜ぶ反面、傍に居れなくなる事を思い辛くなる。
でも天使の隣にいるのは自分ではダメなのだと言い聞かす。
いつか自分を見失って天使を犯しかけた。この手で羽をむしりかけた。
この世の者では無い美しい姿を欲して、これ以上汚す事があってはいけない。
愚かな自分のために天使を地上に留めておく訳にはいかないのだ。
そう思ってオレンジ色に染まる放送室で、やっと掴んだ手を離した。
飛び立つ後姿を見送るように。
これがこいつのためなんだ。
そう思った。……そう思ったから、手放したのに。
二度目の再会を果たした時、蒸した夕日に炙られて、天使はただの少年になっていた。
痣だらけの白い肌や、眼帯をした生気の無い表情を思い出すだけで、頭痛がするほど怒りが込上げる。
「ああ、そういう事だ。頼む。じゃあ」
話が済んだらしく、助手席の男が電話を切って携帯を閉じる。
「三木衆議院議員と連絡がとれたよ。命以外は好きにしろ、だそうだ」
「自分の息子相手に酷い奴だな」
「それくらい図太くなけりゃ、一端の内科医が政治家なんかになれるもんか」
「まあこれで何してもチャラだ。冷たい親をあの世で後悔すればいい」
今からの事を考えるだけで、口元が緩む。
「おい、アツキ。ちゃんと話聞いてたか? あ? 命以外は、だ。死体処理する手配なんかしてない。お前昨日みたいな事になったら、俺がお前を殺すからな」
優しいはずの幼馴染が上半身をこちらに向けダッシュボードに肘をかけて、本気で怒っている。
昨日見たばかりとはいえ、口調と表情が急変するのでゾッとする。
ユキヤの居場所を聞き出した男を意味も無く自分の部屋で殺しかけて、止めに入った幼馴染を怒らせた。
「分かってる。いつまでもガキ扱いすんな……」
二歳年上というだけで、こいつには子供の頃から頭が上がらない。
「警察にも一応手は回した。ああ、マサトさんには後でアツキから直接伝えてくれよ。いろいろ文句言われるのは嫌だ」
「わかった……」
嫌な奴への電話を頼まれてしまった。まあ、自分のせいで起こる揉め事なので仕方ない。
「まったく……。岡田組の次は三木財閥か……。アツキのクラスは問題児だらけだね。教師になってからの方が面倒が増えるってどういう事だよ……」
また昨日と同じ文句を垂れだした。
シノは俺のクラスじゃないと言い掛けたが、更に怒りそうなのでやめた。
もう一度外に目をやると、豪邸と呼べるらしい家の明かりが一つ増えている。
明かりが点いていたのは玄関だけだったが、二階の庭に面した部屋の窓にも明かりが点っていた。
天使があそこにいる。
家にいる事を確認するため、携帯の電話帳から今日新しく上書きしたばかりの生徒の番号を表示させてボタンを押す。
しばらくして呼び出し音が途切れた。
「ユキヤか? 今家にいるのか?」
繋がっているのかと疑いたくなる程、何も音を発しない。
「先生。いろいろ本当にありがとう。……でもゴメン……俺……もう疲れたよ」
今から死ぬ者の声だと思った。
血生臭い裏社会でキングなんて呼ばれていたら、今から消えていく人間の声くらい区別がつく。
「おい! ユキヤ!?」
一度繋がった天使の名を呼ぶが、返事がない。
遠くからガラスが割れる音が聞こえて、顔をしかめる。
「吉野。急ごう」
低い声で呟いた後、車のドアのロックを外す。
もう優しい教師を演じるのにも飽きた。
職権乱用・公私混同、上等じゃないか。
教師になっても、好きな奴ひとり救えないんじゃ意味が無い。
今必要なのはキングの力だ。
ドアをうるさく閉めて、点ったばかりの小さな灯りを振り返る。
待ってろ。
約束通り迎えに行く。
残念ながら、血みどろなキングの手では天に帰してやる事は出来そうもないが。
例え暗い深海に二人で沈む事になっても
もうお前は一緒に連れて行く。
ユキヤ。
(完)
本当は本編に入れるつもりのお話でしたが、椎名視点の番外として出させて頂きました。
こういう裏話があったんですね〜( -Д-) ゜Д゜)フムフム
ちょっと何考えてるか分からない先生の事を分かっていただける要素にはなりましたでしょか??
あ、いつも通りイメージと違いましたって方いらっしゃいましたら(;´・ω・`)ゞごめんなさい
この話が明日とか来週の始めに上がる予定でしたので、予想外にお盆までちょっと時間が空きましたね……。
まあ、もう一つくらい話書くか、絵描くか、何もしないか……分かりませんが、ちょっと初登場の主人公で短編一本入れたりするかもしれません(´゜∀゜`;)
とりあえずお盆明けからは、新連載書かせて頂きますので、お付き合い頂きますと幸いです(('ェ'o)┓ペコ