待ち人
僕は結局最後まで彼女のことが分からなかった。彼女が何のために生き、そして死んだのか。彼女は、不思議な人だった。
僕にとっての彼女は唯一無二の存在であった。だが今では疑問だけが残る。その存在が何をもたらしたのか。僕は彼女によって辺鄙なプライドを壊され腑抜けにされてしまった。彼女はまだ若く、未熟で愚かなこの僕に希望を与え、また、絶望を与えたのだ。僕の人生は彼女に出会ったことで大きく変わり新しい視界の中、彼女の怪しい企みによって全てを奪われた僕は次第に身動きができなくなる。だが、僕は彼女のことを何も知らないまま、まるで陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと口を開けては閉じ、彼女への愛を叫んでいたのだ。上下の感覚すらない、その暗闇で、僕は全てを奪われ叫んでいたのだ。
ただ、彼女を愛していた。歪な形をした彼女への愛だけが、僕の肺に空気を送り込んでいた。僕は、時間と自分の命が削られて行くことを感じながら、ただそうしていることがとてつもなく幸せだったのだ。それが僕にとっての唯一だった。特別だった。だから、彼女は、本当に不思議な人だった。
もしも、もしもだ。僕が小さなクラブで一人酒を飲んでるとしよう。踊る人達を尻目に、一人端で今日大学で出された課題をどう片付けようか考えながら、僕は不味い酒を飲んでいる。煩い店内は低音を響かせ少し揺れながら人たちを取り囲んでいた。青い照明が彼らのアクセサリーを照らせば、汗ばんだ肌が反射してキラキラと星屑のように零れ落ちる。僕は酒を口へ運ぶと、今日のドイツ語の講義を復習しようと、眠たかった昼間ことを考え始めた。少し経って腕時計の針が十時を指した時、入口のドアが音もなく開くと、ある人物がゆっくりと中へ入ってくる。僕はその人物を確認すると今ある安い酒を飲み干し、今日はしめたぞ…と口の端が上がるのを感じながら、高い酒を注文した。この酒はさっきの酒とは大違いで美味い、本物の酒だ。僕は毎晩、この騒がしい店に彼女が現れる日を待っているのだ。彼女がこのクラブにくるのは二日に一回の時もあれば、一週間まるまる来ない時もある。神出鬼没な彼女を僕は待ちわび、そして自身に祝杯をあげるのだ。
彼女はいつもの定位置に座ると、ジンライムを頼んだ。他と比べるとアルコール度数の高いものだ。その細い身体に強いアルコールを耐えきれるほどの力があるのか、いやこればかりは肝臓の問題なのか、とにかく彼女は酒に強いようだった。彼女はいつも踊る人々を見ながらこれをちびちびと長い時間をかけて飲む。味わう様子もなく、まるで僕を焦らすかのようにゆっくりと、機械的な動きで酒を口へ運ぶのだ。透明に近い液体は青い照明に反射してまるで海の底のようだった。しばらくして海の底を飲み干した彼女は長い夢から目覚めたようにはっとしたした趣きですぐに席を立ち、その滑らかな足を急がせて行ってしまう。空になったグラスと彼女の温もりの残った小さな椅子を横目に追いかけるように数分後に店を出るけれど、当然彼女の姿はどこにもない。僕は口に残る、高い酒の味を噛み潰しながら一人家へ向かう。苦味だけが残る、不味い口内だった。そして終電間際の人の少ない電車に揺られ、彼女のことを考える。たまにiPhoneで音楽を聴きながら。何でもない。僕の一人芝居。彼女は僕のことを知りもしない。だが、こんなにも意味の無いように思えることでも虎視眈々とこなせる程に僕は彼女に溺れていたのだ。僕にとって、彼女こそが全てであった。彼女を本当に、愛していたのだ。
冒頭の通り、彼女はこの世にいない。正しく言うと、今はもうこの世にいない。もしもの話として聞いてほしい。どこにでもいる男の、くだらない妄想話として。理由は言わない。僕の独り言だと思って、聞いてほしい。彼女が生きていた時間のたった一瞬の出来事を。
彼女と僕の、もしもの話を。