『ホーム』
あなた自身にとっての『HOME』を考えるきっかけになれれば幸いです。
ホーム〜in the morning〜
頭の中に一瞬にして凄まじい電流が発生し、僕はホームへと飛び出した。倒れている妻を男は横から見下ろしており、その姿は頭の中に電流が流れるスピードをさらに加速させ、僕の瞳孔はギリギリのラインまで開いていた。
横浜方面へ向かう午前五時過ぎの東急東横線のシートで僕と妻は眠っていた。全身に行き渡ったアルコールが、僕らを温かい泥の中に引きずりこむような、そんな眠りだった。
そんな静寂を突如、誰かの叫ぶような声が引き裂いた。僕の意識はまるでスイッチがオフからオンにバチンと切りかえられたように、表層まで強引に持ち上げられた。まぶたの上を太陽のフィラメントが連続的に通りすぎるのを感じ、まだ外の世界とは無関係でいたいと眠り続けようとしたとき、隣の席で眠っていた妻が何者かに引き起こされた。その衝撃で意識は瞬時に覚醒し、心臓は突然そのテンポとヴォリュームを跳ね上げた。電車は駅に停車しているところで、突然の出来事にまだ動けずにいる僕を尻目に、男は妻をホームへ連れ出し、威圧的な声を出しながら彼女を倒した。
どうやって男の場所まで辿り着いたのかは意識に無い。でも次のシーンでは目の前に男がいて、そいつの首をのど輪のようにして掴み、右足を払って、バランスを失った男をできる限り強い力で駅のホームに叩きつけていた。男の目がまだ「生きて」いるのを確認すると、僕はさらに強く男の首を押さえつけた。
当然の如く二人の駅員が走ってきて、僕と男の間に割って入った。片方の駅員が男から僕を引き離し、もう一人の駅員が男を引き起こしていた。電車の中にいた奴らは見慣れたコマーシャルでも眺めるかのように無関心な視線でこの騒動を見ていた。視線を下ろすとそこには髪を乱され倒れている妻がいた。僕が妻に手を差し伸べようとすると後ろで男が何かを口にした。何かそう、何か汚らしい言葉を口にした。
僕は振り返り、駅員を横へ突き飛ばし男の襟首を掴んだ。再度男を倒そうとアクションをかけた時、僕の右腕と左腕、そして男の顔がある間の空間に、ひょっこりと若い方の駅員が入り込んできた。駅員は必死になってこの争いを制止しようとしていた。駅員はまだ若く、この争いの中で異質な存在であり、彼はまるで「誠意」の象徴のような顔をしていた。しかし僕は起こった出来事を無視することはできず、男の襟首を掴む力を強め、そいつの存在を全て否定するように威圧した。
左斜め前に見知らぬ女が立っていた。女の髪と服は乱れており、早朝の澄んだ空気の中で、滑稽なくらい疲れきっているのが分かった。女が発する言葉は理解し難く、でもどうやら僕が掴んでいる男の連れらしかった。かすかに僕は躊躇したが女連れだろうが何だろうが、この男が妻を引きずり倒したことには変わりが無く、僕は女を無視して再び男を睨み付けた。若い駅員はあくまで制止しようという意思表示を続けており、少し年老いた方の駅員は汚いものを見るような目つきで少し離れた所に立っていた。
男が訳の分からないことを言った。
内輪の問題なんだよ、首突っ込んでるんじゃねえよ、とその男は言った。くそったれ、こいつは少し狂っている。きっと妻の昔の知り合いか何かで、ずっと何か過去のことにこだわっていて、そして偶然見つけた妻を襲ったのだろう。僕はこういう奴が一番嫌いだ。僕は男に自分の左手薬指の指輪を見せ、今は彼女はもう結婚していて過去の事なんて関係無い、というようなこと言った。男は奇妙な顔をした。だから何だ、とでも言いたげな表情だった。ふざけやがって。
ふと思った。妻は昔の男と僕を今どんな気持ちで見ているのだろう。僕は妻の方に振り向いた。しかし、そこに彼女はいなかった。体をねじるような体勢で、呆然と妻がいたスペースを見つめていると、僕は左胸のあたりを押されて軽くよろけてしまった。振り返ると、僕を突き飛ばしたのは疲れきった女だった。
「もう大丈夫ですから。私達つき合ってるんですから。もういいですから」
疲れた女は化粧の崩れた顔で、僕を男がいる場所から引き離そうと、僕の肩やあごのあたりを貧弱な力で幾度も幾度も押してきた。こいつは一体何を言っているのだろうか。何だか全てがずれている。キレた男。いなくなった妻。疲れた女。僕。
頭の中がぐるぐる回り、ヴィジョンが少し歪み、事件性のあった空気を呆けたような日常が侵略していく。男は僕を虚ろな目で睨みながらホームの反対側に沿って立ち去っていく。少し離れた所で女に、行くぞ、と言う。男が立ち去っていくことに気づかなかった女は、僕の立っている丁度後ろ側に落としていたハンドバッグを慌てて拾い上げ、右足を引きずりながら男のもとへ向かう。年老いた駅員はもういない。若い駅員が軽く会釈をして立ち去る。僕はというと、北極と南極に突き刺さった柱のように、ひとり立ち尽くしていた。
妻。妻がいない。
電車のドアが閉まろうとしていた。僕は妻の姿を探した。医務室にでも運ばれたのか、それとも電車に乗り込んでしまったのか。立ち去っていく若い駅員を引き止め僕は尋ねた。
「すみません、倒れていた、ここに倒れていた僕の妻は何処に行ったか分かりますか?」
「、、、倒れていた方は立ち上がって、さっきの男の人と一緒に行きましたけど」
「さっきの男と?」
電車のドアが閉まり、僕は一瞬躊躇した。電車の中を見渡したが妻の姿は無い。電車は横浜方面に向けて走り出した。電車が去った後のガランとしたホームには、僕と若い駅員の姿しか無かった。
「さっきの男と僕の妻が一緒に行ったんですか?」
「一緒に行かれた方は確かにそこに倒れていた女の人ですけど、お客様の奥さんでは無いと思います。さっきほら、もめてた時に自分達はつき合っているんだって、あの女の人言っていたじゃないですか」
「じゃあ僕の妻は電車に乗ってしまったんですか?」
「、、、すみませんがそれは分かりません。けど、奥さんはそもそも一緒にいたんですか?」
いた、と言いかけて僕は色んなことを思い出した。僕が無言になると若い駅員は再び会釈をしてホームから階段を下りて行った。ホームには僕だけになった。朝の空気が流れる音が聞こえるくらい静かなホームで僕は右足の太腿に痛みを感じた。男を倒したときに打ちつけたのだろうか。
駅のホームは次第に明るみを増してきていた。腕時計に目をやると5時半を少し過ぎたくらいだった。まだ人はほとんどいない。自分を合わせて数人、そしてカラス。駅は自宅の最寄駅の2つ前の駅だった。いつしか僕の酔いはすっかり覚めていた。僕はさっきの男と女を追いかけて、彼らが消えていった階段を駆け下りた。うっとおしそうな顔をされるのは分かっていたが、一言謝りたかったのだ。そうしなければいけない気がした。でも彼らはもう何処にもいなかった。
階段を上がってホームに辿り着くと、掃除道具を持った若い駅員がそこにいた。彼はさっきと同じように誠実な面持ちで僕を見た。僕は何だか恥ずかしくなってしまった。
「さっきはすみませんでした。何か、いろいろと、、、すみません」
駅員は多分僕より10歳くらい年下なのだろうが、スマートな笑顔を僕に向けてくれた。これ以上彼に迷惑をかけたくなかったが、僕にはどうしても聞いておきたいことがあった。
「ところで、、、」
「はい?」
「さっきなんですけど、何であんなことになっちゃったんでしょうか?」
「なんでなんでしょうね。僕が来たときはすでにもめていたので」
「そうですか、、、」
「はい、何でそうなったのか、さっぱり分かりません」
若い駅員は軽く笑い、会釈をしてホームの掃除にとりかかった。彼の笑顔はとても素敵だった。
電車はあと数分もすれば来るようだ。僕は鞄から携帯を取り出した。メールが一通届いていた。午前2時過ぎに届いていたそのメールは妻からのものだった。
Re:渋谷で飲んでくる
『今日も朝までなのかな?そろそろ寝ようと思います。今日実家から梨が届きました。むいたやつが冷蔵庫に入ってるので良かったら食べてね。寒くなってきたから道で寝たりしないようにね。それじゃおやすみ。明日ね。』
携帯を閉じると僕はひどく孤独を感じていた。少しずつ上る太陽が、僕の姿を浮き彫りにしているようだった。僕は目を閉じて、冷蔵庫の中にある甘い梨のことを思った。そして暖かいベッドの中で眠る妻を思った。季節は冬へ向かっており、少し肌に寒気を感じた。
渋谷方面から電車がすべりこんでくる。ゆっくりと開いたドアから僕は乗り込む。席は空いていたけど、朝の景色を見ていたくて立っていることにした。ドアに寄りかかる僕の視界に入った若い駅員の姿が小さくなっていく。彼の一日は始まったばかりなのだ。僕は家に辿り着いたら熱いシャワーを浴びて、妻がいる闇の中に溶け込むように眠るつもりだ。
ホーム〜in the daytime〜
元気ですか?じいちゃんもばぁちゃんもカズも小虎も元気でやってますか?そういえば小虎、赤ちゃん産んだんだよね。てっきり雄かと思ってた。カズは今度は卒業できそうなのかね。僕が言うのも何だけど、カズにはちゃんと就職してほしいよね。多分あいつの方がしっかり物事考えてるから大丈夫だと思うけど。
東京は最近めっきり冷えこんできました。なんだか夏もそうだけど、季節まで都会的な感じがします。米ありがとうね。やっぱりうまいよ、地元の米は。
さてさて、正月なんですけど、やっぱり帰れそうにありません。飛行機のチケット送ってくれるとまで言ってもらってて悪いんだけど、電車は正月も走ってるし、それにあんましわがまま言える立場でも無いのよね。ライブとかでさ、休みもらってるし、その分国民のみなさんが休むときは出ないといけないんだ。職場のみんなにも気をつかってもらって、休み取れそうだったんだけど、年明けにどうしてもまた休まなくちゃいけなくて。ホントごめんなさい。
来年ね、実は何か上手くいきそうなんだ。こないだやったライブで事務所の人に声かけられてさ、そんで来年レコーディング決まったんだ。レコーディングって言ったらCD出すんだよ。やったでしょ。結構現実的になってきてるよ、本当に。
わがままかもしれないけど、僕としてはさ、一応それなりに形にしてから実は帰りたいんだ。心配かけてごめんね。でもね、バンド以外もさ、バイト先でもいい人に恵まれてるから、そんなに給料は良くないけど楽しいよ。東京もそんなに悪くないって思うよ。
そういえばこないだ仕事で大変なことがあってさ。朝番だったんだけど、5時すぎに酔っ払いがホームで喧嘩を始めたのよ。びっくりしたよー。掃除しようと思ってホームに行ったらサラリーマンがさ、僕と同じ年くらいのラッパーみたいな男を押さえつけてて、その横にそのラッパーの彼女みたいな派手な女が倒れてたのよ。階段上っていってホームが見えたとこでそんなのが目に入っちゃって、どうすんのか分からなかったんだけどさ、山口さんがパーッて走っていってサラリーマンを引き起こしたのよ。んで僕も後追っかけて倒れてる兄ちゃんをとりあえず触ったの。触ったっていうのはさ、掴んでもないし、抑えてもないしっていうこと。
山口さん力すごいんだよね。あ、山口さんはあの人ね、僕によくご飯食べさせてくれる人。普段いかつい顔してるんだけど、お孫さんと遊ぶときとかふにゃふにゃな顔になる人。こないだ画像送った人いたでしょ。あの人。
僕さ、バンドマンだけど仕事もちゃんとしたいのね。特に山口さん、すごく面倒見てくれるし、ちゃんと役立ってるとこ見せたくてさ。そのサラリーマンが一回引き離されたのにまたつかみかかったの、ラッパーに。僕思わず二人の間に入っちゃってさ。で、自分から入っといて身動き取れなくなったのさ。ちらっと山口さん見たら、ちょっと離れて見てるの。何か僕が助けてほしい立場になっちゃって。円の中心に僕がいて、何か倒れてた女の人も起き上がって今度はその人がサラリーマンに攻撃始めるし。
でね、この話で何が言いたいかっていうと、そのサラリーマンの人ね、倒れてた女の人を自分の奥さんだと思ってたらしいの。酔っ払ってて。
騒動が終わってさ、一回駅員室に戻って、掃除しようと思ってホームに戻ったらサラリーマンの人だけそこに立ってて、話したの。そしたら何か普通だった。さっきまでどうしようもなかったのに、丁寧に話するのよ。そこでね、自分の奥さんが何処行ったか僕に聞くもんだから、やっとその時の騒動のことが何となく分かったの。でもホントにさっきと違ったからびっくりしちゃって。何だろうね、別れたとかそんなのなのかね。でも思ったんだけど、ちゃんと家に帰ったら奥さんいるといいよね。別にわざわざ喧嘩したいわけないもんね。その人が電車に乗った後掃除してたら目薬落ちててさ、多分サラリーマンの人のだと思うんだけど、もし取りに来たらと思ってまだ駅員室にとってるんだ。
その日の帰りに遅番の人とそのこと話したらさ、また山口さんのこと教えてもらって、何かっていうと、山口さんそういうの慣れてるんだって。長く勤めてきてるから何回もそんなのがあって、何か立ち位置とかあるんだって、喧嘩の時とかの。で、全員の動き見てるんだって。空手で言うと「遠山の目」っていうんだって。全部見渡すっていうやつ。それ聞いて何か自分が迷惑かけたような気がしたから、次会った時山口さんに謝ったのね。そしたら何も言わずにニカッって笑って頭ぐりぐりなでられた(笑)
山口さん見てると、このまま駅員やっていくのも人生かな、なんて思う時があるよ。でも前に飲んでるときその話したら、そういうこと簡単に口にするなよ、って怒られた時があってさ。なんかそれから、とにかく一生懸命やって行動で語るようになりたいって思ったのね。って言ってもまだ口が先に出ちゃうけど。でもそうなりたいって思ってるんだ。
この話で心配したらごめんね。でも大丈夫だから。山口さんの立ち位置だけは覚えたから。駅はいろんな人が出たり入ったりするからね。毎日毎日すごい量。いろーんな人がいろーんな気持ちでいるからね。休みもスタジオとかしかいないから、僕にとっての東京は自分が勤めてる駅のような気がするよ。
じゃ、CDできたらまずかぁちゃんに送ります。多分夏休み前くらいにみんなとずらして帰るよ。正月には電話するね。みんなによろしく。小虎の赤ちゃんにも。
ホーム〜in the night〜
タイムアップ。今日もあの人は帰って来なかった。
帰ってくるとしたら午前二時までには何かしら連絡がある。それはメールだったり、電話だったり、突然帰ってくることもあるけれど、どちらにしても午前二時までには何かしらのコンタクトがある。それはこの三年間の中で、私があの人について分かったひとつの事実だ。
もうひとつの事実として、他の女のところへなど行っていないということ。他の人に言わせれば事実かどうか分からないことかもしれないけど、私にとっては事実。彼はただ、街中でアルコールを口に運びつづけている。外で飲むのが好きとか、帰ってくるのが嫌だとか、そんなことではなくて、彼は「孤独」という病気に蝕まれているんだ。「孤独」を避けたいくせに「孤独」を求めてしまって、そしてそれにはアルコールが一番役立つということなんだろう。
一緒にいる時の彼はいたって問題無い。話もするし、家事だってするし、一緒に計画を立てて旅行に行ったりもする。勿論愛し合ったりもする。でも一年に何回か、彼は帰ってこなくなる時期がある。それは年間を通して、ということではなく、ある時期に連続で集中的に、ということ。その時期はきまって秋口に訪れる。そんなときの彼はまるでそこにいない人のようだ。実体ではない意識、しかも湖の底のように暗く静かな意識だけがそこにあるかのようだ。
私はそれでも彼を愛しているし、彼も私を愛してくれている。だけど愛するとかそういう問題ではなくて、ただ私は彼から離れようと思っていた。
夕方、仕事から帰る電車の中で彼からのメールが届いた。渋谷で飲んでくる、というメールだ。彼は埼玉で働いている。私達の家は横浜にある。私は横浜で働いている。一度そんなメールが来たとき、一緒に行ってもいいか、と訪ねたことがある。彼は快く「いいよ」と言ってくれた。きっと誰か友人と一緒かと思うと彼は一人だった。彼の行きつけのバーへ行き私達は二人で飲んだ。彼は尋常ではないペースで色々な酒を飲んでいた。私が話しかけても彼はアルコールを口に運ぶことに集中していて、そして虚ろな目をしていた。私はその後彼と駄目になると思っていたのだけれど、家に帰ってからの彼はいたって普通だった。
一度、飲みにいくのを止めたら、と言ってみたことがある。彼は笑って「うん」と言った。その夜彼は過呼吸になって病院に運ばれた。その時私は分かった。この秋口の集中的にアルコールを摂取する時期は、彼がこの世界と繋がっているために無くてはならないものなのだと。何でかは分からない。だけど、実際そうなのだから仕方が無いし、実際何か問題があるわけでも無い。ただ、、、私が寂しい思いをするだけ。
大丈夫だと思いたかった。でも駄目だった。私はそんなに強くなかった。三度目のこの時期が来て、私は私なりに生きようとしたのだが、この間、彼が明け方に帰ってきて、トイレで全てのアルコールを吐いている音を聞いた時、何かがプツリと切れた。その音はまるで彼が自らの中に蓄積した孤独を吐き出している音のようで、彼の中の孤独に、私自身が耐えられなくなったのだろう。
シャワーを浴び、缶ビールを開けて、テレビをつけると私の好きな、ある六十年代の女性ヴォーカリストの特集がやっていた。彼女は生命を絞るように歌っていた。私が彼女の歌に出会ったのは東京に出てきてからだった。
地元にいたころは、人を励ますような歌を好んで聴いていたのだけれど、東京に来てそんな歌が嘘くさく思えてきた。むしろ励ます歌を憎くさえ思った時期があった。頑張れ、元気だして、、、。私はがんばっていたし、元気なんて意味さえ分からなかった。そんな時、タワーレコードで丁度ウッドストックコンサートの特設コーナーがあって、私は彼女に出会った。英語は全く分からないけど、彼女の歌声は寂しげで、でもその寂しさに甘えてはいなくて、強かった。私は音楽に対して初めて魔法を感じた。完璧に表現された寂しさは、寂しさを中和してくれるということを知った。
テーブルで私がビールを飲んでいる中、彼女はテレビの中で歌い続けていた。
No no no no no no no no no Don’t you cry
曲のクライマックスで彼女は世界中の寂しさを全て受け入れながら歌い、最後に無邪気に笑った。泣かないで、私にも分かるその一節は、私に「大丈夫」と言ってくれた。
歌の余韻の中、今日実家から届いたダンボール一杯につまった梨を一個取り出して剥いた。ひとかけら食べると、それはみずみずしく、甘い梨だった。私は彼にも、このみずみずしくて甘い梨を食べさせてあげたかった。ラップをしてそれを冷蔵庫に入れて、私は彼にメールをうった。何てことはない内容だったけど、私は彼と一緒に飲んだあの日から、彼のそういう時間にたとえメールであっても入り込まないようにしていた。でも、私は入り込もうと思った。私は純粋に思った。この梨を口に入れた時の気持ちを、同じように彼にも味わってもらいたい、と。
午前四時、私はひとりベッドに入った。まだ外は暗いけど、確実に朝の始まりを含んだ空気の流れを感じる。私は孤独だった。でも孤独じゃなければ他者は求めない。全てが満たされているなら、そこには何も入る余地は無い。私はベッドの片側にあるスペースに彼を思った。そしてそこに私自身の孤独を感じた。彼は何か気づいてくれるだろうか。でももし気づけなくても、帰ってきて私に寄り添ってくれるなら、それでいいのかもしれない。彼は私の温度を感じて、私は彼の温度を感じて、私たちはそこにささやかな魔法を見つける。それは多分、とても素敵なことなのだと私は思った。
静かにフェイドインしてくる朝にクロスフェイドして、私の眠りが訪れた。
このたびはお読みいただきありがとうございます。
個人のサイトで過去に発表している長編も次回コチラで改めて発表させていただきます。
また機会ありましたらお読みください。