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けあらしの朝 21  作者: 翼 大介
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人生迷い道

 M食品から採用通知の連絡が入ったのは面接日から4日後のことだった。給与の〆日の都合で20日からの就業となるが、それまでに諸々の手続きをしておくように言われたのですぐに出向くことにした。インターバルは10日あるがこうしたことは迅速に済ませておいた方が後々悪い印象を持たれることが少ないのを営業職時代に身を持って知っていたから急いで支度を始めた。今日はスーツもネクタイも革靴さえも必要ないがさりとてあまりにもラフ過ぎるのもまずい。ジャージ姿と言うわけにもいかないだろうと組み合わせを考えた末にチノパンとポロシャツに落ち着いた。

 (ずっと上下ジャージでたまにワークシャツとジーンズに変わるだけだったもんな)

 チノパンもポロシャツもクローゼットに放り込むように仕舞っておいたのでしわくちゃになっていた。いくらなんでもそのままでは着れたものではない。アイロンは使うこともないだろうと処分してしまったから現在は手元にはない。仕方なしに手のひらで引き伸ばしてどうにか多少は見映えが良くなったのでそれで妥協することにした。第一におしゃれしたところでデートする相手もいない。これで何ら問題はないのだと自虐的な言葉が出たが、単に身だしなみにだらしなくなったことは確かでむしろ衣類に金をかけずに済むではないか。そしてその金をパチンコに回せる。自虐を無理矢理にプラスの方向に持って行こうとして考えることを止めた。

 「おっとっと。つまらないことで自問自答している場合じゃないんだよ。採用が決まった事はゴールではなくスタートなんだ。いや俺の場合はリスタートと言うべきか」

 何はともあれ採用が決まった事実を素直に受け止めて初夏特有の湾奥の匂いを嗅ぎながらM食品まで自転車を漕いだ。事務所に顔を出すと総務部長の平田が応対して手短に工場の概要と博之が配属される予定の部署の説明を行った。この日は工場の中には入れないので想像を膨らますしかなかったが事務所から微かに見える作業場で働く人間の動きは片時も止まらない。たまたま忙しい時間帯ゆえそうなのかは判断しかねたが草野球で身体を動かしていたことは間違いではなかったようだ。

 ぼんやりとフォークリフトが行き交う様子を眺めていると目の前にA4判の茶封筒を差し出された。20日の入社当日に提出して欲しいと言われて封筒を開けて中身を見ると雇用契約に関する書類とその他の物は簡単な調書のように思える書類であった。それらを受け取って事務所を出るといよいよこの会社で新しい一歩を踏み出すのだという実感が沸いてきた。面接当日と違いバッティングセンターに行きたい衝動に駆られた。もちろん着替える必要がないのでそのまま向かった。

 けせもい市には朝野球という仕事前に行われるものとサンデー野球という日曜日の昼間行われる二つの草野球リーグがあって博之はどちらかに加入しようかと考えていたがM食品は出勤時間が早いため朝野球は時間的にキツい。また残業も多いので日曜日はゆっくり休養に充てないと疲れも抜けないだろうと加入を見送ることにした。

 (普段の仕事が運動みたいなものだし野球はバッティングセンターで打ち込みやるだけで十分さ)

 夏至も近づいてまだ明るさの残るバッティングセンターで博之が放った打球は仙台にいた頃よりも力強さを増しているように思えたので調子づいてかなり打ち込んでしまった。気がつくと5セット分も打ち込み、かなり汗だくになっていた。そのままアパートに帰って風呂に浸かり採用決定の祝杯をと思ったが実家に報告に行かねばなるまいと考えを改めた。

(別に電話でも構わないのだろうがM食品で求人があることを教えてくれたのは親父だ。それに実家を出てアパートに住むことにしたとはいえ今後、洗濯やら食事で世話をかけることになるのは避けられない。ここは直接出向いて話すのが筋ってもんだろうな)

博之はいったんアパートに戻り納車が済んだばかりの中古軽自動車で実家へ向かった。着くと庭の隅っこで丸くなっていた柴犬のコロが尻尾を振って立ち上がった。今が一番元気な盛りなのだろう。表情が生き生きとしている上に動きも軽快だ。

「よし、今日はここに泊まろう。どっちみちビールを飲むことになるのだからアパートに帰るのは無理だ。なあコロ、明日の朝は俺と散歩に行こうな」

博之がコロの顎を撫でながら視線を合わせて話しかけているところへ父親がいかにも風呂から上がったばかりという恰好で庭へ出て来た。

「おう、なんだ早くも独り暮らしに挫折しちまったか。まあせっかく来たんだから一風呂浴びろや。俺は先にやってるからな」

父親は右手でコップを持つ仕草をしながら言ったがその言葉尻には本当に挫折して帰ってきたものと信じている響きが感じられた。しかし博之は気色ばむこともなく言葉を返した。

「挫折?違うって、報告に来たんだよ。お陰様でM食品から採用の連絡があって今しがた入社する時に提出しなければならない書類を受け取りに行ったばかりだ。仕事に出るのは20日からになる」

「なに、本当か。そいつは良かった。俺はまず採用される見込みはないだろうと思っていたんだが嬉しい誤算だ。とにかくさっさと風呂に入れ、話の続きはそれからだ。おおい母ちゃん、博之のヤツ採用されたってよ」

 (やれやれ親父は早いとこビールを飲みたいだけだろ。それは俺も同じだからお言葉に甘えるとするか)

 アパートの風呂と違って実家の湯船は広々としているので思う存分に手足を伸ばせる。博之はどっぷりと浸かり心ゆくまで寛いだ。風呂から上がると父親はすでに2本目のビールに手が掛かっていた。今までの事を考えれば予想出来た行動ゆえ何も言わずに自分で冷蔵庫からビールを取り出して一気に飲み干した。バッティングセンターで流した汗と風呂で流した汗を埋め合わせるには最高の飲み物であり、五臓六腑に染み渡るという感覚が黄色く泡立った液体の向こうで研ぎ澄まされる。そして至福という言葉も同時に胃袋の中に流し込まれていった。博之は風鈴が涼風に揺れ動く様子を眺めながら縁側に腰を降ろしていたが何を思ったのか、父親がいきなり採用決定の乾杯をやろうと言い出した。

 「どうしたんだ。矛盾たっぷり過ぎるぞ、だいたい親父はすでに2本開けてるし俺だって1本飲み干したところだ。それにウチじゃ今までなんかの節目にそんな儀式めいた事やったことなんてないんだ。止めとこうぜ」

「うへ、確かにお前の言う通りだ。ところでM食品には俺の知り合いが何人かいるがあえて息子をよろしく頼むとかは言わないでおくからな。どうせいずれ知れることだ。ああ、お前の同級生がいる可能性もあるな。なんせ従業員が200人を越す大所帯だからな、しかし人数の問題じゃねえ。仙台の会社と違ってどこへ行ったって知り合いの一人や二人はいるもんだ。そうした存在は心強い反面、やりにくく思う時もある。その辺は覚悟しておけ」

父親の口調には嬉しさ半分、戸惑い半分という響きが感じられたがいったん地元を離れた人間が戻るメリットやデメリットの指摘は素直に受け取った。

「分かったよ。でも親父は別の業界に行って欲しかったんだろ。この街では加工業以外だと公務員とかスーパーなどのサービス業などか。公務員は年齢的に圏外だし、サービス業も営業が肌に合わなかったから当然アウトだ。強靭な体力があればトラック運転手でも良かったんだけどな。いずれにしろ当分独り暮らしになるから気楽にやるよ」

「そいつだ。いいか博之、由里子さんのことは絶対に口に出すな。どうしたって婚約者を亡くして失意の果てに故郷に戻った人間という烙印を押されちまうかも知れん」

「大丈夫だよ。そのことについては俺も考えていた。仕事のことは話すけどプライベートなこと、例えば彼女がどうのこうのと話題を振られたら適当にごまかすつもりだ」

 「それならいい。あとだなM食品では普段の仕事以外いやこいつも仕事の一環になるのかな、俺はよく知らねえんだが何とかサークル活動とか言うのがあって社員ともなるとそいつの資料作りなんかで頭を悩ますらしいぞ。俺がいた会社はどこもそんな七面倒くさいものはなかったから助かったけどな」

 そのような話を聞かされても入社前の博之は今一つピンと来なかった。平田の口からもそうした話は出なかったし資料作りくらいなら前の職場でもやっていたから何とかなるだろうと考えた。それよりも父親が話した中に地元に戻ったことで生じるしがらみという問題があったことをどうクリアすべきか頭を抱えたが、いざ仕事が始まってみるとそうしたことに神経を尖らしている場合ではなかった。覚えることがたくさんあるのに加えて営業職時代のスケールをあてがいようがない職場だということをこれでもかと言うくらい思い知らされたのである。主任や係長クラスの人間はほとんど現場に居て、博之は監視をされているような気持ちにさえなった。彼らはしかめっ面をしていることが多い。それでも時おりジョークを飛ばしたりもする。S製菓時代に研修で訪れた新潟の工場と重なるところはあるが、あの時とは事情が違う。由里子のことを隠すために違う自分を演じながら仕事に従事しなければならないプレッシャーが日に日にのし掛かって来た。いつしか博之は周囲に無口で陰のある人間という印象を与えてしまったようだった。


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