芭蕉の扇
江戸八百八町には、不思議なことがある。
遠江町にある町火消の詰所には、巨大な団扇が一つ吊るされている。
天狗の団扇というものがあるならば、まさにこれがそれであろうというような。
鉄の骨に、何枚にも重ねられた紙。人が操り風を煽るには、あまりに貫目があり過ぎる。
それは噂話と共に鎮座する。
人の道具の範疇を超えたそれを、怪力にて操る者がいれば、それは雷神なり。巻き起こる風は雨を自在に降らせるであろう。
ある日、通りかかった力の強い大男。名は牛兵衛。呑気で、人の好い、そのタジカラ振りをもったいないと揶揄される、のんびりとした男。
その男を、火消しの頭が問い詰めた。
「何か、言い訳あるか?」
「その、皆が振れ振れと言うもんで、つい」
梅雨には早くて、長すぎる江戸の雨。
三年前、そんなことがあった。
そして、三年後。
江戸が燃えている。
火の手が迫る屋根で、焼景を前に諸肌脱いだ大男が滾る。
その瞳孔はただ炎を映し赤く、その図体は火影に照らされ紅く。
腰を深く落し、肩に担いだ大団扇。
大雨を呼ぶこの世の不思議。二年前の梅雨以来、雨を呼べたことがない。あれは、ただの偶然か。
だが、である。
不思議が起きるならば、今なのである。
「南無八幡大菩薩」
誓いと祈りを口にして、大男牛兵衛の剛力が爆ぜた。