忍び音
彼は振り返る。
* * *
小学校の同級生は、彼にとって、みな気心の知れた友達であった。
友達は彼の家を訪ね、彼も友達の家に行き、菓子を食べ、ジュースを飲んだ。家の中では漫画本を読み貸しし、家の外では野球のまねごとをして遊んだ。
体育の時間では汗を流し、ほかの授業で頭を悩ませ、休み時間には流行や、ゲームの話で盛り上がり、そして、屈託なく笑っていた。
学校に行き、友達と遊ぶ。それが彼には、永遠に続くものと思われた。
だが、卒業式の当日、彼は違和感を覚えた。
真新しい制服を目前にし、袖を通し、式に出、証書を受け取り、式が終わってけれど、拭い去れない違和感を彼は、もどかしいものと感じていた。
友達は、泣いていた。笑っていた。卒業の証しを手に、卒業の花を胸に、次の段階へ期待を膨らませ、不安ながらに近い先を思い描いていた。
沈痛な表情をしていたのは、彼だけだった。
* * *
中学生になった彼の違和感は、消えるどころかむしろ膨れ上がっていた。
同級生はみな、顔見知りであった。ただそれだけであった。友達は大勢のなかで一握りだった。それで満足していた彼だけれども、今度は居心地の悪さを覚えた。笑顔でにぎわいながら、陰湿な陰りと衝突の絶えないこの濃密な空間に、彼の居場所は、まるで無い。
そして箱に押し込められた集団は幼く、拙く、それでいて無慈悲で、彼はますますもどかしさを感じた。それは苛立ちに変わっていた。
二度目の卒業式は感慨も無く終わった。
先輩と後輩、同輩の入り乱れる校舎に冷めた一瞥をくれながら、かの違和感が鳴りをひそめたのを知った。彼は首をかしげた。今はどちらなのだろう。
寂れた校舎を見上げて、黙念としている彼は大勢のなかにあって、誰の心にも留まらなかった。
* * *
高校に入学し、彼は真新しい制服に着替えた。
制服はただの服であり、布のはずだった。なれど彼には、今現在も続く呪詛のように思えてならなかった。呪詛は、たとい脱いでも消えることのない、毒のようにも思われた。
同級生は、友達でも、顔見知りでもなく、みな、ただのクラスメートだった。
彼は日々が経つにつれ、泣きたくなる衝動を覚えた。小学校のころに親しんだ音楽を聴いては目頭を熱くし、中学校のころに親しんだゲームを遊んでは目尻を熱くした。泣きたくなる理由が、彼には理解できなかった。
不安は恐怖だった。
* * *
七日、十日と月日が流れ、進級し、ひと月、半月と時間が過ぎ去ろうとも、彼は抗おうとし、流されまいとし、負けまいとして、そうして三年目の春を迎えた。
部活を引退した彼は、夜、帰宅してすぐに風呂場へと向かった。
服を脱ぎ、扉を押し開けて、閉めて、冷ややかな空気のなかシャワーのコックを捻る。一瞬の水、次いで湯が彼をまんべんなく濡らす。彼はまず身体を石鹸とタオルとで乱暴に洗い流し、次に頭を大雑把に洗った。
ザアザアと音を立てて湯が彼の頭を、腕を、腹を、足を洗い流す。湯に洗われつつ、これまでの日々を彼は唐突に思い返した。
楽しかったか、退屈だったか。
彼は振り返る。
湯を浴びながら、彼は両の目を閉じ、両手で覆い、嗚咽をもらし、声を殺した。一分にも満たない時間、彼の感情の発露は止めどなく溢れ、流され消える。
* * *
落ちついた彼はコックを捻り、湯を止めて、吐息とともに怯えを、吐き出した。
――― これで、今しばらくは、この恐怖に耐えられそうだった。