《覚醒士》(後)
東門から街を出たヒポグリフ達は、騎手の手綱に従って東南東へと駆けていく。
鋭い鉤爪を備えた猛禽の前肢が道を掻き、馬の蹄の後肢が力強く地を蹴って土埃を巻き上げる。グリフォンに比べて翼の小さいヒポグリフは、空を飛ぶことよりも地面を走ることを得意としているのだ。
灌木のちらつく草原に作られた道を小一時間ほど進んで、ジグレイとティムは目的地であるシブレスの森に到着した。
森の入口から逸れたところに小さな流れがある。その小川でヒポグリフ達に少し水を飲ませ、近くの手頃な太さの木の幹に手綱を結び付けておく。
「ここで待っていてくれ。なにかあったら鳴いて知らせるか、手綱を切って飛んでもいい」
ジグレイが言い聞かせると、二頭はクウゥと了承の鳴き声を返した。
ヒポグリフは本来矜持の高い生き物なのだが、幼獣のうちから誠実な人間の手で丹誠込めて丁寧に育てられると、信頼を得た人間の言葉をよく聞くようになるのだ。
革の手綱は丈夫に作ってはあるものの、その堅い嘴にかかれば食いちぎることは可能だろう。
しかし、よく世話された傭兵隊のヒポグリフ達に対して逃げたり暴れたりする心配は必要ない。
一頭は再度小川に近づいて水面をつつき、もう一頭はおとなしく木の根本に身体を寄せて地面に伏せる。
鷹の上体、つややかな手触りの暗褐色の羽で覆われた首元を優しく叩いて労うと、ジグレイはティメオを伴って森の奥へと続く小道に足を向けた。
歩きながら今回の依頼について簡単に説明する。
「昨日はアンテンス山脈まで行っていて、閉門時刻には間に合わないからシブレスの集落に泊めてもらったんだが……『耳』を持っている木こりの娘が、昼間のうちに洞窟の中から『声』を聞いたって話があってな。なんでもひどく泣いていたとかで、辛くて聞いていられないとその子も不安がっていたらしい。父親がそう話していた」
「その女の子、『耳』塞げないの?」
「あぁ。そのうえ『耳』がいいらしい」
「それは災難だったね……」
話を聞いたティメオは少し眉を下げた。
『声』を持った石、というものが、時折見つかることがある。
それは一見普通の鉱石の原石であったり宝石の原石であったりするのだが、普通の石とただ一点、声を発するという点において大きく異なっていた。
そしてその石は、一部の人間達の間で非常に高い付加価値が付く。
そのような声を持つ石と意思疎通することのできる能力を有する人間は《理解者》と呼ばれていた。
ジグレイとティメオももちろん、《理解者》である。
石の声は当然誰しもが聞けるわけではないのだが、実は聞こえる能力を持った人間というのはわりと存在する。
そうした者は、『耳』をもっている、と表現されるのだが、彼らのほとんどはその力を制御しきれないことが多い。言うなれば、受信専用の通信機のようなものだ。
石が声を出している時には聞かずにいようと思ってもその声が聞こえてしまうし、自分から石に話しかけようとしてもそれはできない。
《理解者》はその数が少ないが、ただ単に『耳』を持っている人間の数は――力の強さに差はあるのだが――《理解者》の約十〜二十倍ほどに上る。聞こえるだけならさほど珍しくはないということだ。
開けた場所に出た。木造の家がいくつも立っている。
この森で暮らし、森の恵みで生きる人々が集まってつくった集落だ。
家の前でなにやら作業をしていた男が顔を上げ、二人に気づいて笑みを浮かべた。
人の良さそうな、まだ若い男だ。
「コランさん、早かったですね!」
「いえ、遅くなってしまってすみません」
ジグレイは苦笑して軽く頭を下げる。ちなみに「コラン」というのはジグレイの姓である。
「いやいや、本当に昼前に戻ってきて下さるなんて思ってませんでしたよ。かなり馬を飛ばしても、もっと時間がかかるはずでしょう?」
「僕たち、ヒポグリフで来たんですよ」
「――え?」
驚きながらも嬉しそうな男の疑問には、向かい合っているジグレイの横から答えが返った。
「はじめまして、僕はティメオ・メリフェルといいます。《覚醒士》のジグレイ・コランと一緒に仕事をしている、《仲介人》です」
《理解者》である人間は大半がその能力を活かした職に就く。
鉱山や、今回のように洞窟、他にも土や岩の中、時にはもっと珍しいところからも見つかることがあるが、主に自然の中から発見される声を持つ石は、見つかった時点ではそのほとんどが眠っている状態である。
つまり、寝言を聞いた人間が声を持つ石を見つける場合が一般的なのだ。
眠ったままの石はその一部が周囲の岩盤や土と強く結合しており、取り出すことができない。
無理矢理に引き剥がしたり砕いたりすると、途端にただの石になってしまう。
同じ宝石の原石でも、声を持つ原石とただの原石とでは価値が全く変わってくるため、余程欲のない人間か考えなしでない限りはそんな暴挙は行わない。
ではどうするかというと、眠っている石を起こすのだ。
石が目を覚ませば周囲との結合は解消され、普通に取り出すことができる。
力強く語りかけて、声を持つ石の眠りを覚ます。
それが《覚醒士》の仕事だ。
そうして《覚醒士》に起こされた石は、《仲介人》の手に渡る。
鉱石や宝石の原石であるから、当然のことながら製錬、または整形・研磨する。
しかし声を持つ石の場合、石が望む形に加工すると抜群に質の良いものが出来上がることが知られていた。
寝ぼけた状態であったり起こされて機嫌を損ねていたりする石に、優しく語りかけて望む姿を聞き出す。
それが《仲介人》の仕事である。
そして《仲介人》にとっては寝言も重要な手掛かりとなるため、《覚醒士》の仕事に同行することもしばしばだった。
にっこり笑っての突然の自己紹介にまばたきをした男だったが、こちらもすぐにまた笑顔を見せて名乗る。
「《仲介人》の方でしたか。どうもはじめまして。私は、この森で木こりをやってるトロン・ハッシュです。さっそく例の洞窟に案内しますのでついてきて下さい」
トロンが二人を誘って歩き出そうとすると、小さな影が飛び出してきてその脚に取りついた。
「お、っと。――チェルム?」
視線を下ろすと、ズボンにしがみついているのは四つか五つくらいの女の子だ。小さな身体は震え、ギュッと強く閉じられた目元には涙が滲んでいる。
「その子が、石の声に気がついた『耳』を持ってる子ですね?」
その様子を見たティメオがトロンに確認すると、彼は眉尻を下げて頷く。
「はい。私の娘なんです。チェルム、また泣き声が聞こえるのかい?」
「っ……」
脚にしがみついたまま問いかけに頷いたチェルムは、さらに強く父親に抱きついている。
心配そうに娘の頭を撫でながら、トロンは困ったようにさらに眉を下げた。
「昨日の昼はずっとこんな調子で……夜は泣き声がやんでいたようで、今朝もさっきまでは『今は泣いてない』と言っていたんですが」
「えぇ、また泣き出したみたいですね。……チェルム?」
ティメオの優しい呼びかけに、彼女はそっと顔を上げる。
若葉色の髪を肩まで伸ばして二つに結っている。柔らかな茶色の瞳は涙で潤んで、眉はひどく不安そうに寄せられていた。
華奢な肩を手で包み、ティメオはしゃがんで彼女と視線を合わせる。小さな頭をそっと撫でた。
「悲しいんだね。女の人が泣いてるの、僕にも聞こえるよ」
「……おにいちゃんにも……?」
「うん。聞いてる方まで悲しくなっちゃうくらい、辛そうな泣き声だ」
「そうなの。きのうのおひるはずっとで、むねがいたくて、チェルもかなしくてないちゃった」
「大丈夫だよ、チェルム。今からこのお兄さんが洞窟に行って、泣きやんで、って慰めてきてくれるからね」
未だ不安げな表情ながらこくんと頷いたチェルムは、ティメオに示されたお兄さんを見上げる。
「おにいちゃんも、きこえてるの?」
「……あぁ。きっと、悪い夢でもみてるんだろう」
チェルムを見下ろして頷き、視線を上げて声のする方を見遣ったジグレイは、少女の父親に向き直った。
「お子さんのためにも、とりあえず石のところへ行ってみましょう」
「えぇ、こっちです。チェルム、お前は母さんと家にいなさい」
家の扉の前で先ほどから心配そうにこちらを窺っていた女性を示してトロンがそっと促す。
「チェルはいけないから、チェルのぶんも『なかないで』っていってあげてね」
そう言って離れた小さな背中を母親の元まで見送り、三人は洞窟へと向かった。
「あそこがその洞窟です」
シブレスの森は針葉樹が多いのだが、トロンが指差した一角には枝を低く広げた広葉樹が茂っていた。
洞窟は樹木がつくる陰に溶け込むように口を開けていて、目ではわかりづらい。
近づくほどに大きくなる『声』を聞いていた二人は、洞窟の前に立って暗闇を見遣った。
「あの子の『耳』がいいのもたしかだろうけど、この声の強さじゃあ子供の感情が引きずられるのも仕方ないかな」
「……そうだな。思っていたより時間がかかるかもしれない」
森が紡ぐ普段通りの音しか聞こえていないトロンには二人の会話は理解できなかったが、意味を訊ねたりはせずに別のことを言った。
「中まで案内しましょうか?」
「いえ、位置は聞けばわかります」
「そうか……さすがですね。大した奥行きも別れ道もありませんし、足元だけに気をつければ危険はないと思います」
「そうですか。ありがとうございます」
目的のもの自身が発する声を辿るからと申し出を丁重に断った後、助言に礼を言ったジグレイは、トロンが用意してくれたランプを持ってさっそく洞窟内へと踏み込んでいく。
「ハッシュさん、僕らがすぐに戻ってこないようなら、遠慮なく集落に帰っていてください。終わったらちゃんと報告には寄りますから」
「わかりました、よろしくお願いします。……気をつけて」
柔和な笑みを浮かべて頷くと、先に暗がりに消えた背中をティメオも追った。
トロンが教えてくれた通り、洞窟内は至って単純な構造をしていた。
そして、女性の悲痛なすすり泣きの声に満ちている。
下の凹凸に気をつけて進み、入口の気配が感じられなくなる頃には、二人は声の発信源を特定できていた。
洞窟のほぼ突き当たりだ。
岩盤に手を当てると、ジグレイは腰に下げた革のホルダーから片刃の鶴嘴を手に取った。
尖った先を繰り返し岩に突き立てて削れるところまで削っていく。
やがて、ランプの灯りを微かに反射する面がほんの少しだけ現れた。
「宝石の原石だね。……さすがにこの状態だと、ちょっとよくわからないな」
「とりあえず呼びかけてみる」
「うん」
近づけていたランプをティメオに預け鶴嘴を仕舞ったジグレイは、右手の厚い革手袋を外して原石に直に掌を当てた。
静かに息を吸い込む。
「――聞こえるか? こっちだ。俺の声が聞こえているか?」
石の意識を引き寄せるように声をかけた。
「聞こえるなら、返事をしろ」
ジグレイの呼ぶ声に、洞窟内のすすり泣きが少し弱くなる。
石は眠っているのだが、これは人間で言うところの意識レベルが下がっているような状態である。
半覚醒の意識を説得して完全に覚醒させるのが、石を起こすという行為だった。
『だれなの……いや、かなしいの……』
掌の下から、か細い声が応えた。続けて呼びかける。
「俺はジグレイ・コラン。さぁ、起きるんだ」
『あぁ、あぁ、あぁ。どうして。どうしてかしら、とてもかなしい。あぁ、かなしいのよ……!』
一度弱まった泣き声が、嗚咽になってぶり返す。
身体に染み込んで直接胸を締めつけるようなそれを聞きながらも、ジグレイは冷静に繰り返した。
「起きるんだ。悲しいのは、お前が悪夢をみているからだ。眠りから覚めれば、その夢も終わる」
『……ほんとうに……?』
「あぁ。だから早く、夢の中で泣くのはやめて、目を覚ませ」
根気強く呼びかけを続けるジグレイの声に、泣き声が徐々におさまっていく。
それも完全に聞こえなくなった頃、ジグレイの掌の下で岩盤が軽い音を立てて細かく砕け、粉塵がばらばらと下に落ちた。
ジグレイが深く、息を吐き出す。
「――わりと素直な性格だったね」
それまで一言も発さずに離れて立っていたティメオが、小さく笑って肩を竦めた。
「そうだな」
姿を見せた原石をそっと岩盤から取り出して表面を軽く払う。
「……おはよう」
ジグレイは彼には珍しい柔らかな声で、手の中の原石に一言、挨拶をした。