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楽園に響く声  作者: 杉崎みのる
【第一章】
2/8

目覚まし時計(前)


一応は中世~近世(?)あたりのイメージで書き始めてみましたが、その時代には絶対存在しないだろう、仮に存在したとしてもその名称じゃないだろうというような物もぽんぽん出てくると思います。

違和感を覚える方はごめんなさい。


ファンタジーな異世界ということでご容赦ください。


よろしくお願いします。




 きこえる?







 歌い


 叫び


 唸り


 囁く声が








 この声が、きこえている?










 鐘の音が遠い。今日は晴れるらしい。


 日が昇る前の薄明るい空を見上げて目を細め、男は左肩に掛けた背嚢(はいのう)の紐を引き上げた。


 年の頃は二十代といったところか。背丈は成人男性の平均よりは少し高いほどで、身体つきもしっかりしている。空模様をうかがった後はまっすぐに進行方向のみを見据える瞳は灰紫。少し目にかかる前髪以外短く刈られた濃灰色の髪はほとんど黒に近い。


 いくつかの馬車が停まっている大通りから脇に逸れて住宅の並ぶ通りを歩くうち、空は徐々に明るさを増してきた。

 家々の煙突から細く煙が上がり、住人達の気配が強くなる。


 通りに建つのは住宅ばかりではない。 宿屋や飲食店なども混在しており、早朝から開店しているパン屋には朝食に焼きたてのパンを求める主婦達の姿が見える。


 男も馴染みの店へと足を向けた。


 赤煉瓦造りの直方体に斜めに片屋根を被せただけのその店は、通りに面した壁の一部が四角く口を開け、立った人間の腹辺りの高さにカウンターを備えている。そこでやり取りするだけの小さな売店だ。

 男がカウンターに歩み寄ると、頭巾(ずきん)を被った女性がすぐに気付いてひょいと顔を覗かせた。


「あらまぁ、ジグ! 仕事帰りかい?」

「いや。これからまた仕事ですよ、マーサさん」

「あぁ、ティムのところだね?」


 五十を過ぎても元気の良いマーサは話しながらもてきぱきと動き、注文も受けずに用意した茶色の紙袋を差し出してくる。

 カウンター越しに袋を受け取って銅貨を手渡した男は黙って肩を竦めた。軽く片手を上げて再び歩き出す。


「まいどあり!」


 声を背に受けながら、マーサの店の角から細い路地へと入る。春先、朝方の空気は清々しく、路地の空気は外套(がいとう)越しにも少しばかり冷ややかだ。


 短い階段を下ってしばらく静かに歩き続けると、突き当たりの空間は少し開けたようになっている。そこに目的地が見えた。


 赤い屋根の小さな家だ。

 細い蔓が這い、緑の葉を茂らせている白い外壁にはこちらに面した窓が一つ見えるが、カーテンは閉ざされている。

 暖かみのある厚い木の扉の左上には金属製のプレートが下がっており、そこに刻まれた文字はこの建物が工房であることを示していた。


「――アシエ。起きているか?」


 戸の前に立ち、滑らかな低音で男が尋ねる。

 その声は家の中に呼びかけているにしては足りないように思われる声量で、目前に対峙した相手に対する程度の大きさだ。

 周囲に人影はない。猫や小鳥すら見当たらないのだが、しかし呼び掛けにはすぐに(いら)えがあった。


『いいや、あれはまだ寝ておるよ』


 多分に笑みを含んだ深みのある男声だ。 丸い声音からは歳を重ねた者の落ち着きが感じられる。

 その声の持ち主は自分が眠らない(・・・・)ことを承知していたので、男の『起きているか』という問いがいったい誰についてのものか、正確に捉えて答えたらしい。


 そしてそれは、男の頭より少し上にある鋼の板から発せられていた。


『おはよう、ジグレイ。とは言うても、眠ってはおらんだろうて』

「あぁ。だから余計に腹が立つ」


 降ってくる声に男は嘆息を返す。

 髪と同色の眉を寄せた彼が呆れと怒りを感じているのはアシエに対してではない。

 まだ眠っているのだという、この工房の主こそがその対象だ。


『程々にしておやり』

「それで済むならな……」


 眉間に深いシワを刻み不機嫌さを隠さずに扉を開けて中へ入る男を、なおも笑み混じりの柔らかな声が見送る。




 それから、しばらく。










「――起きろ、仕事だ!!」









 どうやら程々(・・)では済まなかったらしい声が、大きく響いた。





「まだ眠いんだよ、グレイ」


 ミルクをたっぷり入れた紅茶の色の髪がぐしゃぐしゃに乱れている。元々癖のあるそれを片手でさらにかき混ぜながら、寝ぼけ眼の男はそう宣った。

 ジグレイの口から低い声が漏れる。


「……おい、ティー」

「だってほら。見てごらん」

「聞いてるか、ティー」

「今は何時かなぁ、プラティーナ?」


 地を這うような呻き声で自分の名前を呼ばれているのに、男はまるで気にも止めない。

 ふわふわと緩い口調で紡がれた問い掛けに答えたのは、ベッド脇のチェストの上に置かれた懐中時計だった。


『午前六時三十一分四十秒と少しよ、ティメオ』


 少女と大人の女性の中間のような、もしくは、大人になっても少女の心を忘れていない少し夢見がちな女性――そんな印象を抱かせる、甘やかな声だ。


 明るい銀色に輝く彼女をチェストから持ち上げて、ティメオは頬を寄せた。


「ありがとう、ティーナ~! 今日も君は素敵だ」

『ふふっ、お安い御用だわ』

「朝の六時半なんて、まだ眠たいに決まってるよねぇ」

『わたしは眠らないから、わからないわ』


 指に絡めた鎖にキスが落ちるとくすぐったそうな声が返る。

 その雰囲気はまるで恋人同士のそれだったが、目の据わり始めたジグレイは容赦なく割って入った。区切ってゆっくり言葉を発することで苛立ちを押し殺しながら。


「俺は、六時半には迎えに来ると、言わなかったか?」

「あぁ……そんなこと言われたような気もするねぇ」

「じゃあ何故、お前はまだパジャマで、ベッドの上に、いるんだ?」

「ついさっきまで寝てたからじゃないか。いやだなぁグレイ、君が起こしてくれたんだろう?」


 もう忘れちゃったのかい、などと言って笑うティメオの頭を、ついに我慢の限界を迎えたジグレイの右手が鷲掴みにした。そのまま乱暴に揺さぶる。


「『寝てた』じゃないだろうがっ! 五つのガキでも一人で起きるぞ!」

「いぃい、いたいいたい!! 悪かったよ、僕が悪かった!」


 ぎりぎりと頭蓋骨を締め付ける指に堪え性もなく降参を叫んだ紅茶頭(三十手前)は無造作に解放される。


 ジグレイは呆れた風情でティメオを見下ろした。


「さっさと顔を洗って着替えろ。昼頃戻ると言ってあるんだ。七時には此処を出る」

「七時って……ティーナ?」

『午前七時までは、二十六分五十秒と少しよ、ティメオ』


 ベッドの上で胡座(あぐら)をかき痛みの残る頭を押さえていたティメオは、呆然と蜂蜜色の目を見開く。


「たった二十分そこらのうちに、風呂に入って、服を着替えて、朝ごはんを食べろって……? ――そんなの無理だ! この寝癖が短時間で直ると思う!?」


 淡い色の細い髪の毛はそれぞれが好き勝手な方向を向いている。あっちで絡まり、こっちで跳ね、さらにはうねって、芸術的なまでの様相である。


「無理な訳があるか、どこぞの貴族の御令嬢じゃあるまいに。男の身支度なんて十分もあれば余裕だろう」

「僕の髪がいうこときかないの、知ってるだろ!?」

「知らん。いいから早くシャワーを浴びてこい。五分で済ませろ」

「五分じゃ無理だってば!」


 話している時間も勿体ないと嘆息したジグレイは、喚くティメオの腕を掴む。身長ばかりある――腹立たしいことにティメオの方が三センチほど背が高いのだ――細身の身体をベッドから引きずり下ろし、浴室のドアの向こうへ押し込んだ。


 ティメオから取り上げた懐中時計はそっとチェストの上に戻す。


 窓際の椅子に腰掛けると同時に溜息が漏れた。テーブルに肘をついて前髪を指で掻き上げる。


「……プラティーナ。今まで何度も言ったと思うんだが、仕事に間に合う時間にあいつを起こしちゃくれないか? 君は時計だろう」

『ジグレイ。わたしも何度も言ったと思うんだけれど、それはできないわ。わたしは懐中時計であって、目覚まし時計じゃないんだもの』

「……あぁ、そうだな。悪い」


 毎回の如く彼女と繰り返す遣り取りを終えて溜息混じりに謝罪すると、ジグレイは気持ちを切り替えるよう努めた。

 つい先ほどまで寝こけていたどこかの誰かと違って寝不足の身体だが、せめて燃料補給はしておかなければ。


 手元に引き寄せた紙袋はまだ温かい。中から取り出したのは、気に入りのホットドッグである。

 表面は香ばしく内側は柔らかなパンと、切れ込みに挟まれた瑞々しい葉野菜。ソーセージはしっかりと焼かれて弾けそうな皮の中に肉汁を閉じ込めており、パンからはみ出るほど長く太い。

 そしてその上にこれでもかと掛けられ、具材を隠してしまうほどの鮮やかな黄色い調味料――マスタードだ。

 明らかに常軌を逸した量の刺激物を被ったそのホットドッグを、ジグレイはさも満足げな表情で食べ始めた。


 二分もしないうちに一つ平らげ、二つ目に取り掛かったところでおもむろに浴室のドアが開く。


「ごめんグレイ、歯ブラシ取って――って何それ、自分だけ朝ごはん?」

「何か悪いか?」

「僕だってお腹空いてるのに!」

「寝坊した自分に言うんだな」

「僕の分も買ってきてくれれば良かったじゃないか、って言ってるんだよ。僕が朝ごはん食べないとやる気出ないの、知ってるだろ?」


 少し顔を覗かせた後すぐに引っ込んで文句を重ね、今は濡れた手だけをドアの隙間から出してひらひらさせているティメオ。

 美味い物で気分が上昇し、回復の兆しを見せていた精神状態が再び乱れ始める。

 余程「知るか」と言ってやりたかったジグレイだが、彼はぐっとこらえた。


 実際、朝食を抜いたティメオは昼を待たずして役立たずになるのだ。そうなってしまうと余計に面倒である。

 寝癖は知らぬふりができても、仕事のことを考えるとこちらは無視できなかった。


 洗面台にあった歯ブラシを白い手に押し付ける。


 この溜息は何度目だろうか。


「……ドーナツでいいんだな」

「うわぁ、買ってきてくれるの!?」

「俺が戻るまでに支度を済ませておけよ」

「もちろん。あ、オットーのやつね!」


 ご丁寧に店まで指定され、浴室からはくぐもった鼻歌まで聞こえてくる。


 ジグレイはついに溜息の回数をカウントすることを放棄した。


 食べかけたホットドッグのソーセージをブツリと噛み切ってふた口で片付け、残りのパンも口に入れる。

 レモネードの瓶を呷ってホットドッグと処理しきれなかった分の溜息を全て胃に流し込むと、背嚢から財布だけを取り出して立ち上がった。



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