偶然の確率
世の中には、「バタフライ効果」というものがあるらしい。
僕は詳しくは知らないけど、どこかで蝶がはばたくと、どこかで竜巻が起こるというものだとか。
何の根拠もない、突拍子もない理論だとは思う。
けど、世界っていうのはこういう偶然や何かしら小さいことが原因で起こる大きな事象でできているんだとも思う。
僕が今、バイト先へ向かって走っているのも、たまたま寝ている間に時計の電池が切れてしまったから寝坊した、という偶然のせいなのだから。
だからこれから、また何か偶然が起こるかもしれない。
もしかしたら、次の角で僕は誰かにぶつかるかもしれない。
その途端にその人と恋に落ちるかもしれない(ベタだけど…。)
もしかしたら、近道をしようといつもと違う道を行くと、偶然事故を回避できるかもしれない。
もしかしたら、この足元の石を蹴ったら、空から隕石が落ちてくるかもしれない。
そんなどうでも良いことを考えながら、僕の足は小石をコツンと蹴り飛ばした。
僕が蹴り飛ばした小石は、角からたまたま出てきた誰かの足に当たって、コロコロと地面を転がった。
あ、と思って顔をあげたら、その人と目があった。
セミロングの黒髪と、大きな目が可愛らしい、同い年くらいの女性だった。
これが運命の出会いなのだろうか。
そんなことをふと思ったが、そのまますぐに何も考えられなくなった。
空から「神様の落し物」が降ってきて、世界が終わったからだ。
24年という僕の人生も、世界と一緒に終わってしまった。
という夢を見て、彼は目を覚ました。
カーテンの隙間から入ってきた光が妙にまぶしく、寝起きの気だるげな気分を加速させた。
(なんて夢だよチクショウ…。)
妙にリアルで、隕石が落ちてきてから足元の地面が爆発する瞬間までが、まだ頭に鮮明に残っている。
多少の嫌悪感というか、なんだかモヤモヤした気持ち悪さもあるが…所詮は夢だ。この気分も、寝起きだからっていうのもあるのだろう。
そう彼は自分の中で片づけてしまい、ふと今何時かと確認するために目覚まし時計の方を見た。
デジタル式の目覚まし時計は、その仕事を放棄して、ただ沈黙していた。
(ドちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!)
アルバイトへの道程を走りながら、彼は心の中で叫ぶしかなかった。
(妙な所だけ正夢になりやがって!!なんだよこれ!!なんで電池切れてんだよ!!ていうかいつの間に切れたんだよ!!)
ドタドタと走りながら、これが夢の中でも出てきた「バタフライ効果」なのだろうかと考えた。
世界というのは、こういう偶然や何かしら小さいことが原因で起こる大きな事象でできているのだろうか。
その時ふと、目の前に小石が見えた。なんとなく見覚えのある石だったが、気にせず蹴飛ばそうとした。が・・・。
(待てよ…。)
夢の中では、小石を蹴った途端隕石が降ってきて、世界が滅亡した。
もし蹴らなかったらどうなっていたのだろうか・・・。
何故だかそんな疑問が頭に浮かんだ彼は、小石を蹴らずに迂回し、立ち止まって空を見上げた。
空のずっと高いところで何かが光った気がしたが、一瞬すぎてわからなかった。
そのまま少しとどまってみるが、結局は何も起こりはしなかった。
「・・・何やってんだか、僕は。」
ふと我に返った時、思わず独り言がこぼれてしまった。
たかだか夢の中の出来事を引きずって、時間を無駄にしてしまったと思ったからだ。
彼は再びバイト先へ急ぐため、走り出そうと踵を返た時、危うく人にぶつかりそうになった。
ぶつかりそうになった時に、ふと顔を見た。
セミロングの黒髪と、大きな目が可愛らしい女の人だった。
「あ、ごめんなさい!」
女の人がすれ違いざまに謝ってきたが、彼は思わずその女性に見とれてしまい、言葉を出すことができなかった。
(好みだ…。)
ボーっと見つめる彼は、そのまま後ずさりするような格好でフラフラと歩いていた。
足に空き缶が当たったらしく、カランカランと乾いた音を立てた。
それを皮切りにしたかのように、ゴーーーーーっという、何かが近づいてきているような、地の底から何かが湧き上がってくるような地響きがした。
(…え、地響き?)
異変に気づいた時にはもう、遅かった。
地響きとともにやってきた巨大な地震が、街全体を飲み込んだ。
大きな揺れで立っていることすらままならなかった彼は、思わずしゃがんでバランスをとろうとしたが、それももはや意味をなさなかった。
彼が最後に見た物は、しりもちをついた自分に倒れてくる目の前の電柱だった。
という夢を見て、彼は目を覚ました。
カーテンの隙間から入ってきた光が妙にまぶしく、寝起きの気だるげな気分を加速させた。
(なんて夢だよチクショウ…。夢の中で夢を見るなんて…。)
妙にリアルで、電柱に押しつぶされる瞬間までがまだ鮮明に頭に残っている。いや、むしろ感触も残っている気がした。
多少の嫌悪感というか、なんだか気持ち悪い気分もあるが…所詮は夢だ。この気分も、寝起きだからってのもあるんだろう。
そう彼は自分の中で片づけてしまい、ふと今何時かと確認するために目覚まし時計の方を見た。
デジタル式の目覚まし時計は、その仕事を放棄して、ただ沈黙していた。
(ドちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!)
アルバイトへの道程を走りながら、彼は心の中で叫ぶしかなかった。
(妙な所だけ正夢になりやがって!!なんだよこれ!!なんで電池切れてんだよ!!ていうかいつの間に切れたんだよ!!)
ドタドタと走りながら、これが夢の中でも出てきた「バタフライ効果」なのだろうかと考え…。
(いや、待て)
ふとしたことに気づいて、彼は立ち止った。
ここまでの情景。
妙にリアルな夢。
時計の電池切れ。
今考えていたこと。
全て、今まで見た夢の通りだ。
何かが、おかしい。
(あ、そうかこれも夢の続きだ。起きないとまずいなこれ。うん、夢だ夢。)
そう思わずにはいられない。いや、むしろ夢であってほしい。
そう考えた彼は、おもむろに近くにあった電柱に思いっきり自分の頭をぶつけてみた。
ゴッ!
鈍くて嫌な音と強烈な痛みが、彼の頭を支配する。
(……ってぇ・・・!!)
思わず悶絶してしまう程の痛み。強くぶつけすぎたのか、少し血も出てきたようだった。
(これ…夢じゃない…!)
ジンジンガンガンする頭を抱えながら、彼はようやく理解した。
どういう理由かはわからない。
何故こうなったのかもわからない。
ただ、彼は確実に同じ日、同じ時間を繰り返し経験しているのだ。
(なんでだ…なんで…。そんなSF映画とかアニメみたいな…。)
「あのぅ…。」
(絶対おかしいってこれ。なんでだ。ありえないよ。)
「あの…。」
(もしかしてあれか、昔神社とかお寺で悪戯した時の呪いとかってことか)
「あの。」
(いやいやいや、全く身に覚えないよ!何もしたことないよ!したとしても小学生の頃に女の子のスカートめくりくらいしか…!)
「あの!」
「ふあ!?」
背後からの女性の大きな声に、思わず妙な声が出てしまった。
痛む頭と、半ばパニックになっていた思考のせいで背後に人が立っていることに全く気付かなかったのだ。
「あの…、大丈夫ですか?」
心配そうな顔をして話しかけてくれたのは、セミロングの黒髪と、大きな目が可愛らしい女の人だった。
「え、い、あ、え、ええ。だ、大丈夫です。」
思わず見とれてしまい、答えがしどろもどろになってしまったが、彼自身は気づいていなかった。
「でも、血が・・・。」
「あ、ああ!ちょっとボーっとしてたら電柱にぶつかっちゃって!」
そういいながら、慌てて立ち上がった。
出血のせいか少し立ちくらみを起こしたが、電柱を支えにしてなんとか立ち上がれた。
「あの…、よかったら病院に行きませんか?私、ここの近くで・・・」
「あ、ああ、いえ大丈夫です!問題ないです!全然平気です!」
もちろん大丈夫ではないが、彼は思わずそう言ってしまった。
何故かこの女性と話すのが、とても気恥ずかしい。
それに、この女性を見かけるのは初めてではないが、話すのは初めてだった。
もう何年も女性とマトモに話していない彼にとっては、とんでもなくハードルの高い行為に思えたのだ。
そして何よりも、現場は見られていないとはいえ、自分で頭をぶつけたのだ。
流石に病院でも正直には言えないし、やっぱり恥ずかしい。
「でも…。」
「いやほんと!平気です平気!そ、それじゃ!」
「あ・・・!」
女性の制止も聞かず、彼はそそくさと駆け出してしまった。
「あぶない!!」
女性の呼び止めるその声が彼の耳に届いた時には、もう遅かった。
それに気づいた時、すでに彼の体は宙を舞っていたからだ。
前を見ずに走っていた車が、たまたま彼の飛び出した道路を走ってきていた。
(ああ、またか…。)
薄れゆく意識の中、彼はそう悪態づいた。
(今度は、名前くらい聞こう。)
そう誓った彼は、再び朝に戻るのだった。
4度目の朝へ戻ってきた。
目覚めて彼が最初に彼がとった行動は、まず確認だった。
朝日が入ってくるカーテン。
片付いていない、自分の部屋。
そして、電池が切れて動かなくなってしまったデジタル式の目覚まし時計。
「よかった…戻ってこれた…。」
ようやく同じ朝に戻ってきたと確信できた彼は、安堵のため息と共に布団に倒れこんだ。
さっきの死の瞬間、天変地異によって回避不可能な死に追いやられていたのではなく、事故くらいで死んだのでは戻らないのではないか、と思ってしまったからだ。
(とにかく、念のためにバイトに行こう)
そう考えた彼は手早く身支度を済ませ、部屋を後にした。
外に出た彼は、急ぐでもなく、歩きながら考えとをしていた。
そしてふと思い、足元にあった小石を蹴った。
そう、あの小石だ。
だが、一度目の時の様に空から何かが落ちてくるようなことはなかった。
次に、あの女性とすれ違う前に空き缶を蹴っ飛ばしてみた。
思わず身構えてしまったが、案の定、地震はおろか地鳴りも何もなかった。
やはり、以前体験した惨事を再び起こすには、同じ時間、同じタイミングでなければ起きないようだ。
つまり、今まで起きた惨事は原因さえはっきりとしていれば回避できるし、自分だけではなく天変地異に捲き込んでしまった周りの人たち、あのセミロングの女性も巻き込まなくて済むのだ。
それに考え方を変えれば、同じ日をループして戻っているんなら、そう…たとえば今からスマフォで競馬の結果をチェックして一攫千金することも…。
そんな邪な考えと共に携帯を鞄から出した時だった。
目の前を自転車に乗った小学生が通りすぎ、危うくぶつかりそうになった。
それを避けた瞬間、あのセミロングの女性が正面から来るのが見えた。
(あ、そうだ名前聞かなきゃ…。)
思い出したかの様に、邪な思考から違う思考に切り替わった。
が、それすらもすでに遅かった。
自転車を避けた時、足元のさっきの空き缶を踏み潰していたのだが、それが原因なのか、はたまた別の原因なのか・・・。
とにかく、彼の立っている横の壁が突如として倒れ、彼はそのまま下敷きになってしまい、再び同じ朝をたどるのだった。
5度目の朝。
今度こそあの女性に声をかけて生き延びようと、それまでの朝よりも早く家を出ることができたが、急ぐ途中で引っかかった生垣の枝を折ってしまった瞬間、突如として降ってきた人工衛星のカケラが直撃し、死亡。
6度目の朝。
いっそのこと今日は家を出ずにすごそう。そうすれば死ぬことはないはずだと思い、バイト先に仮病を使って休むことを伝えた。
その瞬間、下の部屋がガス漏れからの大爆発を起こし、自分自身も爆発に巻き込まれて死亡。
7度目の朝。
今度は色々な物に注意しながら家を出たが、タイミングを外してしまい、あの女性に会えなかった。
だがどうしてもセミロングの彼女が気になる彼は自分から車に飛び込んでもう一度戻ろうと試みたが、車道に出ようとしたとたん、目の前に飛行機が墜落してきて死亡。
8度目の朝。
今度は流石に走りながら注意して進み、なんとか彼女が角から出てくる所に遭遇。
勇気を振り絞って声をかけようとしたが、風で飛んできた新聞に目隠しをされてしまった。
目隠しを取った瞬間、目の前に居眠り運転のダンプカーが迫ってきて死亡。
9度目の朝。
今回は彼女があの道に来る前に行くために、自転車か何かを使えばいいんじゃないか。
そう思い、今度は自分のアパートにある駐輪所から自転車を一台拝借しようとしたが、どこかの家から逃げ出したのか、それとも、もともと野生化していたのか。とにかく自転車のハンドルにたまたまくっついていた小さな毒グモにかまれ、苦しみ悶えながら死亡。
10度目の朝。
自転車は諦め、やはり走って行くことにした。
今度は角から出てくる前にたどり着けたので、偶然を装い角でぶつかろうとしてみた。
ぶつかろうと身を乗り出した瞬間、真下の地面に埋まっていた不発弾が爆発。死亡。
そして、11度目の朝を迎えることになった。
彼はやはりいつも通り道を走っていたが、それまでほど全力疾走ではなく、トボトボと、まるでランニングでもしてるかのような速度だった。
(なんで…。繰り返しているのに…)
うまくいかないんだ。
その言葉が頭の中ですら出てこなかった。
これまでチャンスはいくらでもあったし、同じ朝をループしている強みを活かしてみようともした。
なのに、何故こうもうまくいかないのだろう。
同じ朝のはずなのに、なぜこうも少しずつ違うのだろう。
もはや、あのセミロングの女性と話すどころか、接点を持つことさえも難しいのだろうか。
そもそも、何故僕は同じ朝を繰り返しているのだろうか。
うつむき加減で走りながら、彼はどうしようもない気持ちと考えから、頭の中がパンクしそうになっていた。
どうしてこうも失敗する。
どうすれば僕はこの朝から抜け出せる。
何故、彼女に声をかけることすらできない。
悶々とした考えに頭を巡らせていると、ふと気づくとあの女性が出てくる角に立っていた。
色々なことに注意しながらここまで来ていた今までと違い、今日はただまっすぐ走っていただけだったが、何も起こらなかった。
(本当に、偶然が重なっていたんだな…。)
来た道を振り返ると、今までの「偶然」の前に見た物がそこいら中にあった。
隕石が落ちてきた時の小石、地震の時の空き缶、衛生が落ちてきた時の生垣の枝、今風で飛んで行ったのは、ダンプカーに轢かれた時の新聞紙だな。
こんな些細な物たちに、僕は何度も何度も死ぬことになったのか…。
家を出てからここまで、距離にして約300M。
僕は何度も何度もこの道の先に進もうとしているのに、全く進めなくなってしまった。
「・・・あれ?」
気が付くと、彼の目から涙があふれていた。
拭っても拭っても、どんどんこぼれ落ちる涙。
その途端、彼の中で今までの「死」に対しての気持ちがあふれてきた。
何故死ななきゃならいんだという、怒り。
何故自分だけがこんな目に合わなければならないのかという、悲しみ。
回避しようとしても回避できない、悔しさ。
それよりももっと他にもやりようがあっただろうという、後悔。
そして、こんな時でもあのセミロングの女性がこの道を通らないかという淡い期待を抱いている自分自身に、絶望もした。
色々な感情、様々な思いが涙と一緒にあふれ出し、もう自分で止めることはできなくなっていた。
「あの…どうしましたか?」
聞き覚えのある声を聞いた途端、今まで頭を満たしていた感情や考えがピタリと止まった。
そのまま、恐る恐る声のする方を振り返ってみる。
声の主は、彼の後ろで心配そうな顔をして立っていた。
「あの…、突然お声かけしてすいません。でも、あまりにも辛そうだったので…。」
あのセミロングの髪と大きな瞳が可愛らしい女性だ。
「どう…して…。」
彼はなんとか言葉を絞り出そうとしたが、このたった一言を言うだけでもう何も言えなかった。
「あの、えっと…。一度は通りすぎたんですけど、なんだか気になっちゃって…。」
どうやら、彼が考え事をしている間に、彼女は隣を通りすぎてしまっていたようだ。
「あ、あの、よかったらこのハンカチ、使いますか?」
彼女が鞄からハンカチを取り出し、少し微笑みながら彼の前に出してくれた。
彼はそれを、呆然としたまま無言で見つめていた。
「あの…本当に大丈夫ですか?」
あまりにも呆けた顔と泣きはらした目をした彼を、再び心配そうな顔で覗き込んできた彼女。
その表情に思わず、彼の止まっていた思考が動きだした。
「あ、あのえっと…、ご、ご心配とご迷惑を、おおおかけしまいて…」
しどろもどろになりながら、彼は差し出されたハンカチを受け取った。
そうこうしているうちに彼の顔は見る見る紅潮してきた。
(な、泣いてる所を見られた・・・!恥ずかしい・・・。)
カッカと熱くなる顔を手のひらで必死に隠そうとして、むしろ挙動不審な人にしか見えなくなっていた。
その様子を、最初はキョトンとした顔で見ていた彼女だが、そのうちフッと吹き出してしまった。
「よかった。思ったより元気そうで。
通りがかった時は、そのまま道路に飛び込み自殺でもするんじゃないかって顔、されてたんですよ?」
「あ、いや、そんなつもりはなくてですね、えっと、その…ちょっと…。」
「フフ、なんだか却ってびっくりさせてしまったみたいですね。」
何度目か前の朝に話した時とは違って、なんとかその場から逃げ出したい気持ちを押さえつけることができた。
そして彼女もまた、あの時よりも口数が多く、そして柔らかい表情で話してくれていた。
「あの、私これから出勤なんですけど、まだ時間があるので少しお話しませんか?」
そういって彼女が指差してくれたのは、道の反対側にある住宅地の公園だった。
「え、あ、はい!ぼ、僕もまだ時間があるので!!」
思いがけない言葉に、彼が今まで感じていた絶望感はどこかへ消えてしまっていた。
それどころか、ようやく目標を達成できたこと、そして何より、彼女が自分の想像通りの優しい人だということがわかって、とても嬉しかった。
「フフ。じゃあ、行きましょうか。」
彼女に諭されるようにして、彼は一緒に歩き出した。
公園へ行くための交差点へ歩きながらも少し話をした。
互いの年齢や、今日の天気。思った通り、彼女が同い年だったこと。
ただ、彼は今にもスキップでもしてしまいそうな気持ちを押さえつけるのが精一杯で、ほとんど話に身が入っていなかったが。
そうこうしているうちに公園へたどり着いた。
「そういえば、これからどこか行かれる予定だったんですか?」
目指していた公園のベンチに腰掛けながら、彼女が聞いてきた。
「え、ええ。これからバイトだったんです。三丁目交差点のガソリンスタンドで働いてまして…。」
同じくベンチに腰掛けながら、彼も答えた。
まだ多少しどろもどろしているが、先ほどよりもマトモに返事ができるようになってきた。
ただ、やはり多少気恥ずかしいのか、まだちゃんと目を見て話すことができなかった。
「あそこのガソリンスタンドですか。だからいつもあの道を通っていたんですね。」
彼にとって、今日二度目の衝撃だった。
思いがけなさすぎる言葉に、キョトンとした顔で彼女の顔を見つめる。
何か言おうと思っても、何の言葉も出てこなかった。
「あ、ごめんなさい!突然変な事言って…。」
彼の顔を見た彼女も、思わず赤面しながらうつむいてしまった。
「え、えっとその…。実はいつも、すれ違ったりしてたんですよ?
ただ、いつもうつむかれて歩いてたり、走ってたりされてるので、気づかれてはないと思いますけど…。」
うつむいたままの彼女が、モゴモゴと説明してくれた
(全っ然気づいてなかった…。)
そもそも彼が彼女を意識したのは、この謎のループが始まる直前、あの隕石が落ちてくる前に「たまたま」彼女の顔を見たからだった。
だが、彼女の方は以前からこっちを見ていてくれた。
「あ、あの、えっと、き、急にこんなこと言っても引きますよね!ほんとすいません!」
沈黙に耐えられなくなったのか、彼女はベンチから立ち上がって深々と頭を下げてきた。
「あ、いえそうじゃないんです!ただちょっとビックリしちゃって…!」
思わず彼も立ち上がり、アタフタと弁解を始める。
「じ、実は僕もあなたのこと、見かけて、その…お名前とか聞きたいなー、とか思っちゃったりして、その…。」
「あ、えっと名前ですよね!そういえばまだ自己紹介してませんでしたよね!」
アタフタした動作のまま顔を上げたせいで、彼女は少しフラついてしまった。
ただ必死なのか、その時に小枝を踏んだことには気づいていなかった。
「わ、私の名前は…!」
彼女が言い終わる前に、彼は彼女を勢いよく突き飛ばしていた。
ここまで何度も死を体験し、何度も同じ朝を迎えた経験と、彼の勘がそうさせたのだ。
そしてその勘は、嫌なことに見事に的中した。
彼女をつきとばした彼の上に、巨大な影がさらに覆いかぶさった。
どこをどうしてここに降ってきたのか、巨大なコンクリートの塊が、彼の上に迫っていたのだ。
彼はその巨大な塊を見ながら思った。
うまくいかないことよりも、名前が聞けなかったことよりも、初めて彼女と話ができたことよりも、彼女を守ることが、助けることができた。
それが何よりもうれしかったし、あの位置なら彼女も大丈夫だと確信した彼は、少し満足していた。
もし、もしまた逢えたら、その時はちゃんと名前を聞こう・・・。
そう思ってすぐ、体を押しつぶす重みと共に、彼の意識は闇の中へと飲まれていった・・・。
もう、いいか。
はっと、彼は目を覚ました。
目を覚ます前に誰かの声を聞いた気がしたが・・・。
そう思い、彼はあることに気づいた。
(ここは・・・?)
今度はいつもの朝とは違う、見知らぬ部屋、見知らぬ白い天井。すぐ外は廊下なのか、人の喧騒と、何か放送の様なものが聞こえる。
妙にはっきりしない、ぼんやりした意識の中、体を起こそうとしてみたが、体がしびれて動かなかった。
そうこうしている内に、ぼんやりしたままだった意識がだんだんとはっきりしてくる。
(っつつ・・・!)
意識と共に戻ってきた痛覚が、彼を酷く痛めつけてきた。
何故ここにいるのか・・・。
自分自身の記憶をなんとか辿って思い出そうとして、そして、ようやく理解した。
世界なんて、時間なんてループしていない。
自分はあの時、事故にあったのだ、と。
いつものように気だるく起きた彼は、電池切れの時計を見て慌てて外に出た。
マンションの駐輪場から自転車を拝借しようとしたが運悪く管理人に見つかりそうになり、走って逃げた。
その途中で見かけた女性に目を取られた矢先、彼は信号を無視して歩道を渡ってしまったがために、車にひかれてしまったのだ。
隕石も落ちてきていないし、地震も突然の噴火も、何も起こっていない。
ただ単なる、自業自得というやつだ。
(なら、さっきまでのは・・・夢・・・だったのか・・・)
それにしては嫌にリアルで、妙な感じがして・・・。
(いや、違う・・・)
彼は、唐突に理解した。
今まで自分が見てきた物、体験したことは、全て「現実」だ。
自分がとった行動ひとつで行く先が変わる、もしかしたら自分が辿っていたかもしれない「現実」と「ありえた未来」だったのだ、と。
そして最後に聞いた、あの声。
あれは人智を超えた存在の声。全てを見ていた存在、彼の怠惰な人生を見守っていた存在の声。
その声の主が、彼にこの不可思議な体験をさせたのだ、と。
(けど・・・けど・・・)
全てを理解した彼の目から、涙があふれてきた。
これまでの事は、今まで怠惰な人生を歩み、ただただ時間を無駄に過ごしてきた彼への試練であり、罰である気がしてならなかった。
そして彼に与えられた試練は終わった。
しかし、これが天罰というならば、あまりにも残酷だ。同じ朝を繰り返しても、彼は突拍子もないことで死んでしまうのだから。
自分自身の行動で、もしかしたらもっと違う未来も見えたかもしれない。
自分自身がもっとまっとうに生きていれば、こんなことにはならなかったはずだし、何より事故にすら合わなかったはずだ。
でも、今までの事が天罰や試練だとしたら、あの彼女は・・・。
(何故だ・・・、何故・・・)
色々な思いがとめどなくあふれ出し、涙も止まらなかった。
このまま目覚めず、死んでいた方がよかったんだろうか。
そんな考えまで浮かんでしまい、余計に涙が止まらなくなってしまった。
だが、その時だった。
「あ、気が付かれましたか!」
扉の方から声がした。看護師の様だ。
「だ、大丈夫ですか?どこか痛みますか?苦しいとことか、ないですか?」
少し慌てた様にまくし立てる看護師。首が動かないので顔まで見えないが、声の動揺や様子から、まだ若いらしいことがわかる。
「すぐに先生を呼びますからね!あ、でもそれより・・・。」
看護師が身を乗り出して、顔を覗きこんできた。
「意識が戻って、本当に良かった・・・。」
セミロングの黒髪と大きな目が可愛らしい看護師が、その瞳を少し潤ませて、彼を見ていた。
その名札には、「桃井」と書かれていたのが見えた。
おわり。