全てのものに、さよならを。
「……もってあと三ヶ月でしょう」
お医者さんにそう告げられたのは、一週間ほど前のことだ。
二十六歳の私にとって、それは余りに衝撃的な宣告だった。
この一週間、私は泣き続けた。
涙が枯れ果てるまで泣き続けた。
死にたくない。
死にたくない。
それしか考えられなかった。
でも、今朝になって心境の変化があった。
「後悔して、死にたくないなあ……」
そう、思うようになっていた。
決して死を受け入れられた訳ではない。
当然死にたくはないし、助かる方法があるのなら何をしてでも助かりたい。
でも、お医者さんは「無理だ」と言った。
現代の医学では治せないものだと。
なら、私の未来は死以外ありえないのだろう。
そう考えた時、このまま死を迎えるのは絶対にダメだ──と、思ったのだ。
私は考えた。
どうしたら後悔しないで死ねるだろうか。
散々悩んだ結果、ひとつの答えに行き着いた。
「しっかりと、お別れをしよう」
私は残された時間で、全てのものにさよならを言うことにした。
*
まず、私は手紙を書いた。
友達に。
親戚に。
お世話になった、学校の先生に。
昔付き合っていた、あの人に。
事故で死んでしまった、天国にいる両親に。
思い付く限りの人に、手紙を書いた。
書いてみて、私は改めて、たくさんの人と関わって生きてきたのだと感じた。
両親が早くに死んで、一人暮らしが長かったせいか、ずっと一人で生きてきたような気になっていた。
けど――
「多くの人たちに助けられて、支えてもらったから、私は今日まで生きてこられたんだ……」
そう口にしたら、嬉しさで涙が止まらなくなった。
友達や家族の顔が、フラッシュをたいたみたいに、パチリパチリと脳裏を駆け巡った。
ああ、どうしよう。便箋のあちこちに、涙のあとがぽつりぽつりと残ってしまった。ちょっと汚れてしまったけれど、みんな大目にみてくれるかな。
返事が来たら死ぬのが怖くなるから、病院の人に頼んで、私が死んでから送付してもらうことにした。
三日も掛かってしまったが、少し胸のつかえがとれたような気がした。
ひとりひとりにさよならを言ったからだろうか。
「次は、何にお別れを言おうかな……」
私は病院のベッドから、遠くの空をぼうっと眺めてそう言った。
*
手紙を書いた次の日、私は好きだったアーティストのCDをインターネットでまとめ買いした。
CDプレイヤーとヘッドホンも一緒に買った。
机にCDの山を積み上げ、私はクスクスと笑った。
こんなたくさんの曲、聴き終わるのに何時間かかるのかしら。
興味が湧いて、ジャケットの裏に書かれていた演奏時間を足してみた。
「三十八時間四十五分……ぷっ」
口にして、また笑ってしまった。
まあ、いいか。何日かに分けて聴いていこう。
私は積まれたCDのひとつを取りだし、ヘッドホンを耳に掛けた。
再生ボタンを押して、目を閉じる。
好きだったドラマの曲。
学校に行くときによく聞いてた曲。
はじめてカラオケで歌った曲。
彼氏とよく一緒に聞いた曲。
流れる度に、いろんな想い出がワアッと蘇る。
「音楽って、想い出の詰まったアルバムみたいだなあ……」
私はCDケースの縁をそっと撫でながら、そんなことを呟いた。
きっとどの曲も、聴くのはこれが最期だ。
そう思ったら、一曲一曲がとても愛おしく思えて、思わず耳を澄ませて聴き入った。
聞き終える度、心の中でさよならを告げながら。
*
数日後、私は外泊届けを出した。
泊まりがけで、想い出の土地を巡ることにしたのだ。
なぜ泊りがけかというと――
「夜の学校って、結構怖いなあ……」
出歩くのは夜にしようと決めたからだ。
想い出の地には、だいたいそこで関わった人がいる。
今は、やっぱり会いたくない。
お別れは手紙で済ませたし、顔をみてしまったら、死ぬのが怖くなりそうだから――だから、夜にした。
「この遊具……こんなに小さかったんだ」
小学生の頃、毎日のように遊んだジャングルジムは、手を伸ばせば一番高いところに手が届くくらいの高さしかなかった。
あの頃は落ちたら死んじゃう――とか、思ったっけ。
昔のことを思い出して、笑ってしまった。
「たくさん遊んでくれてありがとね。……さよなら」
私は誰もいない空間に向かって頭を下げ、学校を後にした。
*
とうとう、お医者さんに宣告されてから三か月が過ぎた。
私は、数日前から病院のベッドで寝たきりの状態でいた。
体が上手く動かない。
呼吸をするのも辛くなっていた。
体中に電極を繋がれ、口元には呼吸補助のマスクが取り付けられている。
そう。
死期が、近づいているのだ。
でも、私は穏やかな気持ちでいた。
さよならを言って回れたからだ。
思いつく限りのお別れを済ませることができたから、後悔はもう無い。
無い――はずだった。
「うっ……ううっ……!」
何故か、涙が止まらなかった。
あれ、おかしいな。ちゃんとさよならは言ったはずなのに、どうしてこんなに涙が出るんだろう……。
「うあっ……ああああっ……!」
それは、他人が見たらどれだけ醜くくて、汚い泣き方だっただろう。
呻き、嗚咽を垂れ流し、それでもなお涙する。
そうか。
どんなことをしたって、後悔しないで死ぬなんて、できやしないんだ……。
涙の正体は、生への執着――未練だった。
どうして――どうしてだろう。
余命三ヶ月と言われてからは、たった一日ですら、ただなんとなく過ごすには勿体なく思えたのに。
どうして健康でいるときには、その尊さが理解できなかったんだろう。
例え百年生きれたとしたって、その一日が限りある大切な一日であることに――代わりなんてないのに。
今更になって、のうのうと生きていた過去の自分への後悔が止まない。
だけど、涙を流して、軋むほど奥歯を噛みしめてみたところで、時間は戻っては来ないのだ。
「ああっ……あああっ!」
嗚呼。
もし生まれ変われるなら、今度は後悔しないで毎日を過ごしたい。
一日一日を大切に生きたい。
……いや、違う。生まれ変われなくてもいい。
今、生きたい。
生きていたい。
死にたくないよ。
「いや……だ。死にたく……な――」
意識が途切れる瞬間、甲高い無機質な機械音が、聞こえた気がした──