冬季限定雪見だいふく事件
肌寒く感じるのは、この季節の所為ではない。
暖房の気も利かない、何かのアイドルの曲ばかり流しているコンビニの店内で、氷菓が並んでいる売り場の前に立っているからだ。
「はい。これ、お兄ちゃん。私、先に出て待ってるから」
燈和は目当てのアイスを見つけて俺に押し付けると、とっとと店の出口までスキップして行ってしまった。
……元気なやつだ。
子供は風の子と言うが、その「子供」の境はどこなのだろう。
俺達二人のような、高校生と中学生の境ではないのは確かだ。俺は「大人」ではないし、兄だからという理由で妹にアイスを奢ってやる訳ではない。この二個のアイスは、色々な理由があって買わされているのだ。
俺は店の外に出て行ってしまったひよりを目で見送って、やれやれといった溜め息を吐きながら、レジへと向った。
レジ店員の前に置いたアイスは、二個とも同じ種類だった。
ひよりが選んだのはロッテの「雪見だいふく(ベリーレアチーズケーキ味)」。期間限定らしい。
「限定」という言葉には、何か人を動かす力があるのだろうか。
雪見だいふくのファンであるひよりは、この日を心待ちにしていたようだ。
期間限定商品の発売日に真っ先に反応するくらいには、うちはプチブルならしい。
会計が終わると、俺もコンビニ袋を手に提げながら自動ドアを潜り、寒い中わざわざ外で足踏みしながら待っていたひよりのもとに向かう。
「ほい」
買ったぞ。という意味を込めて、二個の雪見だいふくが入ったビニール袋を、ひよりの前に突き出す。
ひよりは、「やったあ」と小さく笑って、サッと素早く俺の手から袋を攫った。袋を開けて中を確認すると、さも満足そうに口許を緩め、「私が持つ」と言って、すぐに歩き出していた。
まったく。本当に元気なやつだ。
そんな格好で、寒くはないのだろうか。
ひよりの格好を見ると、薄そうなニーソックスに、ぴったりとしたローライズのホットパンツを穿いている。
ホットパンツ。……あったかいのは名前だけじゃないか。
女の子は男子よりも少しだけ体温が高いと聞いた事があるが、流石にこの季節に脚を出すのは寒そうだ。雪がないにせよ、俺なら凍えてしまうだろう。
ひよりが風の子だとするならば、寒がりな俺は風邪の子のようだ。
そんな俺の服装は、上下学校指定ジャージで、その上にテニス部が着ているような厚手のウインドブレイカーを羽織っている。知り合いに見られたら、部活も無いのに学校指定ジャージを着ているのは、おかしいと思われるのだろうか。
いくら冬休みだからといって毎日ジャージ姿では、服装に頓着が無さ過ぎる。と、いつもひよりに怒られている俺は、妹の格好に口出しする権利なんてないのかもしれない。
前を歩くひよりは、手にしたアイスの袋をくるくると振り回している。
もうすぐ雪見だいふくが食べられるという事で、ごきげんなようだ。
ひよりに連れられて行ったさっきのコンビニは、家の一番近所にあるものだ。歩いていれば、五分もかからずに家に着くだろう。
雪見だいふくは逃げないんだから、そんなに急がなくていいだろうに。本当に逃げられてからでは遅いとばかりに、ひよりの足が早まる。どうも、こいつの生き急ぐ癖は、俺のモットーに反している。
俺は少し後ろからあとをついて歩いていると、不意に立ち止まったひよりが、
「くしゅんっ」
と、くしゃみをした。
鼻を啜って、後ろに居た俺を振り返ると、ひよりは袋を持っていない方の右手を掌を上にして、俺の方に突き出してきた。
「ん……。ティッシュちょうだい」
手のひらのお皿が、もう一度俺の方に上がる。
「はぁ……。ティッシュくらい、自分で持っとけよな」
俺はそう言って、ジャージのポケットを探る。常にポケットティッシュを持ち歩いてる俺の方が、もしかしてこいつより女子力高いんじゃないだろうか。
「はい」
俺がティッシュを渡すと、ひよりはそれを受け取って一枚取り出し、鼻を拭い始めた。
「……だって、この服ポケットないんだもん」
ひよりが、ふてくされたように呟く。
なんと、その服の両側に付いているポケットだと思っていた切れ込みは、ただ切れ込みが入ってるように見せていただけのフェイクポケットだった。洋服としての機能性は完全に無視なのか。
ひよりは鼻を拭き終わると、俺からとったポケットティッシュを、鼻かんだ紙と一緒に、まとめてコンビニ袋に入れてしまった。
あーあ。
食べ物が入ってる袋をゴミ袋と一緒にするのに多少の不快を感じ、俺は顔を顰めた。
よほど注意してやろうかとも思ったが、ケースに入ったアイスが直接ゴミに触れるわけではないし、どうでもいいことに目くじらをたてるのも気が引けたので、不問にしてやった。
程なくして我が家が見えてくると、俺は心なしか早足になってひよりについて行っていた。
俺も雪見だいふくを前にして、気持ちが浮かれたのだろうか。早く家に帰ってテレビでも見ながら、あったかい炬燵に入りたくなってきた。
こういう寒い時期に、暖かい部屋の中で冷たいアイスを食べる良さを知っているくらいには、俺は小市民を自称することが出来るだろう。
家に近づくと。見慣れた石のブロック塀と、小さな郵便受けがある。俺の家は二階建てだが、そんなに大きくはない、よくある普通の一戸建てだ。
俺が入り口に向うと、突然、横でひよりが立ち止まった。
振り返ってみると、コンビニ袋を地面に下し、片膝を立ててしゃがみ込んでいる。
「ちょっと待って……あ、先行ってて」
靴紐が解けたのか。俺はひよりを無視して家に入ると、スニーカーを脱いで玄関を上がった。
入り口を開けると、すぐ目の前に廊下が続いている。入って右側の襖の中はリビング(……と、お洒落に言っていいのか分からないが、テレビや炬燵がある、家族がよく集まる居間)で、廊下から向って左側がダイニング兼キッチンの部屋だ。廊下の奥に風呂場などがあって、廊下の左側手前にある階段から二階に上がると、俺の部屋がある。トイレは階段のすぐ下だ。
まあ、一階だけで言ったら、のび太くんの家の間取りに近い……のかもしれない。
「ただいまぁ」
俺は小声でそう言うと、居間の襖を開けた。
と言っても両親は今、二泊三日の旅行に行っていて朝から家に居ない。夫婦水入らずでお楽しみという事で、俺はひよりのおもりを任されているというわけだ。
居間に入ると、まず天井から下がっている電気の紐を引っ張る。部屋の壁には、今年最後のページのカレンダーが掛けられている。
テレビをつけると、何かの韓国のドラマをやっていた。テレビはBGMとしてつけておくだけなので放っておいて、次に俺はエアコンのスイッチを入れた。
エアコンがゆっくりと動き出す音をを聞きながら、座布団の上にリモコンを投げ置くと、俺はどかんと炬燵のそばに腰を下ろした。
「はあ……」
あ、そうだ。
俺はまた立ち上がって居間を出た。
入れ違いに戸を開けたひよりが、「ただいまー」と元気よく言った。母さんが居るときは言わないくせに、親が居なくなると言うんだな。……あ、もしかして俺に言ってくれたのか?
俺は廊下を出て、居間のすぐ前にある台所へ行くと、流しで手を洗った。二回くらいうがいをしてから手を拭くと、すぐに居間に戻る。
……寒いから、早く炬燵に入りたい。
「うぅうう……さむいよ……」
居間に入ると、大げさにガタガタ震えながら、ひよりが炬燵布団の中でもぞもぞ動いていた。
寒いんなら先に入って、玄関口で靴ひも結べばいいだろうにと思う。いや、それよりまずは暖かい格好をすればいいのだ。
ふと、目線を下ろしてみると、炬燵テーブルの上にチラシが沢山載っていた。さっきまでは無かったので、ひよりが郵便受けから取り出して来てくれたんだろう。
「おお」
一番上はトイザらスのチラシだった。俺は座りながらチラシの束を手に取った。
もうすぐクリスマスシーズンだからか、アベイルやユニクロや、ケンタッキーの割引クーポンといった赤い色の広告が多い。こういうチラシは幾つになっても、見ているだけで楽しいのだ。
俺は寝そべりながら、チラシの中の、最近のロボットアニメのものらしいプラモデルを眺めながら、炬燵布団の中に足を潜り込ませた。
炬燵の中は、家を空ける前から電源を付けっぱなしにしていたので、とても暖かい。
すると、炬燵の中で、何かふさふさした、柔らかいものに足が当たった。
俺はむっとして足の裏でそれを押すと、押し返してくるひよりの足ごと、にゃあというそれを向こう側に押しやって、自分の足を伸ばす場所を広げた。
「あー、リモコン。リモコン取って」
ひよりが炬燵テーブルの上に突っ伏し、丁度届かない位置にあるテレビのリモコンに伸ばした手を、ぱたぱたと開いたり閉じたりし始めた。
俺がリモコンをテーブルの上で滑走させるようにして渡してやると、それを受け取ったひよりは嬉しそうにそれをテレビに向け、タモリさんが出てくるまでザッピングをした。
リモコンをテーブルの上に戻すと、「あ、そうだアイス!」と言って、さっきのコンビニ袋を開けだした。
「どうでもいいけどさ、手洗ってからにしろよ」
と、俺が水を差すと、
「いーのいーの。私なんにも触ってないから。手、キレイだもん。……はい。これ、お兄ちゃんの」
ひよりは、袋から出した雪見だいふくの一方を、俺の方に置いてきた。
なんにも触ってないって。……ドアノブとかチラシとか雪見だいふくとか、触ってただろうに。(それと、鼻かんだちり紙も……。)病気になっても知らないぞ。
等と考えている風邪の子(俺)を無視して、雪見だいふくのふたを開けていたひよりは、半分まで開けたところで俺の視線に気付き、ぱっと自分の膝の上に雪見だいふくを持って行って、それを隠してしまった。
「あげないよ」
いらないよ。
「自分の食べてね」
知ってるよ。誰もお前のなんかとらないよ。
何を警戒してか、ひよりは炬燵の陰に隠しながら、中に一緒についてくるあの緑色のプラスチックの爪楊枝状の物を使って、雪見だいふくを一個取り出した。
ベリーレアチーズケーキ味。
見た目は普通のやつと変わらないように見える。
パッケージに書いてある事によれば、クリームチーズ味のお餅で包まれたアイスの中に、イチゴとラズベリーとブルーベリーの、トリプルベリーソースなるものが入っているらしい。……これは、かなりおいしそう。
ひよりがなぜ、この雪見だいふくを前に、こんなに目を輝かせているかというと、実は「雪見だいふくスペシャリテ・ベリーレアチーズケーキ味」は今年の冬季限定雪見だいふく企画の〝第二弾〟だと言う事にある。
〝第二弾〟という事は当然〝第一弾〟もあったというわけで、その〝第一弾〟(トリプル生チョコレート味)はというと、めざとくその存在を嗅ぎ付けた雪見だいふくファンのひよりは、まっさきに俺に小遣いを渡して買いに向わせたのだ。まんまとパシリに使われた俺は、お遣いついでと物珍しさから、自分の分も買って揚々と帰って行ったのだが、家に帰るなり、ひよりに怒られてしまった。
俺がその時買って帰ったのは「贅沢生チョコ」とかいうセブンイレブン限定の、生チョコレートでコーティングされたアイスで、見た目もパッケージも雪見だいふくそっくりなフェイク商品(?)だったのだ。いや、それも結構おいしかったし、ロッテさんも別に俺を騙そうとした訳ではなかったんだろうけど、ひよりの憤りはもう半端なものではなくて、一口も食べようともせずに不貞腐れてしまった。
……それで今日、期間限定雪見だいふくの〝第二弾〟を買うのに、俺が付き合わされるに至ったというわけだ。
はむ。
もちぃー。とやりながら、ぺろりと一個を食べてしまったひよりは、緑のプラスチックの爪楊枝的な物を銜えたまま、まだ半分開いていないふたの下にある右側のもう一個を、爛々とした目で見つめ始めた。
もう一個も食べてしまおうか、逡巡しているらしい。
……俺も食べてみようかな。
俺はアイスに手を付けようと、テーブルの上に手を置く。
「あ、その前に……」
俺は畳んだチラシの束を脇に置くと、居間から出る為に立ち上がった。
「ココアつくろ」
台所に向かう襖を開ける。俺はひよりとは違って、こういうのを食べる前には必ず飲み物を用意するのだ。
「あっ。お兄ちゃん、ココア作るの? 私のもお願い」
「あーい。おーけー」
ひよりの注文に、鮸膠も無く応諾する。勿論、言われなくても作ってあげるさ。
俺は襖を抜けて寒い廊下に出ると、キッチンにある冷蔵庫へと向った。
前に、多嶋という友人から「おいしいココアの作り方」というのを聞いた覚えがあるが、俺はそんな面倒な事はしない。鍋にココアの粉と牛乳を入れて暖めるだけの、普通のココアだ。
俺はまず流し台の下から雪平鍋を取り出し、それをコンロの上に置いた。次に冷蔵庫を開けて、ふたの内側にあるココアと牛乳を、
「……」
……牛乳が無い。
母さんが買い忘れたのか。どうしよう。取り敢えず、
「ひよりー。牛乳無いよ」
ひよりに言ってみる。
「え? ほんと?」
座ったままのひよりが後ろ手を衝いたまま、上体を反らせた状態で、襖の奥から顔を覗かせた。
「んー、じゃあ私買ってきてあげようか?」
ひよりが立ち上がる。
「え? 今から?」
「うん。お金はお兄ちゃんが出してね」
襖を開け、居間を出ていたひよりは、そう言って俺の方に近づいてくると、「はいっ」と、上にした掌を俺に突き出してきた。
「お小遣い、ちょうだい」
「……」
お前が出せよ、と思ったが。そうだった。ひよりはポケットが無いから、今財布を持っていないんだ。
しょうがなく俺は尻ポケットから長財布を取り出すと、小銭の持ち合わせが無かったので、千円札を渡してやった。
「やったー、ありがとね」
「領収書、貰って来いよ。あさって母さんに請求するから」
ひよりは、貰った千円札をどこに仕舞おうか少しの間迷った後、ニーソックスの隙間に挟んで、その上をぽんぽんっと叩いた。
「じゃあ、行ってきまーす」と言って、タタッと駆けて行ったひよりは、サンダルを履くと、すぐに玄関を飛び出して行ってしまった。
「気を付けてけよ」
バタン。と、ドアが閉じる。
そんなに急がなくても良いから、紐靴を履いて行けよ。どうもあいつとはポリシーが相容れない。
ひよりの、おもり。
曇りのち……ゴリ。
期せずして踏んだ脚韻の余韻を楽しみながら、俺は取り敢えずトイレに行く事にした。
居間の向かいの、すぐ近くにある、階段の下のトイレだ。
俺は個室に入り、トイレに腰を下ろしながら、この前友人達と行ったスキーの事などを思い出していた。
血糊の、地の利。
手乗りの、ヤモリ。
怒りの……タモリ。
用を足した俺は手を洗い終えると、トイレのドアを開けて廊下に出た。
炬燵の上には雪見だいふくが俺を待っていてくれているだろう。生き急ぐのは俺のモットーに反するが、俺はうきうきと心弾ませながら居間へと向って行った。
ノリノリの、鳥。
イモリの、焦り。
パセリの…………んー、アプリ。
ノリノリの俺は、中からテレビの音が聞こえてくる居間の襖に手を掛けると、それをそっと引いた。
ただいま雪見だいふく。今戻って来たからね。
畳張りの居間に入って、襖を閉めながら炬燵テーブルの上を見た俺は、
ーー動きが止まった。
「え……?」
なにが……どういう、事だ……。
針穴の様に凝縮した虹彩が痙攣を起こしたように小刻みに震え、頬から膏汗が伝う。
目にしているものが、信じられない。
脳が、それを認める事を拒んでいるかのように、テーブルの上にあるものが意味する状況を、少しずつ理解し始めていく。
嘘だ……こんな事……、有り得ない……
心臓の音がバクバクと大きくなる。
テーブルの上にあった俺の雪見だいふくは、ふたを剥がされ、二つ入っていたはずのもう一個が、
消えて無くなっていた。
「う……うぁ、ぁ、ぁぁぁあああああああ!」
俺は両腕で頭を抱え、雪見だいふくの前に膝を衝いた。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!
なんだよこれ、なんでだよ、なんなんだよ!
取り乱した俺は暗殺されたケネディ大統領のぶちまけられた脳ミソを必死で掻き集める大統領夫人さながらに、一個だけ残された自分の雪見だいふくを手に取った。
完全にふたを引き剥がされ、中には生き残った雪見だいふくの片割れの一個と、手つかずの爪楊枝的な緑の棒。やられた!
テーブルの上を見ると、ひよりの分の雪見だいふくからもふたが切り離され、二つあったうちの一つが消えている。いや、それはさっき、ひより本人が食べたからか。
畜生! 完全に俺のやつを狙ってやりやがった!
怒りよりも先に、悄然が込み上げてくる。
……諦めろ。あいつはもう助からない。今頃はもう、犯人の兇刃にかかって命を奪われているだろう。邪悪な者の舌に陵辱され、トリプルベリーソースを流しながら口の中で蹂躙されているのだ。
惨過ぎる……。誰が、何でこんな事を……!
俺は無言の内に拳を握りしめ、雪見だいふくの運命を想って、暫くの間項垂れた。
エアコンとテレビの音が、無情にも沈黙を埋める。
誰がやったかなんて、考えるまでもない。こんな悪逆非道で非人道的な犯行に手を染められる人間なんて、一人しかいないじゃないか。
勿論、ひよりだ。あいつに決まっている。
ひよりなら動機も手段もある。俺がココアを作ろうと席を立っている間に、俺の分のふたを開け、一個だけ素早く食べたのだ。なんて悪魔だ。
だからあんなに急いで、逃げるように外に飛び出して行ったんだろう。牛乳買って戻ってきたら、きつく仕返しをしてやる。
……でも、本当にひよりなのか?
俺の中のもう一人、冷静な方の俺が呟いた。
何を言うか。この部屋にはあいつ以外誰も居なかったじゃないか。アリバイを証明するものなんて、何も無いんだぞ。
……いや、そういう事じゃない。俺が考えたいのは、本当にひよりには犯行が可能だったのかっていう事だ。
「……」
考えてもみろ。俺がココアを作って帰ってくる間に、雪見だいふくを丸々一個食べられるのか?
確かに一個なら、頑張ればそう時間は掛からないかもしれない。だが、思い出してみると、俺はあの後すぐに牛乳が無い事に気付き、ひよりに声を掛けたのだ。
急いで一個食べるのに、俺でも三十秒は掛かる。ひよりの小さい口なら尚更だ。
だが、あの後すぐに顔を出して返事をしたひよりの口が、もごもごしていたか? 否、あの短時間で丸ごと一個飲み込むなんて不可能だ。
それか、そのときにはまだ雪見だいふくは生きていて、ひよりが買い物に行くと言って家から出ると同時に持ち出して行ったかだ。
それも有り得ない。
ひよりの服はポケットが無いし、雪見だいふくは一個でも結構嵩張る。あの体の線が分かりそうなくらいぴったりとした格好では、隠した所が膨らんで、逆に俺の目を引くだろう。
上に着ているのがパーカーだったのならフードの中にでも隠せるが、生憎ひよりの服装はパーカーではない。
手に持っただけでも、相当冷たいアイスだ。まず服の下に隠すことは有り得ないだろう。それに、そんなに食べたくて隠し持つ場所を考えるくらいなら、わざわざ一個だけ取るんじゃなくて、ふたを開けずに容器ごと持ち去れば良い。
一個しか持っていかなかったと言う事は、犯人には何か理由があるはずだ。一個だけを狙って盗ったのだとすれば、犯人はそれをゆっくり食べたいに違いない。
例え一個でもその価値が分かり、雪見だいふくのおいしさを知っている人物……。ひよりなら、一つでも多く食べたいからと言うだけで、それを味わいもせず丸吞みにしてしまうとは思えない。
……。どうした。
ようやく問題を理解したようだな。
そう、俺が台所に居る間に、ひよりに俺の雪見だいふくを食べる時間は無い。つまり、これは、密室事件という事になる。
今までの俺の行動をまとめると、まず帰宅した俺が部屋のエアコンとテレビをつけ、手を洗いに台所まで行く。それと入れ違いにひよりが部屋に入り、その後、俺も炬燵に入る。次に俺がココアを作りに冷蔵庫まで行き、牛乳が切れている事を確認。然る後、呼ばれて来たひよりが牛乳を買いに外に出て、俺はトイレに行く。用を済ませて居間に戻ると、そこにあるはずの雪見だいふくが消えていて、既に凶行は行われた後だった。
状況を整理したところ、犯行が起きた可能性が最も高い時間帯は、俺がトイレに入っている間だと考えられる。
だが、玄関が開いたような音は聞こえなかったし、俺が戻った時には襖は閉まっていた。
いくら俺でも、玄関に近い所にあるトイレからなら、人が侵入して来た気配には気付く。居間に窓はあるが、鍵が掛かっていて、その隣の部屋の窓にも戸締まりがされている。二階の窓は開いているかも知れないが、階段を下りて来たのなら、そのすぐ下に居た俺が気付かないはずがない。この犯人は、鍵の掛かった不完全な密室から監視の耳を搔い潜り、俺の雪見だいふく一個を盗んだという事になる。これはかなりの難問だ。
フフフ、面白い。不可能性が増せば増す程、ミステリーは面白くなる。いくら外連味の無いトリックの止揚でも、それに比例したカタルシスが得られるのだ。この事件は、俺が解いてやる!
取り敢えず襖を閉めると、俺は部屋の中を見渡した。
まず考えられるのが、まだこの部屋の中に雪見だいふくが残っているという事だ。
持ち出す事も出来ず、また、食べられてもいないのなら、順当な演繹だ。
「これか」
俺は、ひよりの座っていた所の近くにあったティッシュボックスを持ち上げた。
重さから察して、中に雪見だいふくは入っていないようだ。
次に目に入ったのは、テーブル炬燵の上のリモコンだった。
アイスとしての雪見だいふくの特性を利用するのなら、変形させて、リモコンの電池を入れる所にも押し込めるだろうが。……それはないな。
調べるまでもない。あいつが好きな雪見だいふくを侮辱するような真似をするとも思えないし、おいしく味わって食べたいのなら、冷蔵庫のような涼しい場所に入れておくだろう。
それこそ、今みたいな暖房の効いた部屋に長く置いておいたら、溶けておいしくなくなってしまうし、ましてや、炬燵の中になどもってのほかだ。
という事で、この部屋の中にまだ俺の雪見だいふくが残っているという説は消去法の網に掛かって消え失せた。
となると、次に考えられるのは……
「そこだな」
俺はすっくとテッシュ箱の側から立ち上がると、わざと大きな足音を立てて押し入れに近づいて行った。隠れても無駄だ。
「そこに居るのは分かってんだぞ」
密室系にはよくあるトリック。まだ犯人は、この部屋の中に居るのだ。
一番はじめに、こういう事をよくする友人の顔が浮かんだ。だが、いくらあいつでも、人の家の中ではこんな事しないだろう。次に浮かんだのが親だ。二泊三日だとか嘘吐いて、俺達を見張ってるんだ。それか、たまに連絡なしに遊びに来る実家のばあちゃんか、従兄弟の小学生。
「りっくん? ……いるんだろ。出て来いよ。俺のアイス食ったな」
俺はニコニコしながら、足音を立てて押し入れに迫り寄る。今なら怒らないから。髪の毛引っ張るだけで許してやる。
押し入れの前で立ち止まった俺は襖に手を掛けると、うーんともったいぶった後でバタンと一気に引き開けた。
「……」
誰もいない。
人が入れるだろうと思っていた押し入れの下の段は、ぶら下がり健康機と、中2の時買ったギターのアンプで埋まっている。上段も同様だった。
まさか、屋根裏の散歩者か!?
俺は上を見上げたが、杞憂だった。この家は二階建てだ。
「フー……」
俺は溜め息を吐き、押し入れを閉めると、炬燵の前に戻った。
犯人探しを諦めて残った一個で我慢しよう。となった訳ではない。まだ犯人が身を潜められる場所が残っている。
「ここだ!」
俺は炬燵から勢いよく布団を捲り上げた。アイスを隠すには不適だとしても、犯人が隠れるのには充分だ!
炬燵の中では寝転がっていた白猫が、起こされて不機嫌な声を漏らした。
「タマ。お前か」
本当の彼女の名前はタマじゃなくてエルゼだけど、俺は白いからタマと呼んでいる。
俺にとっては白猫はタマで、三毛猫はミケなのだ。
「ふにゃぁ」と、炬燵の中を日焼けサロンよろしく、伸びをしていたタマが、
「何よ」と言った目で俺の事を見た。
古典的な密室物推理小説ではよくあるトリックだ。世界初の推理小説といわれる、ポーの「モルグ街の殺人」然り、ドイルの「まだらの紐」然り、どれも動物を直截的なファクターとして用いている。
動物なら人間が入れないような隙間からも出入り出来るし、蛇なら雪見だいふくくらい丸呑みに出来るだろう。
ならば、タマはどうだ。
見たところ、雪見だいふくを食べた痕跡は残っていない。猫がアイスを食べるかどうかも疑問だし、中に入っていたトリプルベリーソースや溶けたアイスが、口の周りや床に付いていないのもおかしい。
やはり、タマは犯人から除外すべきだろうか。
猫がそんなに早く雪見だいふくを食べ終わるとも思えない。それにタマが食べたと仮定するならば、当然雪見だいふくのふたを開けた人が必要になる。勿論猫はそんなに器用じゃない。仮にタマを共犯として使い、犯人がふたを開けたのならば、それが唯一可能なのは、ひよりだけとなる。例えば俺に意地悪をする目的だったとして、ひよりがそんな事をするだろうか。……あんなに雪見だいふくが好きなひよりからして、タマにあげてしまうなんて勿体ない事をするとは到底思えない。やはり、ひよりとタマは共犯ではないのだ。
「ごめん、何でもない」
俺は炬燵布団を下げると、タマの為に日焼けサロンを戻してやった。
すると分からなくなってくる。
外部犯が物理トリックを用いた形跡も見られないし、俺の推理もネタ切れが近づいてきていた。
誰かが書いた密室談義の一つでも覚えていればよかったと思った。
まだこの部屋の中に雪見だいふくが残っているという説に固執して、テレビや掛け時計の裏などの埃っぽい、いずれ食品を隠すとも思えない場所を手当たり次第にひっくり返す事もできるが、多分無駄だろう。
そんな事をしている間にひよりが帰ってくる。そうなった時、俺がこの謎を解けていなかった場合は俺の負けだと思えてきた。
刻々とタイムリミットは迫って来ている。
ダメだ、全然閃かない。焦ると考えが纏まらない。
いつ、誰が、どうやったのか。全く見当もつかない。どれか一つでも分かるヒントがあれば……
……ん?
一つでも? 一つは分かりきっている事があるじゃないか。
これはフーダニットじゃなく、ハウダニットの問題なんだ。
俺の雪見だいふく一個を食べたのは外部犯でも、タマでも、俺でもない。居間に出入りした人間は二人しかいないのだから、犯人はひよりしかいないじゃないか!
ヴァンダインの二十則の中にも十番目に挙げられている。これは最初から、ひよりから俺に仕掛けられた、一対一のバトルだったのだ。
犯人が分かれば、後は犯行が可能な時間の穴と、トリックだけを考えればいい。
なら、分かったぞ。あいつの仕掛けた罠の正体が! 手掛りは充分だ!
その時、玄関のドアが開き、ひよりが帰って来た音が聞こえてきた。
来たな。決戦の時だ……!
「ただいまぁー、牛乳買って来たよっ!」
ひよりが襖を開けて入って来る。手にしたコンビニのビニール袋を俺に見えるように掲げて見せた。
「ふっふー、イチゴ味の雪見だいふくも買ってきちゃった。お兄ちゃんも後で食べようね」
にこにこしながら牛乳をぶらぶらさせているひよりを睨みながら、俺はテーブルの上の雪見だいふくを指差した。既に、ちょっと溶けかけていて、いい感じに柔らかくなってきている。
「俺の雪見だいふくが一個、無くなっている」
「へぇ、お兄ちゃんも食べてみたんだ。どうだった? おいしかった?」
まだ、ひよりはへらへらと笑っている。
「俺は食べていない。お前がとったんだ。もう全部分かっている」
その言葉を聞いた途端、ひよりの表情が変わった。
「へー、人を疑うんだ……。私が食べたって言うんなら、いつ食べたのか言ってみてよ。私がお兄ちゃんの雪見だいふくを食べる時間なんて、無かったよね?」
その時のひよりの表情は、至福の頭脳戦を待ちわびていた出題者の、獲物を前にした悦楽の表情だった。お前の推理、聴いてやるから言ってみろ、とでも言うような、答えあわせに目を輝かせる愉悦の表情。
「ああ、そうだ。炬燵に入ってから俺が席を立っている間まで、お前に俺の雪見だいふくを食べる時間は無い。だがそうなると、考えられるタイミングは一つしか無くなる。密室内で消す事が不可能だったのなら、逆にそれは密室が構成される前から、既に無くなっていたという事だ。
お前が家に入る前、解けた靴紐を玄関に入らずに結んでいた事。あれは先に家に入った俺の目が届かなくなった隙を利用して雪見だいふくを取り出す為に、わざと靴紐を踏んで解いたんだ。紐を結び直す時間稼ぎをしている間にお前は、自分の分の雪見だいふくから、ふたを半分だけ開けて、一個食べた。
部屋に入った後は、俺の前で残ったもう一個を食べてみせる。この時、既に開いていたふたの右側は、左側を開ける時の手で隠して、もう一個がまだ中に入っているかのように見せていた。お前は雪見だいふくのパッケージの特徴である、開け口が左右二つついていることを利用して、そこには無いはずの架空の雪見だいふくを作り出したんだ。
俺がいつも、おやつを食べる前に飲み物を持ってくると分かっていたお前は、俺が台所に行く為に席を立った隙を見計らい、自分と、俺の分の雪見だいふくから、ふたを取り外す。この時、お前の雪見だいふくは0個、俺のは二つ残っているから、急いで俺のを一個取り出して自分の容器に移し替えれば、どう見ても俺のだけが一個無くなったように見える。あとは牛乳を買って来てから、自分のが一個無くなっておろおろしてる俺を尻目に、我が物顔で俺からとった雪見だいふくを食べるつもりだったんだろう。確かに盲点を突いたトリックだな。
つまり、俺の雪見だいふくは無くなったわけじゃない。そこにある、お前の皿の中に入ってる雪見だいふくこそが、消えた俺のもう一個だ!」
俺は大見得をきって親指を立てた人差し指でビシッと雪見だいふくを指差すと、どうだと言わんばかりの目力で、ひよりを見据えた。
「ふーん、成る程ね。そこまでは行ってたってわけだ。……四十点だね」
冷ややかなひよりの目は、まさにボロボロになっても立ち上がろうとする戦隊ヒーローを崖の上から見下し冷笑する、敵の女幹部の目だった。
「だって、それじゃあ靴紐を結んでる時に取り出した方を、食べる時間が無いもん」
あ……そうだった。
あの時ひよりは、靴紐を結んだ後、すぐに家に帰って来た。あれでは紐を結んだ後、解けていない方を結び直すくらいの時間しか無い。その時に食べたのだったら、ただいまを言った時には、口の中がもごもごしていなければおかしい。
それにひよりは、雪見だいふくを味わわずに慌てて食べたりはしない。
なら、それよりも前に……? いや、あの時以外には無いはずだ。
じゃあ、どうやって?
時系列を整理しよう。
靴紐……ティッシュ……トイザらスのチラシ……
チラシ……? あれがあるって事は、つまり……。
俺は組み上がった論理に、パズルの最後のピースが嵌った音が聞こえた。
つまり、
〝郵便受けを開けたって事だ〟
「そうか、分かったぞ!
お前は、俺から貰ったポケットティッシュで雪見だいふくを包んで、郵便受けの中に仕舞ったんだ! 外気の温度で冷えた郵便受けは、天然の冷蔵庫だからな。牛乳を買いに行く途中で、歩きながらそれを食べたんだ!」
俺から騙し盗った雪見だいふくは、さぞうまかっただろう。これでひよりが自分から進んでお遣いに行くと言い出した理由も明らかになり、外で待ってる雪見だいふくを楽しみに、玄関から飛び出して行ったコイツの心境も窺い知れた。
「うん、さすがお兄ちゃん。よく出来ました」
パチパチと拍手を送るひよりの口許は、まだ見下すような不敵な微笑をたたえている。
「私があげたヒントの量も差し引いて、八十点くらいかな。及第点だから、まあお兄ちゃんにしては、頑張った方なんじゃないかな」
……なんだ、その顔は。
自分だけが全てを知っているような、優越の表情は……。
八十点……? わざと取り出したチラシとさっきのダメ出しを入れて、そんなにマイナスになるか?
まさか、……まだ、何か見逃している!?
何だ。タマか!? タモさんか!? それとも目的が別に!?
確かに、失敗しそうになったら、いつでも中止出来るトリックだったとはいえ、あまりに不確定な要素が多過ぎる。俺がココアを作りに行かないかも知れないし、牛乳が切れていなくて、外に出られなかったかも知れない。
いや……ま、まさか、そんなーー
全てが仕組まれていた事だとでも言うのか!?
両親の居なくなるこの日の為に牛乳を飲み干し空にして、本人にはサンダルでもよかった天気なのに、トリックを仕込む時間を確保する為だけに紐靴を履いた。自分の兄がいつもポケットティッシュを携帯し、帰った後にトイレに行き、おやつを食べる前必ず飲み物を用意するという習慣を全て把握していたひよりになら出来る事だが。
まさか、この日の為だけに両親に旅行に行かせ、俺に期間限定雪見だいふくを買いに行くのを付き合わせたのか?
いや、それ以上だ!
この顔を見れば分かる! こいつは最初から、限定雪見だいふく一個などが狙いではなかったんだ!
手に持っている、牛乳を買った時に出たおつりで、買えるだけ買った大量の雪見だいふく。それに考えが回らないようにする為に、推理の目を期間限定雪見だいふくに向けさせておいたんだ! 奴の真の目的は苺味の雪見だいふくで、俺から千円札を出させる為に、カモフラージュを兼ねたベリーレアチーズケーキ味を買わせる事で小銭を使い果たさせた!
もし、そうだとすれば……なんたる女傑!
もしかしたら、本当に最初から全てが策略で、俺に復讐を仕掛ける動機を作る為に、わざと俺に「贅沢生チョコ」と間違え易い「雪見だいふくスペシャリテ第一弾トリプル生チョコレート」を買いに行かせたのではないだろうか。
まさか、俺はこんな奴に戦いを挑もうとしていたのか! 無理だ、勝てるはずないに決まってる!
俺は初めて、目の前に立つ女の脅威を理解し、戦慄した。恐怖で竦んだ脚が、ガタガタと震え始める。
怖い。ただ単純に、それだけを感じた。
今まで俺は、こいつの掌の上で、思うように動かされていたのだ。そして、これからも。
俺は……、俺は……ッ!
「じゃなくてさ。何勝手に俺の雪見だいふくとってんだよ。返せ」
「ああっ、それ私の! 鬼畜! 外道!」
「痛てっ」