はるか
白い天井。白い壁紙。風に揺らぐ白いカーテン。
午後の優しい太陽の光は、その期待を裏切る熱さをもって喉の乾きを連れてくる。
俺は今、ベッドに仰向けになって転がっている。
朝食はとらなかった。昼食さえもろくろく食べずに買ってきたばかりのゲームを開封した。
夏の熱気が容赦無く体力を奪う。何も考えられない。やる気が起きない。
違う。何故俺はこんなに正直じゃないんだろう。
南ハルカと名乗ったあの子は、少し話してる内に学年で言えば一つ下だということがわかった。海まではいつも徒歩で来ている。つまり、家はそう遠くはないということだろう。なんと通うことになる学校まで同じだった。俺はなんてついているんだろう!
そんなわけであれほど楽しみにしていたゲームにも全く力が入らない。
せんばゆうき。千波夕輝。それが俺の名前。どこにでもありそうな名前だけど、今までで他人と被ったことがあったのは一度だけだった。
しらかわゆうき。白川優希。
そう、あのサイコロのストラップを作ってくれた子だ。同じ名前なのに性別は違った。なんだか変な感じがしたものだった。
同じサイコロのストラップを持っていたメンバーは六人いた。
猪村陽、戸室拓二、姫本愛実、若畑小美知、白川優希、そして千波夕輝。俺だ。
小学校の頃、俺たち六人はいつも一緒だった。その仲の良さは学年の他の連中にも有名で、そのメンバーの一員であることに妙な誇らしさを持っていた。
なんでその六人だったのかの理由だなんて当時小学生だった俺たちにはどうでもよかった。六人だったらとりあえず何でもいい。単純で自由な勝手なルール。
でも。
今となれば、そこに断定できる理由を持たなかったことを後悔している。
人の繋がりはいとも簡単に切れてしまうことを俺は知っている。いや、知らされたんだ。複数人が絡んだ小さな社会に絶妙なバランスで保たれている均衡はたった一つの歪みで簡単に崩れてしまう。
昔味わったとてつもない寂しさ。それをわかっているはずなのに……。
思いがけないルートから自分の手元に戻ってきた小さなサイコロを指先に摘まんで腕を突き上げた。
俺はまだこの思い出のひとかけらを忘れられずにいる。捨てかけたねつけの紐が今まだ引き出しに入ってることがその証拠だ。
ただ、捨てられない理由はおよそわかっていた。
これはただの俺の執着心だ。白川優希への執着心なんだ……。
五年前の冬、白川優希は突然この世を去った。家族で年を越しにスキー旅行に行った先、一家を乗せた車に対向してきたトレーラーが正面衝突。その衝撃で車は走行していた橋のガードレールを乗り上げ、そのまま崖から川へ転落。トレーラーのドライバーを含む五人が亡くなる惨事となった。
訃報は年を越してから伝わった。
あいつは小学校を卒業しない内にその人生を終えてしまった。
優希の死は俺たちに大きな波紋を呼んだ。残された五人は次第に今までのように集まらなくなっていった。
あのサイコロは、もはや俺にとって六人の思い出なんかではなく、白川優希への思いでしかなかったんだ。
──彼女のことが好きだった。
好きといった感情がどういうものなのかわからないなんて嘘だ。
……俺は一体何から逃げている?
一度は捨てかけたのに……。どうしてお前はまた戻ってきた?
携帯が鳴った。
『エフエフもうやった?』
戸室拓二からのメールだ。彼と姫本愛実に関しては今でも連絡を取り合う仲にある。戸室は今では俺と違う進学校に通い、そこそこの成績を修めているようだ。それでいて大したゲーム好きでもあり、俺のいい話し相手になってくれる。
『買ったけどまだやってね』
ポーズで止めたままのゲーム画面を見ながら返信を打った。
(こんなのやったうちに入んないしな)
俺はケータイを閉じてベッドから立ち上がると、南ハルカが拾ってくれたサイコロを紐と一緒にデスクの引き出しに閉まった。
──
二日間の休みを挟んで、再び登校日が訪れる。昨日はゲームを結構進めることができた。南ハルカが学校に来ないのか少し期待したが、やはり登校してくるのは夏休み明けのようだった。
期末テストの答案が返ってきた。結果は中の下というかなんというか、その辺りだ。前日詰め込みでこれだけできたらすごくないかなんて考えてもみる。
明日も答案返却がある。まだ油断はできない……。
テスト返却の二日間は学校は昼までしかない。その日の帰り道も海に立ち寄ったが、ハルカの姿は見あたらなかった。
翌日の答案返却で、俺は過去最低記録を塗り替えることになった。数学に関しては全科目赤点だ。さすがに笑えない。もれなく追試にかかることになったが、この追試さえクリアすれば夏休みの補講やら何やらには行かずに済むようだ。
俺はまた帰り際に海の方へと足を運んだ。
ブロック塀の上に彼女は座っていた。考えてみれば、後ろ姿を見たのはこれが初めてだった。腰辺りまで伸びたきれいな髪が潮風にそよぐ。
いつもの場所に自転車を停めると、スタンドを立てる音に彼女は振り返った。向こうもすぐにこちらに気付いて軽い会釈を交わした。
彼女にただ会いたいだけというのもあった。だが、それ以上に確かめたいことがあった。
「海、好き?」
彼女から少し離れた位置に腰を掛けながら俺は言った。
「たぶん好きです」
「たぶん?」
「まだよくわかんないです」
「……そっか」
(よくわからないのはこっちのセリフだ)
「そういえば、ここから家近いの?」
「あ、はい。歩いて二十分くらいです」
(それって遠くないか?)
「歩いて二十分って、遠いのかな……」
彼女は独り言のように言った。一瞬こちらの顔を伺った後、少しうつむいた。
「やっぱり私、変わってますか?」
「え、どういう……?」
実際のところ少し変わっているように思うが、本人から尋ねられるとやはり戸惑う。
だが、もはやこれは想定の範囲内だ。
「ちょっと、変わってるかな」
言ってしまった。軽い賭けだった。
彼女は黙ってしまった。下を向いたままだ。やってしまったか?
「よかったです」
少し間を開けて、彼女は口を開いた。少し笑っているようだ。
(やっぱり変わってる!)
「みんな、そんなことないって言うんです」
「人によるんじゃない?」
「私、実際変なのに。みんなもそう思ってるんです」
「なんでわかるの?」
「わかるからです」
彼女の笑顔は消えていた。
「私、人の心が見えるんです。千波さんの思ってる通りです」
「……そっか」
あまりにも彼女の言葉がストレートすぎて、どのように反応すればよいのかわからない。ただ、一つだけわかっていることがあった。
──彼女に嘘は通じない。
「ごめんな……」
「いいんです」
本当は、ハルカが俺の心を見抜いているかどうかを確かめるために少しした嘘をつこうとしていた。それが無駄かもしれないことに気付いた俺はあえて本音を告げてみた。
そして、心の中で彼女を試そうとしたことを謝った。彼女はそれすらも全て見通して返事をしてくれたようだ。
「本当のこと言ってくれてありがとう」
彼女はまた少し笑って言った。
「そんな」
「みんな嘘ばっかり。どこに行っても誰と話しても嘘のことしかないんです」
「やっぱり、人それぞれ事情があるしね」
「それだってわかってます。仕方の無いことだし……」
彼女はどれほどの範囲で人の心を読んでいるのだろうか。
「不公平なんかじゃないですよ。むしろ、わかってしまう自分が憎いです」
少し彼女のことを羨ましく思ってしまった俺にハルカはそう言った。
「じゃあさ、南さんは隠し事無しってことにしよう」
「え?」
「やっぱり不公平かな」
俺はためらいなく本音を告げた。
「嘘はどうしても必要な時だけ! 俺とここで話す時には嘘は無しって……」
彼女は少し考えて言った。
「わかった。じゃあ、敬語使うのもやめます……やめる」
やはり彼女は相当俺の心が見えているらしい。
ハルカはまた視線を上げた。
「でも」
「ん?」
「隠すほどのこともないかな」
「あぁ、まぁそれは……」
「あと、連絡先?」
少しメールアドレス交換を考えただけなのにまたも見抜かれてしまった。なんだか恥ずかしい。
「あっ……。せっかく同じ高校になるんだし、友達というかなんというか」
ハルカはクスクスと小さく笑った。
「ありがとう」
これは何に対する“ありがとう”だったのだろうか。できるならば考えたくない。
連絡先を交換した時に初めてハルカを“晴香”と書くことを知った。
彼女が人と会話をする時、最も対等になれるのはメールらしい。電子的で無機質な文字の羅列から人の心は見えない。むしろ、それが俺たちにとっては弊害にも思えたりするのに。
複雑だ。
「どんな感じで人の思ってることとかがわかるの?」
彼女は少しうなってから答えた。
「よくわかんない。声が聞こえるというわけでもないし、目に見えるわけでもないし……なんとなく」
「ふーん」
それ以上は訊かないことにした。……無心に。
「そういえば、前に絵描いてた?」
「あ、うん」
「海とかの?」
「うん」
「いいな、俺絵とか描けないしさー」
「“描かない”んでしょ?」
彼女は少し笑っている。意外と鋭いところをついてくるではないか。
「いいなーって思った場所とか好きな場所をスケッチするのが好き」
「なるほど」
「あ、でも秘境? とっちゃったね。ごめんね」
わざとふざけた調子で言ってきた。恥ずかしい。許すまじ。
「知らなかったもん。私だってまさか人が来るなんて思ってなかった」
「しかも上から飛んできてな」
恥ずかしさを紛らすための自虐をし、二人で暑さを笑い飛ばした。
「あ、追試頑張ってね!」
はじける笑顔でハルカは言う。
「だからなんでそれ......」
「めんどくさそうだったから」
怖い。
その後しばらくハルカと会話をした後、少し寄り道をしてから帰路についた。
しかし、出会って数日しか経ってないのに見知らずの女の子に声かけて友達になって連絡先まで交換しちゃって。こんなことがあるのだろうか。話がうますぎる? 俺の普段の行いがってやつか。まあ、それはなさそうだ。
帰宅してからも何だか落ち着かない。ハルカと友達になった。ハルカと友達になった……。
ベッドに転がりながら携帯電話を取り出しアドレス帳を開く。紛れもなく、そこには南晴香の文字があった。特に用があるわけでもないのにメールを送ってみたくなる衝動に駆られる。メールでの会話なら彼女に心を読まれることもない。
とりあえず今は追試の勉強でもしよう。補講を受けるようなことになったら合わせる顔がない。
勉強の合間に携帯電話を取り出し、メールを一通送る。送り先は戸室。
どうしてもハルカのことを誰かに話したかった。友達になってしまったことを軽く自慢したい気もしたが、何よりも彼女の不思議な力のことを話してみたかった。その力を自分が手にしたわけでもないのに。だが、そういった話も遠慮なくできるのが戸室だった。とにかくいい奴だった。
戸室は小学校の頃の六人のメンバーの中でも最も古くからの幼なじみだ。運動だってよくできたし、顔までいい。悔しいが、昔からあいつはよくモテた。ただ、特別勉強ができるなんてイメージは無かった。
戸室が勉強面に関して頭角を現し始めたのは中学生になってからだ。彼の成績が常に学年のトップを維持し始めた頃から彼は度々、中学受験をしておけばよかったと嘆いていた。
彼に変化を与えたのは、やはり優希の死なのだろう。
優希は中学受験を目指していた訳ではなかったが、小学校のテストでは満点を連発させていた彼女は周りの同級生の子供ならではの単純な思考から天才扱いをされていた。学校で習わないような様々な知識を持っていたことも俺は尊敬していた。
──サイコロの目はね、見えている目とその反対側の目を足すと必ず七になるようにできてるんだよ。サイコロの目は六つまであって、その次の数字の七はお互いに協力したら作れるんだって。ママが教えてくれた──
彼女の声を思い出す。友達の証として六人にお手製のサイコロのストラップを配った後、俺に語ってくれた話だ。小学生だった俺は、ただ足して七になるという事だけに感動していた。
俺には戸室が、そんな彼女の途絶えてしまった人生の続きを辿っているように見える。本人は飽くまでも“自分のため”と言っていたが。
メールの返信はすぐに返ってきた。
『写メよこせ。てかそれって共感覚ってやつ?』
早速フェイスチェックが入る。写真なんてあるわけない。
共感覚。声や音、形及び文字等に色や味を感じる特殊な知覚現象だ。テレビなんかで聞いたことはあったが、実際にはどういうものなのかよく知らない。
『なんかよくわからないけど、何かが見えてるわけではないらしい。休み入ったら、どっか遊びに行かない?』
『写真スルーかよ。いいよ! 来年はどうせ遊べないし』
大学受験か。この前やっと高校に入ったって気がしているのにあまりにも早すぎる。次の受験のことなんて一切考えていなかった。
まだ夏休みまで少し時間がある。それまでに何かしておくことはないだろうか。
ふと思えば、そのように思うのは初めてだったかもしれない。とにかく、明日の追試をなんとかクリアせねば。
再び期末テストの問題を広げてペンを取る。
そして徐々に睡魔に飲まれていった……。
翌日の朝にドタバタしたことは言うまでもない。着替えもしてなければ何の準備もせずに寝てしまっていた。休憩気分で横になったらいけないことを何度繰り返せばわかるのだろう。
追試のためだけにいつもと同じ時間に家を出て、昼前には学校を去ることになる。面倒なこと極まりない。もっとも部活をしていたなら話は別だったが。
当の追試はおよそできたつもりだ。結果は終業式の日に返ってきて、その時に補講受講の裁断が下される。
特に用事も無いので家に帰ろうと学校の廊下を歩いていると、運動着姿の姫本愛実とすれ違った。彼女だけが六人メンバーの中で唯一同じ高校に通っている。小走りながらダークブラウンのボブヘアーを揺らし、軽い微笑を含めて彼女は言う。
「チナミ、追試受けてんの?」
「どうせバカです」
「知ってる」
そうして教室に向かって去っていった。チナミというのは俺のことだ。“せんば”と呼ぶより言いやすいとかなんだとか。“ついでの存在”みたいな響きだからあまり嬉しくないのだが、姫本に関しては特に何も思わない。
陸上部の練習の合間か知らないが、教室に何の用があるのだろうか。
駐輪場に向かい、自転車の鍵を外してサドルにまたがる。校門を出るまでの間、学校敷地内を自転車で走行することは禁止されているが、人気がないことをいいことに校門を立ち漕ぎで通過した。さて昼は何を食べようか。
……いた。
……長い髪の少女が校門の外にいた。
慌てて自転車を止めた。オイルの切れたブレーキの音が軋む。
「どうしたの!」
驚きと戸惑いを隠せない。どの道全ては彼女にお見通しだ。言うまでもなく、そこにいたのはハルカだった。しかも真新しいこの学校の制服姿だ。
「学校の下見に」
「下見? 下見って……歩いて?」
「はい。あ、うん。」
「歩きって遠くないの?」
「あ、というか夏休みの課題とか受け取りに」
「え? 宿題出てるの?」
「そんなに遠くないよ?」
この噛み合わない会話は何なんだ。
「課題ないと暇だし、やることもないし」
俺には到底考えられない発言だ。てっきり初登校は夏休み明けの始業式だと思っていたが、そういうわけでもなかったようだ。正式に出席がとられるのは夏休み明けになるらしい。
職員室に立ち寄るとのことでハルカは学校に入っていった。俺はしばらく校門の外で待つことにした。先ほどの追試を行った数学教師がいる職員室には絶対入りたくはない。
しばらくすると彼女は少し大きめの紙袋を手に下げて出てきた。課題の問題集やら何やらが色々入っているのだろう。それにしてもすごい量だ。
課題について色々きこうと思ったが、話題がそのことになるのは嫌だったから避けた。
(あーあ。どうせこれもお見通しなんだろうな)
俺は自転車を押しながら二人で並んで歩き始めた。
「追試どうだった?」
「えっ?あ、ぼちぼちかな」
「そっか」
「多分補講は無いと思う」
「フフフッ」
(なぜ笑う!)
「補講かかるに百円!」
「なんでだよ!」
「昨日勉強できてないでしょ?」
「……」
勝てる気がしなかった。それにしても百円とは何ともかわいらしい賭け金だ。お財布にやさしい。
学校前の住宅街を抜け、長い坂道を下る。差し掛かる三叉路を曲がるといつもの川沿いの道に出た。程良く雲のかかった正午前の青空が心地良い。
「昼飯どうするの?」
おもむろに俺はきいた。
「わかんない。どうしようかなあ」
彼女みたいな子は家に帰ったら食事が準備されているようなイメージがあったから少し意外だった。
「どっか食べに行く?」
「うん」
明るい返事。俺が話す必要がない勢いだ。
「今日夕方まで学校にいる設定になってるから」
「ふーん?」
「あんまり家に帰りたくない」
「そうなんだ」
「家にいたら肩凝っちゃうもん」
ハルカは後ろ手を組んで軽いステップを踏むような歩調で進み始め、歩道に転がっていた小石を道路脇へ蹴飛ばした。
「親とか厳しいの?」
「厳しいというか優しすぎて嫌。叔父さんが」
「優しすぎ?」
「なんかこう『かすり傷一つ付けさせません』って感じ」
「ボディーガードじゃん。でもさ、それで外にいること許されるの?」
「学校は超安全地帯だって思ってるから」
「海にいた時は?」
「お母さん以外仕事で出てたから。お母さんは結構自由にさせてくれる」
「へえ……」
「で、ごはんは?」
「あぁ、どうしよう。何でもいいの?」
こくりと頷く彼女に軽い気持ちでファーストフード店を提案したら思いの外、意気揚々と乗ってきた。あまりそういうものは食べたことがないらしい。わかる気はする。俺たちは帰宅の進路を変更して大通りに出て行った。
店に着いたら、まず二つ席を確保してから各々のオーダーをとり、テーブルに盆を運ぶ。その一連の流れさえもハルカには新鮮だったようだ。
他愛のない会話を挟みながら、最近やけにパテが小さくなったハンバーガーを頬張った。
「夏休み予定とかあるの?」
突然ハルカがありきなりな質問を投げかける。
「んー。特にないな」
ポテトを摘みながら俺が答える。
「やりたいこととかもないの?」
「かなあ」
(なんかやりたいことあったっけ?あったはずだ。ただ……)
「できないって思ってる」
ジュースのストローを口にあてながらその言葉を発したのは俺ではなく、向かいの席に座るハルカだった。俺は少しの間黙ってしまった。
彼女の前では嘘はつけない。
思ってることを全て彼女に晒しだしてしまうべきなのか。口にしなかったとしても彼女の前ではお見通しならば、全てそれに任せてしまおうか。
黙ったままの俺の顔をハルカが遠慮気味に覗いている。
「あ、ごめん」
気まずい空気をなんとかしたい。特に彼女の前であるだけに、この状況は辛すぎる。
「いやなんかさ、できるもんなら豪華客船乗って世界一周のクルーズ旅行とかしたいしさ、一流ホテルのフルコースとか……」
ハルカはテーブルに両腕をつきながら尚もじっと俺の顔を覗いている。
俺は小さくため息をついた。
「あるよ。やりたいこと」
言ってよかったのかどうなのかよくわからなかった。それが事実であるのかどうなのかすら自分でもあやふやだ。
ハルカは満足気にテーブルから腕を離し、椅子にもたれかかった。
「色々あるよ」
「色々あるんだね」
「特に決まってないけど新しいこととか、ずっとやれてないこととか」
「手伝おっか」
ハルカの急な発言に俺は慌ててしまった。
「え?」
「高校生最後の夏休みだよ?」
来年の受験のことを示唆しているのか。こいつは成績良いやつだと俺はその時確信した。
「……そうだな、何しようかな」
ハルカは自分の制鞄から小さなメモ帳とペンを取り出して俺に突き出した。
「はい! これにやりたいこと全部書いていこ!」
子供っぽいとは思いつつ、それもバレているのだろうとも思いつつ、俺は黙ってメモ帳とペンを受け取った。
――ふと店内のBGMが耳に入る。
「まず、ここ出ない?」
日陰を求めて川沿いの市民図書館へと移動した。
適当な椅子に座るとハルカは急かすように俺にメモ帳とペンを渡してくる。
「何でもいいじゃん! 思ってるだけじゃだめ!」
確かに考えてるだけでは全然思い浮かばなかった。俺はペンを手に取り、メモ帳の紙に軸を当てた。
そのペンは自分ですら信じられないほどに流れるように小さなメモ帳の上に箇条書きで文字を刻んでゆく。まるで何かに取り憑かれてしまったかのようだった……。
その時、俺には聞こえた。俺の中で止まっていた何かが動き出す音が、確かに聞こえた。
彼女には……ハルカだけには、それがわかっていたのかもしれない。