日常の崩壊―――転
少し、V・Vというものの認識が甘かったのかもしれない。
駆け出してすぐに大輝はそう後悔した。
その瞬間に大輝のわずか数メートル横を熱線が走る。
今日何度目かわからない冷や汗をかき、大輝は振り返った。
背後に広がる火の海は瞬《またた》く間に範囲を広げ、その中を闊歩《かっぽ》する須藤が辛うじて見える。
須藤が切っ先を大輝に向けたまま剣を引き、数百メートルあるにも関わらず突きを放つ。
剣から放たれる熱線。
それは炎を凝縮し範囲を絞った結果、レーザーのようになったものだ。
大輝は偶然にも須藤の方を向いていたために射撃を避けることができたが、背中を見にせた瞬間に穴を開けられそうな速度と威力を有していた。さっきは運がよかったとしか言いようがない。
大輝は愛深が落ちないように抱えなおして、兎に角この林から出ることを優先した。林から出たところで救援があるわけでもないのだが、背後が火の海というのは精神的な圧迫感を覚えるのだ。
それからしばらく須藤の放つ熱線を避け、須藤と少しでも距離を開ける為に走る、ということが続いた。
「………どのくらい寝てた?」
腕の中で愛深が目を覚ました。
「数十分かと」
大輝は後ろを窺い見ながらの答えだったので愛深は何事かと見る。
「……っ!
須藤が本気だ。でも、どうして」
大輝は愛深を降ろすと今まで起こったことを掻い摘まんで愛深に話す。
「そう」
少し間ができる。
愛深は悩んでいた。今この状況で会話をしている余裕はあまりない。しかし先程の話題についてどうしても訊きたいことがある。
訊くべきか、訊かざるべきか。迷いは深かったが悩む時間は長くはなかった。
愛深は訊くことを選ぶ。
「あなたは……どこに所属するつもり、なの?」
愛深はその無表情と抑揚の無い声音でなんとか大輝には悟られなかったが、心の中では動揺していた。
できれば自分と一緒にいて欲しい、愛深は切実にそう願っている。だが、これは大袈裟ではなく人生を左右しかねない選択なのだ。軽々しく 勧められるはずもない、と愛深は思っていた。
そんな愛深の気持ちは、まだ出会ったばかりと言ってもいいような関係しか持っていない大輝にわかるはずもなく。
「そうですね、まだ詳しくは聞いていないので兄や弟にいろいろと聞いてからにしようかと」
大輝の発言に首を傾げる愛深。
「兄弟……弟もなの?
でも大輝は十七歳でしょう?十七歳以下でV・Vの研究者なんて聞いたことが……」
そこで愛深は気付いた。気付いてしまった。
「まさか、大輝の兄弟って」
大輝の兄弟が柊龍真と柊隼哉だということに。
自分を追い詰める組織の一員だということに。
それ以上の因縁を持つ相手だということに。
顔面が蒼白になる愛深。
そのまま崩れ落ちそうになった彼女を慌てて大輝は抱き止めた。
「大丈夫ですか!?」
愛深は無言で頷くと立ち上がる。
自分で心を落ち着かせる為に深呼吸をした。
そのとき須藤の熱線が大輝たちの上空を通りすぎた。
身構える大輝の頭上をまた熱線が通りすぎる。
大輝はまだ顔が青い愛深を引っ張って駆け出した。立ち止まってはいい的になるだけだ。
今度はまるで誰か別の人を狙っているように検討違いの方向に熱線が放たれる。
理由はわからないが、狙いが乱れている間に逃げ切ろうと二人は走り続ける。
林の終わりが見えた。
一度大輝は振り返るが視界に須藤の姿は見えない。
二人は安心し警戒を少しだけ解いた。
しかしその行為は些《いささ》か早急すぎた。
不意に大木に穴が開く。
そう大輝が認識したときには熱線が彼の左肩を掠《かす》めていた。
皮膚を焼かれたときとは比べ物になら無いくらいの痛みが大輝を襲い、大輝は思わず足を止めうずくまる。
これでは次射を避けることができない、と大輝は自分を叱咤《しった》するが足は意思と反してゆっくりとしか動かない。
しかしその隙をついて次射が彼を襲うことはなかった。
須藤はまた検討違いの方向に熱線を放つ。
愛深は須藤らしからぬ狙いに疑問をもったが今は逃げることを優先し、うずくまる大輝の手を引いて林の出口まで向かう。
ようやく二人は林を抜けた。
◇◇◇
うまく逃げますね、と須藤は静かに呟く。
幾度《いくど》となく熱線を大輝に放つのだが、一発も当たるどころか掠りさえもしない。この熱線は今持っているV・Vの中で最速の技なのだが、大輝はそれを人ひとり抱えながら逃げている。
共有者や共有者候補は普段から身体能力が高い方だというのは統計的な調査でわかっている。更にV・Vを使用している最中の共有者は身体能力が格段に上がり、常識の範囲外の力を発揮すことも既知の事実だ。
だが大輝はV・Vを使用することなくその力を持っている。
(神坂と触れているからですかね。
それとも元々の身体能力があの域まで達していたのでしょうか)
須藤の知的好奇心が強く刺激される。
(そもそもなぜ神坂と長時間触れ合っているのにも関わらず、体が結晶化を始めないのでしょう。
うーん、殺すには惜しい実験素材ですね)
そう思いながらも手は止まらずに動き、剣は絶えず熱線を吐き出すが、やはり当たらない。
そろそろ苛立ちが募り始める頃だ、と須藤は自己分析すると一度手を止めた。
もうすでに周りは火の海と化していたが須藤の服には煤《すす》すらひとつもついていない。
炎を自由に操れる須藤にとって炎に包まれることはなんの障害にもならない。やろうと思えば服を燃やさずに体全体を炎で包むことも可能だ。
攻撃をはずし続けて苛立ち始めた一度頭の中をリセットする。早く捕らえて研究をしたいという気持ちが募っていたばかりに狙いが甘くなっていたのだろう。
須藤は攻撃がより当たりやすいように大輝との距離を詰める。いくら大輝の方が身体能力が上だといっても人ひとり抱えた状態では遅くなる。
須藤は難なく大輝との距離を縮めることができた。
彼は剣を構えて続けざまに三発熱線を放つが、大輝はすべての紙一重のところで避ける。
「チッ」
思わず舌打ちが溢れた。
それでも熱線を吐き出し続け、その数が十に届く辺りまで放った。
須藤は少しがむしゃらになりかけていた。自分らしからぬ行動に彼は内心で舌打ちをする。
更に距離を詰めようと足を一歩踏み出したその時、一発の銃弾が彼の頬を掠める。
須藤は素早く足を止め辺りを伺う。発射音すら聞こえなかったということは超長距離からの狙撃か、特殊な加工を施した銃かどちらかということだ。そしてそのどちらも普通の銃では不可能だ。
つまり、
「やれやれ、またあなたですか。龍真君」
返事は銃弾で返された。
「おっと、乱暴ですね。
龍真君、君は私がV・Vを追いかけるとすぐそうやってちょっかいを出す。
別にいいでしょう?
誰が死のうが誰が生きようが、誰が私のV・V《モノ》になろうがあなたには関係ないことですよ?
あまつさえ今回は仲間がひとり増えるかもしれないんですから、邪魔しないでください」
どこからか声が聞こえた。
「どの口がそれを言うんですか。
その仲間になりそうな人を一回転ばされたらくらいで、子供みたいに怒って殺そうとしていたでしょう?
それにあなたは国家でS指定されたV・Vを殺そうとしたんですよ?
わかっているんですか、今この世界に死んでいいようなV・Vや共有者は一人もいないってことを。特にS指定されたV・Vは稀少ですし、特異硬化病の謎を解く鍵になるかもしれない人なんです。
いくら神坂が大罪を犯したからといっても殺すのは無しです」
「確かに神坂はS指定されたV・Vですが、誰も触れることすらできないんですよ。そんなのなんの役に立つっていうんです?
私は役に立たないものは嫌いなんです。
その上、神坂は少なくとも十五人の一般人を殺しているんですよ。
裁かない理由はないと思いますが」
「裁く、裁かないは政府が決めることです。僕らのすることじゃない」
須藤は冷笑を浮かべる。
「なるほど。君は弟に人殺しという役割を押し付ける、と。
君もなかなか人が悪い」
龍真の声音に動揺の色は見えず冷たく言い放った。
「弟はそれを承知で入っています。
あなたが関知することではない」
「ふむ、なるほど。確かに私がどうこう言うことでもありませんね」
須藤は驚くほど簡単に自分の意見を翻《ひるがえ》す。
しかし
「しかし龍真君、君は迂闊《うかつ》すぎますよ。狙撃手が会話に興じるなんて、位置を教えているようなものじゃないですか。
攻撃されちゃいますよ?
こんな風に……ねッ!!」
須藤は声のする方──ちょうど大輝たちの頭上を通り過ぎる軌道だった──に熱線を放つ。
が、手応えが感じられない。
もう一度放つと、今度は感じていた龍真の気配がなくなる。
須藤は一瞬倒したと錯覚したが、すぐに別の気配が全く違う方向から現れた。
「面倒な」
須藤は吐き捨てる勢いで呟くと駆け出す。
気配の元に着くとそこにはやはり誰もいなかった。
須藤はすぐさま飛び退る。
少しのタイムラグを開けて須藤のいた場所に無数の銃弾が突き刺さる。
銃弾は全方向から迫っていた為に軌道を予測するということができない。
須藤は視認できるとは思っていなかったが素早く辺りを見回す。案の定龍真を確認することはできなかったが、代わりに大輝と愛深が林から出ていくところが見えた。
逃がさないように牽制の意味で熱線を放つが、大輝の肩に攻撃が掠り足を止めうずくまるのが見えた。
須藤は進行方向を大輝たちに変え駆け出すが、またもや龍真に足止めされる。
「あぁ、逃げられてしまいました。
これで万が一、彼が神坂と契約を結んで我々にその刃を向けた場合、君はキチンと同胞と楽園《エデン》を守れるんですか?
私は知りませんよ」
「あいつはそんなことしないです」
龍真は咄嗟《とっさ》にそう反論した後、自分の犯した過ちに気づいた。
「? 随分と知った風な口を利くんですね。
お知り合いですか?」
龍真は沈黙する。
「ふむ、なるほど。
なるほどなるほど。正解ですかね」
須藤は嗜虐的《しぎゃくてき》な笑みを浮かべる。
「それはそれは」
どんどんと深まる笑み。
「あぁ、それはそれは。とてもいいです。いいですよ」
須藤の感情の高ぶりと共に剣が纏っていた炎が燃え盛る。
龍真は無言のまま引き金を引いた。
牽制の意味ではなく、死をもたらす必殺の意思をもって弾丸を送り出した、つもりだった。しかし龍真にもやはり甘さは残っていた。
このまま須藤を野放しにしておけば大輝に危機が訪れるとわかってはいるのだが、やはり同僚を殺すのは気が引ける。その一瞬の迷いがV・Vにも伝わり、彼女も躊躇う。
その結果、V・V本来の力が発揮できず、発射音が生じた。
(……っ!こんな初歩的なミスをするなんて)
龍真は臍を噬む《ほぞをかむ》。
V・Vを使用している状態では反応速度も上がり、普通の人が反応不可能な速度にも対処できるようになる。
須藤は発射音を聞き取り龍真の場所を把握すると、射線上から体をずらす。
銃弾は地面を穿った。
「ふふっ、甘いですねぇ、龍真君。
この一撃で私を仕留め損なったのは痛いですよ。あの少年を守りたいのなら、ね」
須藤は楽しそうに言う。
「では、私はここら辺で失礼させていただきます」
須藤は慇懃《いんぎん》にお辞儀をすると剣を振る。
纏っていた炎が回りの木々へと移り須藤の周りを火の海に変える。
「あー……、逃がした」
龍真は木の上から飛び降りると肩を落とす。
その傍らにはいつの間に出現したのか、おっとりした雰囲気の女性が立っていた。
「う~ん、だいちゃん大丈夫かな?」
「何とかするしかないさ」
龍真は静かに言う。
「それは須藤さんのこと?神坂さんのこと?それともだいちゃん自身のこと?」
「全部だよ」
龍真はツンツンに立った髪を掻きながら困ったように言った。