少しだけ異なる日常
はじめまして。井立彼方と申します。
初めて小説を書くので何かと至らない部分が多いと思いますが、温かい眼で見てくださると幸いです。
なお、更新は遅くなることが多々ありますがご容赦いただけますようお願いします。
朝日が射し込み少年の顔を照らす。
少年は眩しさに顔をしかめるとゆっくりと瞼《まぶた》を開け、目覚まし時計を確認した。
時刻は七時三十八分。
「やっばい!遅刻する」
少年は悲鳴を上げて飛び起きるとバタバタと準備を始めた。
もう三十分は早く起きる予定でセットした目覚まし時計は、同室で寝息をたてている兄、もしくは弟に止められていたらしい。
寝室から更衣室兼勉強部屋に駆け込むと、一年半着ている水色と青のストライプの半袖シャツと紺のスラックスを着て、ポケットに財布、携帯を突っ込む。
机の上に散乱している勉強道具をまとめて鞄のなかに放り込むと、部屋を出る。
準備を済ませた少年は階段を駆け降りる、のではなく、飛び降りた。
ドンッと大きな音と振動が家中を駆け巡り、母親の怒号が続く。
「大輝、階段を飛び降りるな!家が壊れるでしょ!!」
少年──柊大輝《ひいらぎだいき》は何食わぬ顔で立ち上がると、
「いやいや、そこは息子の体を心配するとこじゃないの?二階からダイブしたんだよ。数段飛び降りるとかじゃなくて階段丸々ピョンだよ。足とか骨折したかもしれない、とか考えない?」
「ことあるごとに飛び降りといてよくいうわ。あんたはバカみたいに丈夫だから怪我することはないでしょ。
っていうか、そう何度もポンポン飛ばれたら本当に床が抜けるかもしれないからやめなさい」
「はぁい……ってヤバイ、こんなことしてる場合じゃなかった。マジで電車に乗り遅れる」
携帯をスライドさせ時間を確認する。
七時四十五分。
家から徒歩で十分かかる最寄り駅から電車が出発するまであと五分。
大輝は朝食を食べずに家を飛び出した。
何とか電車に間に合った。
この電車を逃すと次に来る電車は三十分後になり、確実に学校に遅刻してしまう。
大輝は電車の中へと荒い息を吐きながら駆け込む。走ってきたことによって上がった体温は真夏の熱気のせいで下がるのを妨げられ、体を冷やそうと流れる汗の量は少ないとは言えない程になっていた。周りがチラチラとこちらをうかがい見るが、息が整うまでは汗を拭うこともままならない。
居心地の悪い思いをしながら大輝は必死に息を整えた。
電車が次の駅を過ぎた頃には呼吸が整い、辺りを見回すと同じ車両の中からセーラー服を着た少女の後ろ姿を見つけた。
身長は女子高生の平均を少し下回り、吊革を掴む腕は目一杯伸ばされている。肩口まで伸ばした髪を一括りにしていて、少し汗ばんだうなじが露《あらわ》になっていた。
大輝からは後ろ姿しか見えなかったが、彼女が人懐《ひとなつ》っこい顔をしていることを知っている。綺麗というよりは可愛いという言葉が似合う少女だ。
大輝は電車が止まるのを──次の停車駅が終点だ──待って、下車する人に紛れて少女に近づくと軽い挨拶と共に肩を叩いた。
「ぅひゃあ!?」
少女は過大な悲鳴を上げて周囲の視線を一斉に集める。大輝は彼女が怖がりだということをを思い出し、苦笑した。
少女は恐る恐る振り向いて、大輝を視認すると安堵の表情を浮かべ息をつく。
「ごめん、紗奈が怖がりだってことすっかり忘れて た」
紗奈───水無瀬紗奈《みなせさな》は膨れっ面になると、両手で大輝の頬を引っ張った。
紗奈が大輝に対してだけよくする軽いお仕置きだ。
「いひゃいひょ、ゆひゅひへほ」
「ダメ。許さないもん」
紗奈はそのまま頬を上へ下へと引っ張りしばらく大輝の頬を弄《もてあそ》び感触を楽しむと、満足したのか笑顔を浮かべ手を離した。
「ふふっ、相変わらずだいちゃんのほっぺたは柔らかいね。いつまでも触っていたい気分だよ」
「勘弁してよ」
大輝は頬を擦りながら言う。紗奈はくすりと笑うとタオルを差し出した。
大輝が汗をかくと紗奈がタオルを渡す。これも二人の間ではよく見られる光景だ。
「ほら、これで汗拭きなよ。首筋とか汗すごいよ」
「ん、ありがとう。しかし、暑くなったな」
「そうだね。明後日から夏休みだし、もう夏真っ盛りって感じだね」
紗奈は拭き終わったタオルを受け取り鞄にしまう。以前はタオルを借りたときは洗って返していたのだが、中学生になったころから紗奈が頑《かたく》なに洗って返さなくていいと言い張るので、大輝は紗奈に対してだけはそのまま返すことにしていた。
向かいのホームに電車か到着し、ふたりは乗り込む。
「ね、だいちゃん、今年の夏休みは何か予定ある?」
電車が発車すると紗奈が少し緊張した面持ちで聞いてくる。
「夏休みのことを考えるのはいいけど、オレはまず今日のテスト返しが気になるよ。数学とか大丈夫?」
「うぅー……聞かないでよぉ。
赤点は取らないかもしれないけどいい点は期待できないよ。だいちゃんは?」
「んー……いつも通りだとは思う。可もなく不可もなく、平均よりもやや上って感じかな」
本来ならばもう少し良い点を取れるのだが、大輝はテスト期間に自分の勉強をしていない。決して勉強をサボっているわけではないが、テスト前で部活が休みになると放課後に紗奈や他の友達に勉強を教えてとせがまれ、教えているうちに自分の勉強時間がなくなる、というのが現状だ。
ちなみに学年の平均点は五十点。
大輝の平均点は七十点。
やや、というには些《いささ》か点数が高い。
大輝は自らそらした話題を戻すべく夏休みの予定を思い出す。が、部活をやっているわけでもバイトをしているわけでもないないため、夏休みに特に予定があるわけではなかった。
予定を聞いた紗奈は急にあちこち見たり、手を半ば上げては下ろしたり、口を開けたり閉じたり、と落ち着きをなくし始めた。
どうしたのだろう、と怪訝《けげん》に思いながらも根気強く待っていると、しばらくの沈黙のあと紗奈は意を決したように両手を握り、うつむき気味になって言う。
「じゃ、じゃあ……さ、夏休みのいつか、いつかでいいんだけど、ふ、ふたり、きりで、どこか遊びに行かない?」
大輝は耳まで真っ赤にしてうつ向いたままの紗奈の様子に苦笑する。
今までも二人で遊んだことなら何回もあるのに、なぜ今さら遊びに誘うのに緊張する必要があるのだろうか。小学三、四年までの様に気軽に誘えばいい話だ。
「いいよ、どこに行く?まぁ、遊ぶだけだったらオレの家でもいいけど」
「い、家!?流石にそれはちょっと……」
「遠慮しなくていいよ。もう紗奈は家族みたいなものだし」
紗奈は嬉しいような、悲しいような微妙な表情になった。
「そうじゃなくて、もうちょっと……その……」
一度言葉を切って息を吸い込むと早口で言い切る。
「遊園地とか映画とかそういうとこに行きたいの!!」
いきなりの大声に少し驚きながらも平然とした態度で大輝は了解をする。
「それにしても何で遊びに誘うだけなのにそんなに緊張してたの?
別に二人で遊ぶなんてそんなに珍しいことでもないのにさ」
大輝が無邪気な質問をする。
しかし、この質問を発端とした事故が、今後の紗奈の人生を大幅に変えることになるとは、大輝にも紗奈にも予想がつく筈もなかった。
「………だって緊張するじゃない。いくら小さい頃からの付き合いっていっても、デ、デートに誘うんだよ?」
紗奈は恥ずかしそうに、だが、どこか嬉しそうな表情を浮かべる。
六年間想い続けた想い人と、とうとうデートをするまで漕ぎ着けたのだ。今、紗奈の心中は、大輝との関係が幼馴染みから一歩進んだ関係になれるかもしれないという淡い期待で満ちていた。
しかし……
「えっ、デート?
うーん………端から見ればそうなるのかな。オレはただ友達と遊びに行くような感覚でいたんだけど……」
まさか紗奈がデートのつもりで誘っているとは露程《つゆほど》にも思わなかった。 大輝は急に恥ずかしくなり、確認の意味も込めて改めてデートなのか、と訊いてしまう。
大輝は紗奈とは小さい頃からの友達で、女性だということを意識せず発言することがたまにある。その時の紗奈は少し不機嫌になるがすぐ許してくれていた。
今回も失言したことにすぐ気づいたが謝れば許してくれるだろうと大輝は思った。が、予想とは違う方向に事態は進行した。
紗奈は目に涙を浮かべて笑ったのだ。
怒りもせずショックを受けた表情を見るのは初めてだった。
「友達……。
そうだよね、やっぱりわたしはいつまで 経ってもだいちゃんの友達、なんだよね。
……ごめん、わたし先に行くね」
紗奈はそう言うと別の車両に向かうべく歩き出すが、涙で前がよく見えていないのか途中で女性にぶつかってしまった。
ぶつかった拍子に女性の鞄から包みが落ち、弾みで黒い結晶がこぼれ落ちた。紗奈は慌てて結晶を拾い包みにくるむと女性が呼び止めるのも聞かず別の車両に移って行った。
大輝は紗奈の様子の激変に付いていけず首をかしげ棒立ちになるしかなかった。
「ちょっと、いいですか?」
大輝は不意に声をかけられ顔を上げると、そこには紗奈とぶつかった女性が立っていた。
年は二十歳中盤で、セミロングの銀の髪に黄金の瞳を持つ女性だ。
切れ目が印象的な美人だが、なぜか柔和という言葉が似合いそうな雰囲気を醸し出していた。
身長は大輝と同じくらいなので一七十前半といったところか。
女性としては長身の部類にはいるが、女性としての出るところは出て引っ込むところは引っ込むというメリハリのついた体型をしていて、細身の体とバランスがとれていた。
「今、少しお時間よろしいですか?」
「え?えぇ、大丈夫ですよ」
「貴方はさっきの女の子の彼氏さんですか?」
「いえ、友達ですけど……」
「そうですか、友達、ですか。
……すいません、少し差し出がましいことを申し上げますけど、さっきの子のこと気にかけてあげてください ね。たぶんこの後もいろいろ辛い目に遭うかもしれないので。
できればあの子と……あ、いえ、これは余計な事ですね」
大輝は話の展開が読めず怪訝な顔を浮かべる。
「えっと、どういう……?」
「あ、すいません。
つまりは今まで通り、できれば今まで以上にあの子と仲良くしてあげてくださいね、ってことです。
自分が大変なときに誰かが側にいてくれるというのは、意外と助かるものなんですよ」
見ず知らずの私が言うのも変な話ですけどね、と言い残して女性は電車から降りた。
取り残された大輝は女性の言葉の意味が全くわからず頭を捻《ひね》らせるが、答えなど出るはずもない。
しかしなぜか頭の中から消し去ることもできず、モヤモヤとしたまま一日を始める羽目となった。