マターの淵
目を覚ましたとき、網膜に映ったのは見慣れないホテルの、白く冷徹な天井だった。
セイジは泥のような眠りから引き剥がされるように体を起こし、重い溜息を吐き出した。
「今日は何日だ……?」
頭の奥がひどくズキズキと痛む。眠っていたはずなのに、朝起きるといつも、脳みそを強引にかき回されたようなひどい疲労感が残っている。こめかみを強く押さえながら部屋を見渡すと、テーブルの上に二枚の切符が置かれているのが目に入った。
「今日出発だったな、サジュ? ……そうか、もう彼女はいないんだっけか」
そう呟きながら、重い足取りでバスルームへと向かう。
温かいシャワーを浴びてみても、身体にべったりと張り付いたような気怠さは一向に抜けない。
「もうサジュはいないのに、なぜ私は帝都に行かねばならないのか。まったく……」
三十年間、東部の東側、マターもろくに届かないルードの街で暮らしてきた。
日本で生まれ育ち、マター工学で最年少博士号を取得して教会系の電力会社に研究職として雇われた。マター発電所を実現するために、このマター不足にあえぐ帝国東部の最果てへと赴任して、気づけば三十年が経っていた。
あまり記憶がはっきりとしない。しかし、髭を剃るために鏡を見つめていると、それなりに年齢を重ね、辺境の苦労が刻まれた自分の顔が映っていた。
自分は結婚をしていたはずだ。だからこそ、このルードの地にこだわって本社からの転勤話を何度も断り続けていたはずなのに、なぜ今回は帝都行きを承諾したのだろう。
着替えを済ませて改めてテーブルへ戻り、二枚の切符を眺める。
『サジュ』——確かに妻の名前だったが、どうしてか彼女の顔も、交わした会話も思い出せないのだ。
一緒に住んでいた自宅は、帝都転勤に伴って数日前に売却済みだった。帝都行きの列車に乗るまでの間、このホテルで共に過ごし、一緒に乗るはずだったのに、彼女は出発直前に突然急死してしまった。
「あまりのショックで、記憶が飛んでいるのだろうか」
カバンを漁ると、葬儀場へ遺体を引き渡した書類の控えだけが残っていた。
この世界は三女神の教えに支配されており、すべての物質はナノマシンによって分解され、世界の根幹であるマターへと帰るとされている。つまり、墓も遺骨も残らない。ただこの一枚の無機質な書類だけが、自分がサジュの夫であったことと、妻のサジュがもうこの世にいないことの、唯一の証明だった。
携帯端末のアラームが鳴る。もう出発の時間だ。
すべてを諦めたようなけだるい動作のまま、セイジは上着を羽織り、部屋を後にした。
フロントでのチェックアウトを済ませ、重い足取りでロビーに出た瞬間、セイジは周囲の空気が妙に張り詰めていることに気づいた。
ホテルの従業員たちが、一様に背筋を伸ばし、視線を向けることすら躊躇うような緊張感を漂わせながら、ロビーの一角へとしきりに気を揉んでいる。
その視線の先に、一人の女性が立っていた。
くすんだ亜麻色の髪に、吸い込まれそうなほど鮮烈な輝きを帯びた赤い瞳。通り過ぎる誰もが思わず足を止め、我を忘れて振り返ってしまうほどの、圧倒的な美貌と気品。サジュを失い、さらに正体不明の倦怠感に脳を蝕まれて完全に死んでいたセイジの心でさえ、その姿には一瞬、強烈に目を奪われた。
(……この世のものとは思えないな)
夢でも見ているかのようなぼんやりとした頭でそんなことを思いながら、セイジは駅へと向かった。
駅に直結したそのホテルから、静かに発車を待つ洗練された長距離電車のプラットホームへ移動すると、先ほどの彼女が、一等客車へと一足先に乗り込んでいくのが見えた。
セイジも引きずられるように車両へ足を踏み入れたが、狭い通路を進んだところで、男たちの下卑た笑い声に行く手を阻まれた。数人の酒臭い一等客の男たちが、あの亜麻色の髪の女性を取り囲んでいる。
「お一人ですか、お嬢さん。退屈な長旅だ、僕たちの個室で少し上等なワインでもどうです?」
「お気遣い、ありがとうございます」
女性は完璧な淑女の微笑みを崩さないまま、驚くほど落ち着いた声で答えた。
「でもあいにく、連れが私を待っているんです。どなたかと私を間違えているようでしたら、道を開けていただけますか?」
「お連れの方には少しお待ちいただくとして、僕らに乗り換えちゃえばいいじゃないですか。ちょっとお話しするだけですよ」
男たちは執拗に距離を詰め、通路を完全に塞いでいた。彼女の背後は行き止まりだ。
寝不足と脳の奥の気味の悪い重さでささくれ立っていたセイジに、関わり合いを避けるような心の余裕はなかった。自分の部屋へ行く道を無作法に塞がれているという不快感がどうにも我慢できなくなり、セイジは大股で男たちの背後から踏み込んだ。
男たちの間を払いのけるようにして、囲まれていた女性の細い腰に、すっと大きな手を回す。そのまま、自分の胸元へとぐいっと力強く引き寄せた。
「——慌てて一人で先に行くから、心配したじゃないか」
彼女の身体が一瞬、硬直したように強張った。いきなり見知らぬ男から抱き寄せられれば当然の反応だ。
こちらは助けに入ったつもりだが、彼女からしてみれば、自分もあの男たちと同類だと感じてしまったかもしれない。深く考えずに行動に移してしまった軽率さを内心で反省したが、今更引き下がるわけにもいかなかった。
「待たせてすまない。部屋はこっちだよ」
セイジはそれなりに長身であり、また100人以上の技術者を擁する発電所の所長を務めてきた男だ。相応の貫禄と威圧感がある。男たちはその気圧されるような気配に、思わず道を譲った。
セイジは彼女の腰を優しく、けれど確実に抱いたまま、自分とサジュが座るはずだった二名用の個室へと滑り込んだ。スライド式の扉を閉め、すりガラスのカーテンを下ろすと、車内特有の静寂が室内に戻る。
「……不躾に触れてしまって申し訳ない。怪我はありませんでしたか?」
セイジはすぐに手を離し、一歩下がって深く頭を下げた。
「いいえ、助けていただきありがとうございます」
女性は見たところ二十歳前後くらいだろうか。まだ微かに残る胸の不思議な動悸を隠すように、ふわりと微笑んだ。
「私はエルマと申します」
「私はセイジです。今の騒動なら、じきに車掌が対応してくれると思います。それまでの間、この部屋でしばらく待機された方がよいかと思いますが……もしご自身のお席に戻られるというのなら、お送りいたしますよ」
丁寧で紳士的なセイジの物腰に、エルマは静かに対面の革張りシートに腰掛けた。そして、テーブルの上を見つめる。そこには、先ほどからセイジが握りしめていた二枚の切符が並んでいた。
一等客室の切符には、必ず利用者の名前が印字されている。一枚には今自己紹介をしたセイジの名前が、そしてもう一枚には『サジュ』という名前があった。
エルマはその名を見た瞬間、ほんの一瞬だけ、その赤い瞳の奥の光を鋭く変えた。テーブルの上の切符と、目の前に座る疲弊した男の顔を交互に見つめ、何かを深く得心したように静かに息を呑む。
その視線に気づき、セイジは言い訳がましく事情を説明することになった。
「ええ。本当なら、二人で乗るはずだったのですが……出発直前に妻がマターの淵へと旅立ってしまいましてね。不本意ながら一人旅となってしまいました。ですから、その席は自由にお使いください」
そのとき、扉が小さくノックされ、車掌が顔を出した。その物腰は極めて洗練されており、落ち着いている。
「先ほど通路を塞いでいたお客様方には、別の車両の席へ移動していただきましたので、ご安心ください」
「ああ、ありがとう。助かったよ」
「いえ、当然の務めでございます。……奥様にはお怪我などございませんでしたか?」
車掌は一瞬エルマに視線を合わせたが、すぐにそれを伏せた。どこか異様なほどの緊張を孕んでいるようにセイジには見えた。だが、エルマが静かに視線で制すると、車掌はプロの鉄面皮を崩さずに深く頭を下げた。
「主人が守ってくれましたので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
エルマは車掌に向けて、完璧な微笑みを向けた。
「さようにございますか。セイジ様、サジュ様、それでは快適な旅路をお楽しみください」
車掌は深く一礼し、静かに扉を閉めて去っていった。
扉が閉まると、セイジは苦笑いを浮かべた。
「車掌は完全に勘違いしてしまっているようだけれど」
「助けていただいたお礼、というには厚かましいと思いますが……私、カシムまでの旅なんです。もしよろしければ、カシムまで奥様の代理ということで、ここに居させていただいてもよろしいかしら?」
さすがはこれほどの美女だ。自分が美人であるということの価値を信じて疑わない、凛とした強さがある。そしてその申し出は、セイジにとっても決して悪い気がしないものだった。
ここ数日の異常な疲労感は、間違いなくサジュという存在を思い出せないストレスにある。このまま一人旅が続けば、その暗い霧に囚われ続け、気分の悪い旅になってしまうだろう。
美しい女性と食事をしながら楽しい会話でもすれば、少しくらい気は紛れるに違いない。
「では少しの間、エルマさんは私の妻ということでお願いします」
エルマはくすくすと楽しそうに微笑みながら頷いた。
その仕草さえも、計算されたかのように美しい。見ているだけで不思議と心が癒されるようだった。
「ではカシムまでの間、セイジさんの妻となります。よろしくお願いしますね、あなた」
こうして、二人の間に奇妙な夫婦関係が成立した。
列車がルードを発ち、静かに加速して走り出すと、二人のテーブルには驚くほど豪華な昼食が運ばれてきた。
思えばセイジはこの数日、ロクに食事も喉を通っていなかったのだ。いや、食べていたかもしれないが、やはり記憶があやふやなだけかもしれない。
「何やら豪華すぎやしないだろうか……?」
セイジは少し首を傾げた。何度か出張でこの一等列車には乗っているが、こんな最高級の食事が出てきたことは一度もなかったのだ。
「きっと、さっきの騒動のお詫びですね。遠慮なくいただいちゃいましょう」
そう言うと、エルマは優雅にフォークを動かし始めた。
「私、エビ大好きなんです」
「なら、私の分も食べるかい? 最近どうにも食欲がなくて、この量は食べきれそうにないんだ」
「なら、私のホタテを差し上げます」
エルマは器用にホタテを一口大に切り分けると、フォークに刺してこちらに差し出してきた。
「はい、あなた。あーんして」
セイジは流石に気恥ずかしかったが、ここで無粋に引き下がるわけにもいかず、促されるまま口を開けた。そこへ、ぷりっとしたホタテが滑り込んでくる。
それを見て、嬉しそうに悪戯っぽく微笑むエルマは、息を呑むほど美しかった。
「セイジさんは、帝都へ向かわれるんですか?」
「ええ、本社のほうに転勤になりましてね。長年辺境にいたから、本社の忙しさに耐えられるかどうか心配で。エルマさんはカシムで何かあるんですか?」
「私は中央第一学院に通う学生で、卒業論文のために鉱山を取材しにハイロンまで行く途中なんです」
「女性お一人では、少し危険ではないですか?」
「ちゃんとカシムに研究室のみんなが待っててくれるんです。ルードには、家族の古い友人がいたのでちょっと顔を出していただけで」
「そうですか。私の現役時代は、大陸に興味を持つと変わり者と言われたものですが……かなり風土が変わったんですね、うちの母校は」
エルマはフォークとナイフを止め、しばらく驚いたようにセイジを見つめていた。
「あら、セイジさんも中央第一学院だったんですか?」
エルマは嬉しそうに目を輝かせ、少し身を乗り出した。
「ええ、もう三十年以上も前のことです。すっかり変わってしまっているでしょうけれど」
「学院を卒業されて大陸で就職されるだなんて、確かに当時なら変わり者と呼ばれても仕方ありませんわね」
中央第一学院と言えば、国内最高峰の偏差値を誇るエリート校であり、卒業生の多くは国の中枢で官僚や財界の重鎮になっている。
「ええ、もう。同窓会の案内も届かないくらいには、完全に無視された存在ですよ」
セイジとエルマの会話は途切れることがなかった。エルマの会話のテンポは小気味よく、その見た目の圧倒的な美しさに負けないほど、知的な女性であることを窺わせた。彼女と話していると、頭のモヤモヤが不思議とすっきりと晴れていくような感覚さえある。
列車が目的地である東部の大都市『カシム』へと近づいた頃、扉がノックされ、先ほどの車掌が静かに入ってきた。
「セイジ様、ならびに奥様。カシムへのご到着を前に、一点、大切なお知らせがございます」
「何かあったのかな?」
「はい。現在、カシムから帝都側へ向かう区域におきまして、突然の大規模な軍事紛争が勃発いたしました。安全確保のプロトコルに基づき、当列車は次のカシム駅にて運行を一時打ち切り、全乗客の皆様には降車していただくこととなります」
セイジは眉をひそめ、窓の外へ視線を向けた。
「カシムの先が封鎖されたということか」
「左様でございます。ですがご安心ください。駅に到着いたしましたら、当直が皆様を安全な場所へご案内いたします。慌てずにご移動ください。皆様の安全と宿泊先は完全に保証されております」
「まあ、私のほうは急ぐ旅でもないしね。わかった、手配に感謝するよ」
「もったいないお言葉です。それでは、到着まで今しばらくお待ちください」
車掌は完璧な一礼を残し、静かに部屋を退出していった。
「どうします?」
エルマは窓の外を見つめながら、小さく、どこか色っぽく呟いた。
「カシム到着までのはずの仮初の妻役、延長します?」
セイジは思わず息をのんだ。そして、彼女の赤い瞳に吸い込まれるように、小さく頷いた。
「ああ。カシム滞在中、どうせ移動もできないし……お願いしてもいいかな」
いい歳をしたおじさんが、年端もいかない娘に夢中になっているようでひどく気恥ずかしくはある。しかし、エルマと会話している時間は、あの脳を蝕むような倦怠感を忘れられる唯一の救いでもあった。
「延長、ありがとうございます。誠心誠意、努めさせていただきますね。——あなた、そして先輩」
赤い瞳に見つめられるたびに、胸の奥のドキドキが止まらない。
セイジはもう、エルマの虜になってしまっていた。




