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【短編】代わりと言っては何ですが

作者: 楽歩
掲載日:2026/02/01

 


 王宮大舞踏会の夜は、いつだって残酷だ。


 それは恋を祝うための場ではない。想いを囁くためでも、未来を夢見るためでもない。ここは、序列があり、価値が測られ、選別される場所だ。誰が中央に立ち、誰が壁際に下がるのか。



 そのすべてが、音楽と笑顔の裏で、冷静に決められていく。



 そう。王宮の光は平等ではない。光は正しい位置に立つ者だけを照らし、そうでない者は影の中で囁かれる。


 そして今夜、その影はひとりの令嬢を縁取っていた。


 セラフィーナ・アルノー公爵令嬢。


 彼女は、微かに息を吸い、胸の内で静かに言葉を置く。




(――ここは、愛を試す場所ではないわ)


 視線は上げない。だが、逃げもしない。


(在るべき者が、在るべき位置に立てるかどうか。それを、ただ確かめる夜)




 ほんの数か月前まで、彼女はこの国の王太子の正式な婚約者だった。王太子妃教育を受け、外交儀礼を叩き込まれ、この国の未来を共に背負う存在として育てられてきた令嬢。



 その肩書きを失った今、彼女はもう主役ではない。


 代わりに主役の一人として王太子の隣に立つのは別の令嬢。淡い色のドレスに身を包み、勝者の微笑みを浮かべている。


 そんなセラフィーナの周囲には、奇妙な“余白”があった。以前なら、彼女が立つ場所には自然と人が集まっていた。挨拶、近況報告、探るような世間話。


 しかし、今夜は、数歩離れた場所で、視線が交錯する。声が届くような届かないような微妙な距離で、囁きだけが漂っていた。




「……本当に、婚約者から外されたのね」

「ええ。でも、あんなに長く婚約していて……」

「王太子殿下の隣に居る方、アルノー公爵令嬢の代わり、ですって。いいのかしら側妃様の子である王太子殿下の後ろ盾として選ばれたのに」

「ええ。もう決まったことらしいわ」


 ホールの囁きに、セラフィーナは振り向かない。



(この程度、慣れていますわ)


 王太子妃教育の中で、彼女は学んできた。人は立場に集まり、立場が消えれば、静かに離れていく。そこに悪意があるとは限らない。


 彼女は、杯を手に取る。



(殿下は、今日、王家の者として振る舞えるかしら?)


 個人の感情で動いてよい瞬間と、王家の者として踏みとどまるべき瞬間。それが分からなければ、王太子は正しい位置を失うのだ。



 だから彼女は、影の中で静かに待つ。





 王太子は、今夜ひどく機嫌がよさそうだった。


 肩の力を抜き、いつもより砕けた笑みを浮かべ、周囲の貴族たちに軽く手を振る。その姿は、親しみやすいと言えば聞こえはいい。だが、王宮の大広間においては、どこか軽すぎた。



「ねえ、殿下。ここ、すごく広いのね。天井も高くて、まるで夢みたい」


 隣に立つリュシエンヌ・ベルノワ男爵令嬢は、無邪気な笑顔でそう言った。その声はよく通り、近くの者たちの耳にも届いてしまう。



「はは、そうだろう? だが、そのうちなれる。君は未来の王太子妃だからね」


 王太子は気にも留めず、楽しげに応じる。だがその会話に、国の話はない。今夜の来賓についても、隣国との関係についても、一切触れられなかった。



「さっきの音楽、とても素敵でしたわ。踊るのが楽しみで……」


「私もさ。細かいことは後にして、先に踊ろうか?」



 ――細かいこと。


 その一言に、何人かの貴族が、ほんのわずかに眉を動かした。


 来賓への挨拶も何もかも。この場で本来最優先されるべきすべてが、王太子にとっては「後回し」にできる些事だと、そう受け取られた。




「ええ、そうですわね。では、そういたしましょう」


 リュシエンヌは悪くない。ただ、この場が何を意味するのかを、誰からも教えられていないだけだ。


 本来なら、隣に立つ王太子こそが、その役目を果たすべきだった。

 だが彼は、教えなかったのではない。最初から、その必要性を理解していなかった。




(……ああ)


 遠くからその様子を見ていた者たちは、同じ予感を抱いていた。


 これは、近いうちにやらかす。しかも、取り返しのつかない形で。歯車はすでに、微かに噛み合っていなかった。


 やがて、歓迎のために奏でられていた楽団の音が、完全に止んだ。



 最後の余韻が天井の高い大広間に溶け、静寂が降りてくる。それは単なる無音ではない。次の一手を待つため、意図的に張りつめられた沈黙だった。



 ――ファーストダンスの時間。


 本来であれば、王太子が一歩前に進み、王族席へ深く礼を捧げる。それを受けて国王が立ち上がり、王妃が扇を閉じる。


 その一連の動きが揃った瞬間、楽団長は指揮棒を振り下ろし、最初の一音を響かせる。


 それが、この国で何百年も繰り返されてきた“正解”だった。


 

 だが。


 楽団長は、指揮棒を構えたまま、動けずにいた。背筋を伸ばし、呼吸を整え、指先に力を込めたまま、ただ待つ。


 正しい合図がなければ、音を出してはならない。それを、彼は何十年も守ってきた。



 王の御前で、誤った一音を鳴らすことが何を意味するか、それを知らぬ楽団員など、一人もいない。


 それでも。


 ――合図が、来ない。




(……遅い)


 額に、じわりと汗が滲む。心臓が、今はやけに自己主張をしていた。


 ほんの数秒。だが、その沈黙は、異様なほど長く感じられた。



 重鎮たちは、すでに気づいていた。


 互いに視線を交わし、言葉を用いずに違和感を共有する。だが、誰ひとりとして口を開かない。ここで声を出すことは、この沈黙を“異変”として確定させる行為にほかならなかった。


 外交使節の一人は、表情を崩さぬまま場を観察している。


 本来ならば明確であるはずの“中心”。


 ファーストダンスのために用意されたその場所が、今夜に限って、ひどく曖昧だった。


 王太子は、視線を彷徨わせる。


 赤絨毯の上には立っている。――まさか、位置が違うのか? ああ、そうだった。合図、ええと、確か……。彼は、掴めていなかった。ここに立つ理由も、意味も、その礼儀を誰から与えられていたのかを、もう思い出せない。


 隣のリュシエンヌ・ベルノワは、それに気づいていない。


 少し緊張した、けれど浮き立った笑顔のまま、音楽が始まるのを待っている。この場が「試される場所」であることすら、知らされていない顔だった。


 ――セラフィーナだけは、理解していた。



(……やはりね)


 静かな確信が広がる。驚きも、焦りもない。ただ、予想が裏切られなかったという、それだけの感覚。



 “正しい位置”を知る者が、あの中央にはいない。それだけのことだった。





 不意に、思い出す者がいた。


 セラフィーナが婚約者だった頃。ファーストダンスで楽団が迷ったことなど、一度もなかった。


 合図は常に揃い、視線は交わされ、儀礼は滞りなく進んでいた。セラフィーナ・アルノー。彼女が、すべてを指示していたのではないか。


 表に立つことなく。王太子の面目を潰さぬよう、影の位置から。そうでなければ、説明がつかない。


 王太子が何を考え、何をすべきかを迷う前に、すでに“整って”いたのだ。


 王太子が成長したからだと、誰もが思っていた。だが今夜、それが錯覚だったことが、はっきりと浮かび上がる。


 彼は、何も知らない。


 合図も、順序も、視線の意味も。この場で求められている役割そのものを、理解していない。


 ――では、あれほど完璧だった理由は。


 答えは、もう目の前にあった。




 セラフィーナは、一歩も動かなかった。

 

 誰かの視線が、そっと彼女に向いた。続いて、また一つ。やがてそれは、意識されぬまま広がっていく。


 彼女ならできる。

 彼女が出れば、すべては整う。

 ――セラフィーナなら、どうする?



 その期待を、彼女は痛いほど理解していた。だからこそ動かない。沈黙が、さらに引き伸ばされる。


 

 楽団長の腕が、わずかに震える。重鎮の一人が、扇の陰で小さく息を吐いた。


 だが、誰も動けない。


 王太子は、意を決したように新しい相手の手を取り、さらに前へ進み出た。



 礼はない。王族席への視線もない。


 合図という概念そのものが、彼の中には存在しなかった。




「……っ!」


 まるで、何かが遅れているのは周囲の方だと言わんばかりに、王太子は苛立つ。


 隣のリュシエンヌは、笑顔のまま凍りついた。音楽が始まらない理由がわからない。それでも、この場で笑顔を崩してはいけないことだけは、本能的に理解していた。




「ねえ、殿下。どうすればいいの?」

 声は小さいが、場に不釣り合いなほど無邪気だ。


「今は、進むの? それとも、止まるの?」


「ち、ちょっと待ってくれ……」


 王太子は答えられない。音楽が鳴らない理由も、進めない理由も、説明できなかった。




「……始めないのか?」

「まさか、合図を知らないとか」

「そんなことはあるまい。晴れの舞台だぞ。 教わっているに決まっている」




 抑えた声が、静かに刺さる。


 王太子は、小さく咳払いをした。それで時間を稼いだつもりだった。だが、視線は泳ぎ、どこにも落ち着く場所を見つけられない。



 自分が“見られている”理由を、 最後まで理解できないまま。





 その時、鈴の音のように澄んだ声が響く。


「ふふ、王太子殿下は、伝統の儀礼をご存じないようですね」


 ざわめきの中心で、セラフィーナが、一歩、前へ出た。




「王太子殿下の代わりと言っては何ですが――合図を出せる別の方を、私、存じておりますの」


「は? 何を言っている!! 王太子である私の代わりに合図など。いいから早く音楽を奏でろ!」


 それでもなお楽団長は、杖を下ろせずにいる。かわいそうなくらい腕が震えている。




「しょうがありませんわね」


 彼女は完璧な角度で一礼し、視線は王太子を越え、玉座の近くへと向けられる。その人物へと、迷いなく差し出された手。


 それを、最初から待っていたかのように受け止めたのが、王弟アルベリクだった。


 彼は、ゆっくりとした仕草でホールへ降り立ち、セラフィーナの隣に立つ。その距離は、他の誰にも踏み込めぬほど自然だった。



     ◇




 ――それは、まだ恋という言葉を知らなかった頃の記憶。


 王宮の庭園で、セラフィーナはよく転んだ。裾を踏み、靴を引っかけ、泣くほどではないが、立ち上がるには少しだけ勇気が要る年頃だった。


 いつも、先に気づくのはアルベリクだった。


 王太子の婚約者である彼女に駆け寄ってくるわけでも、手を伸ばすわけでもない。少し離れた場所から、こちらを見る。


『大丈夫か』


 それだけ。


 泣いていないか。立てるか。助けが必要か。心配そうな顔をして。


 問いは短く、答えを急がせなかった。



『平気よ』


 そう返すと、アルベリクは小さく頷き、何も言わずに背を向ける。そっと近くの侍女に何かを告げて。ただ、それだけ。




 王太子妃教育が始まり、彼女が「完璧な令嬢」と呼ばれるようになる前から。いつも彼は、少し後ろにいた。距離を詰めるでもなく、親しげに話しかけるでもなく。だが今になって、わかる。あれは、幼い彼なりの、最も誠実な寄り添い方だったのだと。


 そして今。


 差し出した手を、彼は同じ距離で取った。


 近すぎず、遠すぎず。昔と、まったく変わらない距離で。ただ、彼女に触れているということ以外は。彼女をエスコートしながら前へ進み、王族席へ深く礼を捧げる。


 息を呑む音が、聞こえるほど静まりかえった。


 アルベリクは前に出る。

 国王が頷き、立ち上がる。

 王妃が静かに扇を閉じ、微笑む。


 合図は、すでに揃った。


 アルベリクは、かかとを一つ、床に鳴らす。その乾いた音を受け、楽団長の杖が振り下ろされる。


 今度こそ、音楽が流れ出した。


 セラフィーナは、誇らしげな表情を見せない。それは勝者の顔ではなく、役目を果たす者の顔だった。


 ただ淡々と、アルベリクとともに舞踏会の中心へ進む。その歩幅は、言葉を交わさずとも、完全に揃っている。


 長年、“王太子妃となる者”として叩き込まれた所作。――そして、それを誰よりも理解している男の隣。


 背後で、王太子は完全に取り残されていた。


 隣のリュシエンヌは笑顔を保とうとするが、周囲の失笑に気づき、視線の置き場を失う。ようやく、自分がこの場で「選ばれていない」ことを悟る。


 この場に必要なのは、見せつける恋ではない。役目だ。



 音楽が終わる。拍手は、自然とセラフィーナとアルベリクへ集まった。それを受けて、国王が立ち上がる。



 この舞踏会は、華やかな社交の場ではない。

 王太子の新しい相手を披露するための場でもない。


 ここは、選別の場。そして裁きの場でもある。




「王太子よ」


 国王の声は、怒気を孕んではいなかった。それがかえって、場の空気を凍りつかせる。



「そなたの体たらくには、心底がっかりしている」


 低く、重い声が、大広間の床を這うように広がった。


 王太子は、びくりと肩を震わせる。弁明の言葉を探すが、喉はひきつったまま動かない。




「セラフィーナ・アルノーを軽んじ、己の判断で“代わり”を選んだあの日」


 国王は、ゆっくりと言葉を区切った。



「その時点で、もはや猶予は終わっていたのだ」


 それは叱責ではない。宣告だった。




「彼女の支えを失って、ここまで無様になるとはな。いや今宵の儀礼一つの話ではない」


 ざわめきが、はっきりと広がる。


 王の視線が、容赦なく王太子を射抜く。




「王位継承者としての務めを忘れ、王家の名を用いた不正、公金の横領、特定貴族との癒着、そして虚偽の報告」


 一つずつ、逃げ道を塞ぐように言葉が落ちる。




「もはや、見過ごせぬ」


 会場が、完全に凍りついた。誰一人として、驚きの声を上げない。それが、この裁きが“突発ではない”証だった。




「よってここに――王太子の位を、剥奪する」


 息を呑む音が、遅れて走った。だがその響きは、嘆きではない。終わったのだ、と。そう理解した者たちの、静かな合図だった。



「次代の王位継承者は、王弟アルベリクと定める。そして、その婚約者をセラフィーナ・アルノーとする」


 その言葉が落ちた瞬間、王太子の顔から血の気が引いた。理解が追いつくより早く、足元から何かが崩れていく。


 腕に縋っていたリュシエンヌ・ベルノワは、ようやく事態を悟ったのか、声を失ったまま膝を折る。誰も、手を伸ばさなかった。



 セラフィーナは、ただ一度だけ王太子を見た。そこにあったのは、憐れみでも怒りでもない。完全な無関心。


 過去は、もう彼女の背後にすらなかった。


 そして、彼女は静かに振り返る。


 王弟、次代の王アルベリクへ。


 深く、一礼。


 その所作は、彼女自身が、長い年月をかけて身につけた「王太子妃の礼」だった。


 アルベリクは、その一礼を真正面から受ける。そして、一瞬だけ――誰にも気づかれぬほど僅かに、目を細めた。





「セラフィーナ。やはり、あなたも王のご意向をご存じだったのですね」


「ええ。存じておりました」


 声は、あくまで柔らかく。だが、その響きには、揺らぎがなかった。





「知っていたことを黙っていた代わりと言っては何ですが……」


 セラフィーナは、ほんの一拍だけ間を置く。


「王妃の務めは、きちんと果たしますわ」


 アルベリクは、迷わず応えた。




「私は、あなたが王妃である未来以外を、考えたことがありません」


 低く、確かな声。



「私にとっても、あなたの代わりなど、最初からいない」


 その言葉に、セラフィーナの睫毛が、わずかに揺れた。


 アルベリクの指先が、そっと、彼女の手に触れる。握らない。引き寄せない。だが、離れもしない。


 それだけで、十分だった。


 光は、正しい位置に戻った。


 ――最初から、次代の王妃の“代わり”など、必要なかったのだから。


 舞踏会は、何事もなかったかのように、再び動き出す。




END

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