第8話 : 祈の洞窟 (いのりのどうくつ)
雪がすべての音を奪い、人々の言葉さえ凍る。
夜明け前、ロスヴァルの灯が背中でほどけていく。
雪は細く、風は針のように頬を刺す冷たさだ。
私とアオは、言葉を多く語らない歩幅で、
北の外れに続く獣道を抜け、目的の洞窟を目指して歩いた。
「――体は大丈夫? 疲れてない?」
アオが私に問いかけてくる。
「平気。手は、まだ震えていないわ」
私が冗談ぽく答えると、彼は微かに笑って言った。
「震えたら言って。凍傷は、“強さ”では治らない」
アオは足裏の置き方を身振りで示す。
踵を落とさず、爪先を雪に“載せる”歩き方。
ノア=アークで教わった険しい道の歩き方が、
こんな雪道でも役に立つのだと、私は少しだけ勇気づけられた。
道の途中、黒い棒のようなものが丘の上に突き刺さっていた。
アオが義手をかざし、慎重に調べている。
「監視塔か何かの残骸みたいだ」
私もよく観察すると、柱の根に焼け跡が残っている。
つい最近まで“監視塔”があったのだ。
なぜそれが燃え落ちているのかは分からない。
アオの見立てでは、二、三日は経っているという。
「……ここをすぐ離れよう」
アオの言葉にうなずき、フードを深く被った。
やがて谷を横切る冷たい風が止み、空気が巻き返す。
そこに、雪庇が張り出した洞窟の口が現れた。
入口は半分ほど氷で塞がれ、まるで息をしていない獣の口のよう。
「ここね」
「うん。……入ろう」
身を屈め、氷の縁を壊さないように内部へ滑り込む。
外より暖かく、音がすぐに吸い込まれる。
自分の呼吸が、思った以上に大きく聞こえた。
奥へ進むと、壁の石が黒く締まり、
やがて――岩ではない、冷たい金属に指が触れた。
「……金属?」
指先の感触に、古い夢の欠片が疼く。
王城の地下――封印庫の床と、どこか似ている。
苔に覆われた灰青の板。
薄く擦れた文様。王家の紋章に似ている……気がした。
触れた瞬間、ほんの一呼吸だけ、紋が青く灯る。
すぐに消えた。
幻だったのではないかと思うほど、短い光だった。
「今の、見た?」
「……見た。」
アオは義手を壁に近づけ、音もなく指先を滑らせる。
光った場所を重点的に義手をかざして調べたが、得るものはなかった。
私たちはさらに奥へ進むことにした。
足音の響きが変わる。
乾いた反響から、鈍くこもった音へ。
「音が違う」
「うん。洞窟の形が“設計”されてる。自然の洞窟じゃない」
金属の床にうっすらと継ぎ目が現れはじめた。
苔と霜に隠れていた“扉”の輪郭――けれど、押しても開かない。
私は手を当てた。
祈るためではない。
呼吸を整え、魔力の流れを手の“縁”に薄く乗せる。
「鍵穴ではない……。」
鍵穴に見える場所に、鍵穴らしき形跡だけが壁に残っている。
手を離すと、冷たい鳥肌が腕を走った。
「あとで、詳しく調べてみよう」
アオが囁く。
うなずこうとしたその時――。
「動くな」
洞窟の暗がりから、低い声。
反射的に私は一歩下がり、アオは肩を私の前に出す。
暗闇から現れたのは、粗末な毛皮と革鎧の男たち。
額に古い傷、手には弓。三人……いや、四人目の足音。
「何者だ」
低く押し殺した声。
この山の空気に馴染んだ足運び。訓練された気配。
私はフードを浅くずらし、声の質を少しだけ変えた。
「旅の治癒師と護衛です。峠を越え、戻る途中。
……ここは祈りの洞だと聞きました」
一瞬の沈黙。
二人目が弓矢を、わずかに構えた。
最初の男が近づこうとした時、アオがさりげなく一歩出る。
義手の内側で極薄の金属が擦れる音。
私は肩を触れ、制した。
「治癒師なら――仮面を外して治癒光を見せろ」
「事情があって、仮面は外せない。」
アオが、間断なく返答する。
私は短く息を吸い、手の平にほんの少しだけ魔力を乗せた。
手の平の皮膚と空気の境が、薄く青く揺らぐ。
洞窟の壁に、花びらの縁だけを描くような淡い光が走った。
「……その治癒光を、知っている」
弓矢を持つ男の手が下り、男の声音が崩れた。
背後で息を呑む音。
三人は目配せを交わし、先頭の男が膝をついた。
「レグノルの――」
私は首を横に振った。
「……リナ。旅の治癒師よ」
男はなにかを察したように表情を和らげる。
「俺はバルド。……ここで死んだ者たちを見張っていた。
神への祈りは届かないが、死体は狼に食わせたくない」
“祈りは届かない”。
あまりにも静かな言い回しに、胸が締めつけられた。
「手当の要る者は?」
「いる。……来い」
細い通路を抜け、灯りの少ない広間に出た。
苔と乾いた薪、簡素な寝台。
血色の悪い少年が横たわっている。
肩口の噛み跡。凍傷による壊疽が始まりかけていた。
私は背負袋を下ろし、息を整える。
アオは壁を見回し、何かを探している。
「治癒を始めるわ。――動かさないで」
手をかざし、“治癒の光”を少年の上に落とす。
壊死しかけた組織の境界を、指でなぞるように薄く温めた。
少年の呼吸が、ゆっくり安定していく。
「すぐには歩けない。……朝まで休ませて」
「助かる」
バルドの声が震える。
私は少年の額の汗を拭い、立ち上がる。
その時、アオの肩がゆっくりこちらへ傾いた。
「……聞こえる」
「何が?」
「息。壁の向こうから。機械の、“寝息”。」
私は耳を澄ます。聞こえない。
けれど、彼は“それ”を知っていて私にわかるように教えてくれた。
指が壁の一点を示した。かすかな擦れ跡。
剣の鞘か槍の柄か――人が何度も触れた跡。
扉らしきものが、その先にあった。
「開けるな」
バルドの声が低く響いた。
その声音には恐れとも怒りともつかない色が混じる。
「昔、ここは祈りの洞じゃなかった。
もっと昔――街の爺さんが言ってた。
“邪神”が地の底で眠ってる、と。
開いたら、村がひとつ消える。だから祈り場にしたんだ」
アオがうなずいた。
「今は、開けないほうがいい」
義手の端末を壁から数センチだけ離し、空気を撫でる。
微かな、機械のため息。
『……――……セ……パ……レ……』
聴き取れないほどの声。
風の鳴き声にも似た、断片の囁き。
「いまのは?」
「……“分離”。言葉の欠片。
マザーブレインのノードか、似たもの……“分けた”痕跡」
私は壁に手を当てた。
冷たい。
けれど、寒さだけではない何かがあった。
「いまは、開けない。」
「うん。……開けるときは、準備がいる」
アオは壁から手を離した。
私はバルドに向き直る。
「ここを離れる準備をして。朝になれば巡察が来るかもしれない。
“見られる”前に、姿を消すべきだわ」
「巡察……来るのか」
「ロスヴァルの街で聞いた」
短い沈黙のあと、バルドはうなずいた。
「分かった。……恩に着る」
そのとき、洞窟の天井に細い筋。
光でも影でもない、ひびのような線が走った。
「……アオ」
「見えてる」
線は音もなく裂け、黒が薄い膜のようにめくれた。
温度が一瞬だけ下がる。私は息を呑む。
『観測を開始――』
声。どこにもいないのに、ここにだけ落ちる声。
冷たく、けれど感情のない冷たさではない。
記録の声。世界が“覚える”時の音。
『記録の外にある二人へ。……祝福を』
弓を構えた兵たちが震える。
祈りの言葉を口にしようとして、声にならない。
「ノクス……?」
アオの呟きが、白く溶けた。
『選ばれなかった過去が、選ばれようとしている。
選ぶのは、君たちだ。……観測は干渉。干渉は、責任。』
影の裂け目は、音もなく閉じた。
たった数呼吸。
それなのに、膝の裏が汗ばむほど長く感じられた。
「今のは……」
バルドが言いかけ、言葉を失う。
「“影法師”の幻ではない。もっと――遠い」
アオは静かに言った。
治療を終えた私は、アオに向かい短く告げた。
「出ましょう。夜が明ける」
バルドたちは荷を背負い、少年を担架に移した。
洞窟の外へ向かう足跡を、舞い込む雪が静かに飲み込んでいく。
外に出ると、薄い群青が山肌を撫でた。
遠く、ロスヴァルの尖塔が白く曇る。
冷たい風が、頬の熱をさらっていく。
「アオ」
「うん」
「私は、さっき聞いた声を“神”だとは呼ばない。
でも――“見ている目”があるのなら、私も目を逸らさない」
私たちは山道を下りながら、背後の洞窟を一度だけ振り返った。
金属の壁の向こうに、眠る誰かの気配。
私は、いまは深く考えないことにした。
途中、バルドたちと別れる時、バルドから
廃都にレグノル王国の残党が集結しつつあると聞いた。
ロスヴァルに戻るまで、私たちはほとんど話さなかった。
町の外れに差しかかるころ、アオがぽつりと言う。
「記録は、いつか開く。
その時は、“全部を救う”と言わない。
でも――“誰を先に守るか”は、ここで決めておこう」
「……最初に守るのは、私自身。次に、隣を歩くあなた」
「それでいい」
雪は細く、街路の影を薄く縁取っていた。
灯がひとつ、またひとつ。
人の営みは、寒さの中でなお、絶えることを知らない。
私はフードを外し、目を閉じて、短く息を吐いた。




