第7話 : ロスヴァルの酒場にて
私たちは、ハルピュイアを雪で隠す。
それから、谷あいの町まで仮面を付けて向かった。
谷あいの宿場町は、雪を抱えた風そのものが生き物みたいに唸っていた。
煤けた尖塔、氷に縁取られた窓。
荷馬車の軋む音、干し肉の匂い、遠くで打つ鍛冶の槌。
人の営みは、寒さの中でなお、絶えることを知らない。
私はフードの端を握りしめる。
胸の奥で、鼓動が少し速くなるのが分かった。
「……ここが、ギルド」
扉には大きく、擦れた金文字で刻まれている――“冒険者ギルド 兼 旅人酒場《鷲の爪》”。
隣を歩くアオに、私は声をかける。
「入りましょう。長居はしないわ」
「うん。まずは、掲示板と受付。それから、噂について探らないとね」
アオは短く答える。
いつもの、落ち着いた声。
私は深呼吸して、扉を押した。
途端に、熱が押し寄せた。
樽から注ぐ酒の匂い、油煙、焼いた肉。
笑い声と怒鳴り声。
それから、掲示板を覆う紙片の群れ――依頼札。
私はひとつひとつに目を走らせる。
護衛、討伐、運搬、行方不明者捜索。
紙切れの一枚ごとに、人の生と死と、ささやかな希望が貼り付けられていた。
「新顔さん?」
カウンターの奥から、栗色の髪を後ろで結い上げた女性が声をかけてきた。
氷砂糖みたいに澄んだ声。
だけど、その瞳は測るように細められている。
「ええ。旅の治癒師と護衛よ。この町で、情報や依頼などを探しているの」
「助かるわ。」
「私は、この冒険者ギルド《鷲の爪》の受付のカレンよ。」
「街道沿いで“霜喰い狼”の群れが出てるの。」
「レグノル戦争の件で、いまは冒険者が足りなくて。」
「討伐の報酬は軽いけど、緊急な依頼があって……薬師の荷馬車護衛。」
「峠道を越えて《ズィーヴ》村まで」
私は、横目でアオを見る。
彼は小さく頷いた。
「護衛なら問題ない。……道中で狼に遭遇すれば、対処する」
私も頷く。
「了解したわ。――ギルド登録も、ここで必要よね」
受付嬢は、声を少し落とす。
「依頼を受けたら、依頼主は秘匿。……それと、レグノルの関係者でないこと」
胸の奥が冷たくなる。私は喉を詰まらせた。
背後で、冒険者風の男たちがこちらを見ている。
笑い声が弾けた。
「お、ひよっこが来たぞ」
「嬢ちゃん、その細腕で霜喰いを刻むのか?」
「火球ひとつ飛ばせりゃ上等だ。なぁ?」
「……うるさい」
思わず睨み返しそうになり、私は視線を落とした。
挑発に乗ってはいけない。
ここは、私の“国”ではない。
受付嬢が、彼らを軽く一瞥する。
「やれやれ。場末の合唱は無視して。――札、剥がしていいわよ。」
「出立は明朝。薬師のウェル婆さん、《ズィーヴ》村まで。」
「途中、峠道で狼がよく出ると情報があるから注意してね。」
私は、カレンさんにお礼を述べる。
「ありがとう。……それと」
「なに?」
「あの掲示板、見て」
私は別の木板を指差した。普通の依頼札じゃない。黒枠で囲まれ、領主からの告知が並ぶ。
《布告:レグノル王国戦争 難民調査のため拘束する》
《関係者と把握した上で秘匿の疑い》
《レグノル王国残党と思われる者の情報》
《上記に関連する情報には金貨を》
《なお、違反者は拘束の上、審問ののち火刑とする》
呼吸が浅くなるのを感じる。
仮面越しでも、アオは私の動揺を察したらしい。
受付嬢はほんの少し、顔をしかめた。
「見てのとおり。
あたしには戦争の経緯はわからないけど、領主も王族関係者を探しているみたいよ。」
アオが、低く囁いた。
「行こう、リナ。今は、情報を収集する時だ」
私は頷いた。
夕刻。
酒場の喧噪は、陽が落ちるほどに深くなる。
噂は、熱と一緒に巡るものだ。
「黒魔女の影法師が、また誰かを連れて行ったらしい」
「“青い星”が空へ昇った夜から、狼の動きが変だ。目が赤い」
「領主のあの布告は、噂だが七聖が絡んでいるらしい」
私は耳を澄ます。
アオは黙って、湯気の立つスープを口に運ぶ。
彼の横顔を、私は見た。
落ち着いている。
けれど、瞳の奥で、なにかが研がれている気配。
カウンターでは、受付嬢が私たちの札を綴じ、出立帳をまとめている。
その手つきは迷いがない。
ここで何人も送り出しては、何人も受け入れてきたのだろう。
「ねぇ」
私は、思い切って声をかけた。
受付嬢は「なに?」と目だけをこちらに向ける。
「七聖って、本当に、英雄?」
「……それを、ここで言うのは賢くない質問だよ」
彼女は小さく笑って、囁く。
「でもね、あたしの帳面には真実が書かれてる。英雄が来た日は、宴の札が増える」
胸が、じわりと痛んだ。
国の真実とは、たぶんそういうもの。
アオが、空の盃をカウンターに置く。
「目的地の峠、地図はある?」
「壁の地図が最新。雪が溶けたら、また描き直す。……地図を覚えてる冒険者は、長生きする」
「覚えるさ」
アオは、いつもの調子で言った。私は唇を結ぶ。
(覚えるだけじゃ、足りない。――アオトを守らなければ)
翌朝。
空は白い紙を張ったみたいに曇って、吐く息は細い煙になった。
薬師のウェル婆さんは、小柄で背中が曲がっているのに、瞳がやたらと強い。
「おや、あんたたちが護衛かい。細いのに、芯がありそうだ」
「任せて。峠まで、お連れするわ」
「狼は燃やせば逃げる。火が弱けりゃ匂いで逃げる。あたしの荷は貴重さ、よろしくね」
荷馬車は一台。
樽には乾燥薬草、箱には粉薬。
道は街道筋ではあるけれど、雪が敷き詰めて、轍は浅い。
私とアオは両脇を歩き、時々後ろを振り返る。
「……風が変」
森から、冷たい匂いが流れてくる。
鼻の奥がじんと痛むような、鉄の匂い。血、なのかもしれない。
「来るよ」
アオが低く言う。
次の瞬間、雪煙がぱっと上がった。灰色の狼が、三匹。瞳は赤く、唸り声は鈍い。
「ウェルさん、止まらないで。ゆっくり進んで」
「心得たよ」
私は息を整える。掌に魔力を集め、短い詠唱で風を刃に変える。
ひと振りで、一匹の前脚を断った。動きが鈍る。二匹目が跳躍――。
「下がって」
アオが一歩出る。
義手の甲が淡く光った。次いで、空気が――震えた。
音はない。けれど、鼓膜の内側を指で撫でられたみたいに、世界が一瞬たわむ。
狼が、跳躍を崩した。雪に胸から突っ込み、四肢が痙攣する。
狼が倒れ、雪に沈む。
私は荒い息を吐いた。
「……なに、いまの?」
「……超音波。鼓膜と三半規管を揺らした」
彼は義手を隠すように袖を直す。
その仕草に、私はかすかに安堵した。
次に彼が指で弾いた小さな球が、白い霧を散らす。
狼の嗅覚が鈍り、動きが止まる。
「嗅覚飽和。三十秒……ただの即興だ。次に通じる保証はない」
簡潔な説明。
私はうなずき、残った行動不能の狼を切り伏せた。
ふと、気づく。――森が、静かすぎる。
「終わりじゃない」
アオが、空を見上げた。
どこか、遠くを見る目。私はその視線を追う。
「……山側」
刹那、雪庇が崩れた。
斜面の上から、もっと大きな影。
耳の裂けた、傷だらけの狼――群れの親か。
「アオ!」
「大丈夫」
彼は義手の内側から、小さな金属球を二つ、指で弾く。
球は雪をかすめて滑り、狼の前でぱん、と割れた。白い霧。狼が鼻先を振る。足がもつれる。
「……匂い?」
「嗅覚飽和。薄い刺激物で、三十秒」
「十分」
私は足元の雪を蹴り、身を翻した。
狼の視界から一瞬消える。
腹の下。――風の刃。
斬撃は、骨を避け、筋だけを断つ。
倒れた巨体が雪を跳ね上げ、私はその影から滑り出る。
「やるじゃないか、嬢ちゃん」
ウェル婆さんが笑った。
指先がまだ震えているのに、笑う余裕のある人は強い。
私は、荒い息をひとつ吐いた。
「……行きましょう。峠はまだ先」
「はいよ。――あんたたち、たいしたもんだ」
荷馬車はまた、軋みながら進む。
雪を踏む音だけが、しばらく続いた。
◆
峠を越えるころ、空から、薄い光が一筋落ちてきた。
雲間を裂いて、白い帯。雪の粒が光を呑み、瞬く。
「……綺麗」
「太陽光が氷晶で屈折してる。――気温は下がる。足を止めずにいこう」
アオの言葉は、魔法じゃないのに、雪の歩き方を教えてくれる。
彼が言う“作法”は、身体の動かし方で、危険の避け方だ。
「魔法の所作は、気持ちを整えること。呼吸と、手の形。――そう、言われてきたわ」
「科学の所作は、測って、確かめて、仮に決めて、外れたら修正すること」
「似ているようで、違うのね」
「でも、目指すところは同じ。生き延びること」
私は、笑った。
この人と話すと、胸のどこかに、温かい灯が点る。
◆
《ズィーヴ》に着いたのは、日が暮れる少し前だった。
板塀、雪に埋もれた家。家畜小屋から漏れる湯気の匂い。
「ウェル婆ちゃん!」
「薬だ、薬が来たぞ!」
子どもたちが駆けてきて、笑い声がはじける。
ウェル婆さんは荷から布袋を下ろし、薬草を分け、粉薬を量る。
私とアオは荷馬車を見張りながら、村長らしき男に依頼の完了印をもらった。
「助かった。……峠で狼が出たろうに」
「少しだけ。倒してきたわ」
「強い嬢ちゃんだ。――そうだ、客人。酒場に戻る前に、ひとつ耳に入れておく」
村長は声を潜めた。
「今月、巡察が来る」
「あんたら、きれいな言葉を使う。気をつけな」
胸の奥が、また冷える。
私は笑って頷き、短く礼を言った。
◆
戻り道は、行きより静かだった。
狼の群れは散り、空は薄い群青。最初の星が、遠く瞬き始める。
「アオ」
「うん」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「違うの。――あなたの“所作”、私、好き」
彼は、少しだけ目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ、口元が緩む。
「じゃあ、僕も言うよ。セリナの“所作”も、好きだ。きみは、切るべきものだけを、切る」
「……覚えておく」
雪の上に、私たちの足跡が二筋、並んだ。
その向こうで、谷の町の灯りが小さく滲んでいる。
◆
ギルドに戻ると、酒場はさらに騒がしくなっていた。
喧噪の底で、噂は形を変えている。
「“青い星”は七聖の御業だ」
「いや、禁忌の遺物だ」
「黒の魔女の影法師が来るって」
噂の渦を聞きながら、アオは盃を置いた。
表情は変わらない。けれど瞳の奥が、刃のように研がれている。
受付嬢が報酬を渡し、声を落とした。
「……北の外れに洞窟。レグノル残党がいるって噂がある」
私は喉を鳴らし、アオを見る。
彼は静かに頷いた。
「恩に着る。……礼は、今は言葉だけにしておく」
「行きましょう、アオ」
「うん。洞窟へ」
裏路地を進みながら、彼が不意に口を開いた。
「セリナ」
「なに?」
「怖い?」
「……ええ。少し」
「僕も。……でも、行こう。見なければ、選べない」
「選ぶために、見る。……あなたの所作ね」
「セリナの所作でもある」
彼の声は相変わらず落ち着いている。
けれど、ほんのわずかに口元が緩んだのを、私は見逃さなかった。




