第6話 仮面の降下
淡々と執筆していたので、全話見直しました。
数回、伏線と設定の為手直しがあるかもしれません。
よろしくお願いいたします。
窓の向こうに、丸い世界があった。
濃い瑠璃色の縁が、薄い光の輪郭をまといながら、ゆっくりと弧を描いている。
雲は綿のように裂け、雪の峰は糸のように細くきらめく。
地上で見上げた空と同じはずなのに、ここから見下ろすそれは、まるで別のものだ。
空は、近づくと宇宙になる。
その境目の薄さを、僕はいま身体で思い出している。
耳の奥で、微かな律動。
ノア=アークの循環系が、息をする音。
病室で聞いた人工呼吸器の規則正しい拍動に、少し似ていた。
「……息が苦しくないのね。空の上なのに」
背後でセリナが呟いた。
ガラス越しの地平線に視線を貼りつけたまま、驚きと不安を半分ずつ混ぜた声だ。
王城の塔よりも高い場所から、王国全体を見たのは、彼女にとって初めてなのだろう。
「ここは空の“上”じゃない。宇宙だ。空気はないし、風もない。ただ光と、冷たい沈黙がある」
「……魔法の上位領域、ということかしら」
「言い方の違いだけど、たぶん近い」
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
わからないことの多さに怯えているはずなのに、どこか誇りを崩さない笑み。
王族の顔だ、と僕は思う。
義手の端末が柔らかく震え、空中に淡い文字が点る。
『軌道姿勢、安定。広域受動観測に移行』
『注意:地上高位魔力源より広帯域揺らぎを検出。解析結果、観測された干渉波と相関』
マザーブレインの声は、無機質な安堵を帯びていた。
「……見られてる、かもしれないってことだよね」
『“見ている”のは地上側も同様。双方の観測は同時に干渉である』
「観測が、干渉」
セリナが言葉を反芻する。
彼女にとっては、魔法の視に近い感覚だろう。
見れば糸が触れる。
触れれば結び目ができる。
そういう“理”の言い回し。
「だから、強く見ない。必要最小限に絞る」
『受動観測を継続。輻射低減を維持』
ノア=アークの灯が、一段暗く落ちた。
巨大な船が息を潜める。鼓動だけが続く。
◇
僕は席を離れ、簡易ブリーフィング卓に地図を呼び出した。
断崖と峡谷、焦土になった王都、その周囲に点々と灯る集落の熱源。
地表は冷たい。雪が降っている。
人の気配は細い糸のように散っている。
「――降りようと思う」
セリナの視線が、音もなくこちらに来た。
反射的に、僕は言い直す。
「僕と、君のふたりで。情報が要る。七聖がどこで何を握っているのか。法律の実際の運用も、民の空気も、現場に降りないとわからない」
「降りる……地上へ。あの“方舟”を捨てるのではなく、使いながら、ね」
「うん。ノア=アークはここに残す。マザーブレインが軌道で目を保つ。僕たちは仮面を被って、人の群れに紛れる」
セリナは少し黙って、薄く息を吐いた。
眉の形が、決意の線を取る。
「行きましょう。わたしは、逃げてはきたけれど、隠れるために生き残ったわけじゃない」
言葉は強いのに、指先が小さく震えた。
震えるのは、弱さの印じゃない。責任の重さを握り直している証拠だ。
「身分は伏せる。髪も、目も。君は“リナ”。僕は“アオ”。旅の治癒師と護衛、というところかな。冒険者ギルドの酒場から情報が集まるはずだ」
「ギルド……。冒険者の集会所のことね。依頼の張り紙と、安い酒と、やかましい口論」
「そう。それ」
セリナが、少しだけ目を丸くした。
「あなたの時代にも、あったの?」
「……別の形でね。掲示板は紙じゃなくて、発光する板だったけど。喧嘩は、たぶん同じだ」
二人で、ごく小さく笑った。
笑えるうちに、笑っておく。こういう呼吸は、あとで効いてくる。
◇
装備庫で、僕は“織機”を起動させた。
金属の臓物みたいな装置が、静かに光る。
格納されていた古い繊維配合式を引き出し、アルセリアの街で見た布の風合いに寄せる。
色は煤けた藍、継ぎ当てには灰。
上等すぎると目立つ。貧しいと、同情は集まるが信用は集まらない。その中間に落とす。
セリナの銀の髪にため息を落としつつ、色素ナノを薄く吹く。
濡れた栗の色に変わる。光の角度で灰が走る。
瞳は紫紺から、少し霞んだ緑へ。
「……鏡が違うのね」
「これは、光の板に映す鏡。割れない」
義手で板を支え、彼女に渡す。
セリナはわずかに首を傾げ、鏡に映った“見知らぬ娘”を、息を止めて眺めていた。
「わたし、こんな顔をしていたのかしら」
「君は君だよ。ただ、光の当たり方を変えただけだ」
僕の方も、髪を短く見せるトリミングをかけ、頬に傷跡の影を描く。
右腕の義手は布で巻き、真鍮の義手に見えるように外装をかぶせる。
魔導義肢のように見えるはずだ。
「似合っている」
「似合ってしまっているのが、少し怖い」
「怖いなら、それはよくできた証拠だ」
セリナは肩をすくめた。
王族の所作は、偽装に向かない。
だから、あえて“ぎこちなさ”を残しておく。完璧は目立つ。
ちょっとした粗が、人の目を素通りさせる。
『言語層の同期を提案。方言差異、俗語対応、侮蔑語回避フィルタの初期値を設定』
「ありがとう。……ねえ、侮蔑語回避ってなに」
『不用意な発話による社会的摩擦の低減。具体例は――』
「待って、それはあとで僕にだけ教えて」
セリナがくすっと笑う。
笑いの温度が、船の金属の冷たさをほんの少し和らげた。
◇
格納庫の扉が開く。
そこには、中型の降下艇が眠っていた。
流線形の胴。翼は短く、腹は厚い。目立たない形。名前は――昔のデータに残っている。
ハルピュイア。
風の魔物の名だ。善良な伝承はないが、空を裂くにはよく似合う。
チェックリストを呼び出し、ひとつずつ潰していく。
「外皮、低反射設定」
「魔力観測対策モード、位相揺らぎ発生器……起動良し」
「通信は光で。音は、出さない」
「推進は半分以下。落ちるように降りる」
『降下ベクトルは“三段跳躍”起動を推奨。高層大気で一度跳ね、痕跡を散らす』
「了解」
セリナが、座席に手を置いた。
指先に力が入っている。王族用の輿ではない。
宙に落ちる器だ。
「怖い?」
「少し。……それより、わたしは何になればいいのかを考えていたの」
「護衛でいい。治癒魔法を少し使える旅の娘。そのくらいの“噂”を作って、広げればいい」
「魔法を使えること自体は、珍しくないわ。問題は、その使い方と、見せ方」
「見せすぎない。僕の時代でも、それは同じだった」
言うほど簡単ではない。
僕の瞳の奥では、薄い文字列が流れている。
心拍、皮膚温、彼女の呼吸のリズム。昔は医療ベッドの上で、そんな表示を見た。
その数字の一つひとつが、明日へ伸びる綱だった。
「アオト」
名を呼ばれて、顔を上げる。
セリナが、まっすぐに僕だけを見る。
「あなたは、ここに残ったほうがいいのではなくて」
「僕も行く。僕の目で見て、僕の耳で聞く。記録はマザーブレインでも取れるけど、判断は人がするものだ」
「……わたしが、判断するのだと、あなたは言ったわね」
「うん。僕は手を動かす。君が選ぶ」
セリナは、長いまつ毛を一度伏せ、そして小さく頷いた。
同意の印が、ゆっくりと重く沈む。
偽物の名前に、本物の責任が宿る。
◇
『降下前ブリーフィングを開始。目的は三点。
一、転生者特権法の現場運用の把握。
二、七聖側の情報収集経路の確認。
三、王国残存勢力との接触可能性の評価。
副目標として、冒険者ギルドの依頼掲示板における噂の観測と、宿場街の物流の追跡を推奨』
「宿場の物流?」
『人が動けば物が動く。物が動けば金が動く。金が動けば言葉が動く』
「……あなた、時々とても人間くさい言い方をするのね」
『学習の結果』
僕は、少しだけ笑った。
かつて僕を眠らせた文明が、すべてを間違っていたとは思わない。
けれど彼らは、正しすぎることに失敗したのだ。
正確であることと、正しいことは、似ているようで違う。
◇
降下艇の扉が閉まる。
世界の音が、ゆっくり遠ざかる。
セリナは窓の外に視線を置き、右手の甲を左の手のひらで包んだ。
祈りではない。
これは、震えを制御する人間の所作だ。
「リナ」
偽名で呼ぶ。
セリナはわずかに瞬いて、ふっと笑った。
「……まだ慣れないわね。その名」
「僕も“アオ”に慣れるよ」
「王女の名前を捨てるのは、それなりに、胸が痛むわ」
「捨てたんじゃない。隠しただけだ。必要なときに取り出せるように」
「そうね」
短い返事に、彼女の矜持が戻る気配があった。
王族にとって“名”は剣だ。
振るうために鞘に収めるのだと、自分に言い聞かせている。
『降下シークエンス、開始。三、二、一』
重力が肩に乗る。
床がわずかに傾き、胸の奥の空白が、すとんと落ちる。
窓の外で、宇宙が回転した。黒が濃くなり、薄い青が膨らむ。境目が火に溶ける。
炎は見えない。けれど、空気が擦れる匂いだけが、鼻の奥に生まれる。
『第一跳躍、完了。痕跡散逸、良好。目標降下点、南方宿場町外れ。降下後は遮蔽林を通過し、日没とともに入市を推奨』
「了解」
セリナが、深く息を吸う。
吐く息は、震えていない。
彼女はもう、顔を持っていた。
王女でもなく、亡国の姫でもない。旅の娘“リナ”の顔だ。
「ねえ、アオ」
「なに」
「わたしたちは、勝てると思う?」
彼女の声に、期待も不安もなかった。
ただ真っ直ぐな問いだけがある。
勝てるかどうかは、たぶん――まだ誰にもわからない。
だからこそ、僕は彼女に嘘を言わない。
「勝つための“選び方”なら、知ってる気がする」
「選び方」
「全部を救うって言わないこと。全部を失わないこと。守る順番を、最初に決めること」
セリナは目を細め、ゆっくりと頷いた。
「なら、最初に守るのは――」
「君自身だ」
彼女は、ほんの一瞬だけ驚いた顔をして、それからかすかに笑った。
笑って、ごく弱く、頷いた。
『第二跳躍、進入。位相揺らぎ、安定。地上高位魔力源の観測精度、低下を確認』
マザーブレインの声が、遠くなる。
ハルピュイアは影になる。
炎の羽は閉ざし、ただ重力の井戸を落ちていく。
◇
窓の下で、世界が近づいてくる。
雪の匂いはまだない。
けれど僕は、もう想像できる。湿った木の階段、濁った酒、油で黒く光る掲示板。
大声で笑う男と、恥ずかしそうに杯に口をつける女。
そして、壁際の影からこちらを測る幾つかの目――七聖の目か、それともただの生存の目か。
どちらにせよ、仮面は落とせない。
落としていいときは、きっと向こうからやって来る。
『最終降下。姿勢制御、微調整。十、九、八――』
僕は、彼女の名をもう一度だけ呼ぶ。
「リナ」
「なに」
「降りたら、最初に温かいものを食べよう。君の国の味でなくても、温かいものは、少しだけ心を助ける」
セリナは、ゆっくりと目を閉じた。
そして、静かに笑った。
「ええ。賛成」
カウントが、零に触れる。
世界が、音のない震えで迎えに来る。
――仮面をつけた二人の物語が、始まった。
淡々と執筆していたので、全話見直しました。
数回、伏線と設定の為手直しがあるかもしれません。
よろしくお願いいたします。