第3話 : 二人の対話と崩壊の音 (セリナ視点)
話を変えてすみませんが、全話リライトしています。
冷たい空気が、頬に触れた。
地下に沈んだ遺構は、どこまでも静かだった。
けれど、その静寂は安息ではない。
崩れた鉄骨の匂いと、いつ落ちてくるとも知れない天井の軋みだけが、聞こえてくる。
ガラスの蓋が開いたカプセルの縁に、私は指を添えた。
少年は浅い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと体を起こす。
灰色の瞳が、まだ深い眠りの奥からこちらへ戻ってくる。
「……大丈夫?」
問いかける声が、自分でも驚くほど震えていた。
戸惑いか、恐れか、安堵か。どれも少しずつ混ざっている。
「……君は?」
掠れた声。けれど、芯は揺れていない。
「私は、セリナ。レグノル王国の……姫よ」
言ってから、胸の奥がきゅっと痛んだ。
王都は落ち、家も民も、もう戻らない。
私の肩書きは、ただの名残だ。
「……セリナ」
少年が、確かめるように私の名を呼ぶ。
その口の動きのたび、右腕に装着された金属の装置が微かに光った。
――ピィ……。
細い音が空を切り、少年の義手の表面に淡い文字列が浮かぶ。
光はふわりと宙へ解け、目に見えない板に刻まれていく。
『パーソナルユニット:アオト=ミナセ 意識再起動を確認』
『環境スキャン開始。外部言語構造、解析中……』
『マザーブレイン接続を試行します』
……理解は追いつかない。
けれど、直感は告げていた。これは魔法ではない。光の粒は精密で、幻術の揺らぎがない。冷たいのに、正確で、迷いがない。
「マザーブレインって……何?」
私が問うと、少年は目を細めた。灰色の瞳に、硬い光が宿る。
「世界の……中枢。ここを、そして“方舟”を管理している」
旧い世界。禁じられた神話の中だけに出てくる言葉。
口にしただけで、誰かに聞かれるのではと胸の内が固くなる。
けれど、もう遅い。
私たちは、この場所で出会ってしまった。
――ドゥゥン。
地の底から、重たい音が響いた。足元の床が小さく震え、天井から砂がぱらぱらと降り注ぐ。
「……崩れてる?」
「それとも、誰かが近づいてる」
少年――アオトは、ほんの少しだけ息を整え、私に視線を戻した。
「動けるよ。支えてくれれば」
「ええ」
私はうなずき、彼の左腕を肩に回した。
体温は低い。
雪の夜の石のように冷たいのに、不思議と嫌ではない。
肩にかかる重みを確かめ、歩きだす。
床面の継ぎ目に、眠っていた光が一つ、また一つと点り、ほの青い矢印を描いた。
『安全ルートを再構築中。避難推奨:第壱区画』
『外部振動検知。構造安定性、低下』
私には読めない記号も混ざっているのに、意味は伝わってくる。
ここは生きている。
遺構そのものが、私たちを導こうとしている。
通路は幾筋にも分かれ、どこも同じに見えた。
けれど足元の光は迷わない。
鉄骨の梁、苔むした壁、意味のわからない図形で埋め尽くされた扉。
魔法都市のどこにもなかった形が、当たり前の顔をして並んでいる。
「……怖くはないの?」
気づけば、私は囁いていた。自分の声で、自分を落ち着かせるみたいに。
「怖いよ。何もかも、よくわかってない」
アオトは素直に言った。
その言葉だけで、足元の冷たさが少し薄らいだ気がした。
強がりだけではない、正直さ。
彼は、私の知らない世界から来たかもしれないのに、私の知っている人のようでもある。
分岐を過ぎ、大きな円形の空間に出た。
中央に太い柱が立ち、その周囲を幾重もの回廊が巻いている。
柱の一部が裂け、向こう側の暗闇が覗いていた。
「待って」
私は息を飲んだ。
暗闇の底で、何かがうごめく気配がある。
魔物ではない。
もっと無機質で、こちらと無関係のようでいて、しかし確かにこちらを測っている視線――。
『監視ユニット応答なし。代替経路へ切替』
光が、別の通路へ流れを変えた。
私は肩の重みを確かめなおし、知らない世界の導きに従う。
何度も深呼吸し、意識をいまに戻す。
――考えるのは、あとでいい。
いまは、進む。
しばらく行くと、壁が音もなく割れ、中へ滑り込むように広がった。
室内には斜めの机が並び、透明な板がいくつも突き出ている。
そこに、ふいに色が灯った。
瓦礫の山、黒煙、焼けた城壁。
見覚えのある街の輪郭が、上から見た形で、じわりと浮かび上がる。
「……王都……?」
喉が塞がった。
白銀の城は、もう白くない。
黒い指でひっかいたみたいな跡が無数に走り、塔の影は崩れている。
広場には人影が点のように散って、動きが乱れている。
人々の声は聞こえない。
ここは静かすぎる。
眩暈がして、机に手をついた。指先が震える。
あの都市で育った。笑い声も、朝の鐘も、祭りの匂いも――全部、ここにはない。
「セリナ」
名を呼ばれて、どうにか顔を上げる。
アオトは画面を見つめていた。
その瞳は、哀れみでも、憐憫でもない。
受け止めきれないものを、無理にでも受け止めようとする色だ。
「……ごめん。見せるべきじゃなかった」
「違うわ」
私は首を振った。もう泣かない。泣くのは、あとでいい。
現実から目を背けたら、私の国は二度死ぬ。
「見せてくれて、ありがとう」
自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。
私の中に、薄い氷が張る。割れないように、そっと呼吸する。
『換気区画、不安定。第壱区画への避難を推奨。ノア=アーク接続ポートを開放します』
見たことのない単語が、連ねて流れていく。
“ノア=アーク”。そう、アオトがさっき言った“方舟”。
「ここから先に、方舟があるの?」
「ある。もし動くなら、きっと君たちの敵から身を守れる。……そして、確かめられる。いま、この世界で何が起きているのか」
彼の声は弱い。けれど、その眼差しはまっすぐだった。
私はうなずき、彼の肩の下で腕を固定する。
扉が滑って開くと、短い橋が口を開けていた。下は深い。
青い非常灯が縁を細く縫い、手すりの向こうで、黒い空気がゆっくり揺れている。
「高い所は、得意じゃないの」
思わず漏らすと、アオトが小さく笑った。
その笑みは、凍りついた空気の中にほんの少し、温かい灯をともす。
「僕もだよ」
「嘘でしょう」
「本当」
そんなやりとりをしている間にも、橋は軋んだ。
私は息を詰め、一歩、また一歩と足を進める。
靴底が金属に触れる音が、心臓の鼓動と一緒に数えられる。
向こう側の扉に、見慣れない板が付いていた。アオトが義手をそっと押し当てる。
『認証。起動者識別――アオト=ミナセ。規約三七号に基づき、臨時許可を付与します』
低い声が鳴り、扉は左右に割れた。
その先は、広い――息を呑むほど広い空間だった。
半球状の天井。青白い照明が霧のように漂い、中央に眠る巨塊の輪郭だけをそっと撫でている。
船。けれど私の知るどの船とも違う。
水ではなく、空か、もっと高い何かを渡るための器。
骨組みは滑らかで、鱗のような板金が幾重にも重ねられている。
「これが……ノア=アーク」
言葉にすると、胸の内で何かが音を立てた。
恐れだけではない。名もない期待と、ここではない場所へ連れていく予感。
『第壱接続ポート、加圧中。安全値まで、残り十分』
時間の感覚が戻ってくる。十分。
十分で、この巨大なものは目を覚ますのか。
「セリナ」
呼ばれて、私は振り向く。
アオトの顔色はまだ白く、しかし瞳の色は起きる前とは違っていた。
「僕は、今の世界のことをほとんど知らない。……だから、間違えるかもしれない」
「ええ。私も、あなたの世界を知らない。だから、間違えるわ」
互いに短く笑った。
屈んで彼を座面に下ろし、肩の重みから解放されると、足が少し震えているのに気づく。
ふくらはぎに力を込め、息を整えた。
「お願いがあるの」
「うん」
「私を、私の民を、あなたの“道具”のための犠牲にしないで」
言葉は、思ったよりも固かった。
アオトは驚いた顔で目を瞬き、それから、ゆっくりとうなずいた。
「しない。……約束する。僕は“守る力”にしたいんだ」
守る力。
その響きに、張っていた薄氷がほんの少しだけ緩んだ。
『警告。外部振動、増大。接近反応、三。識別――不明』
天井の照明が一度だけ揺れた。
遠くで、鋼が擦れるような低い唸り。
地上から、何かがこちらに向かっている。
魔法の気配は感じない。
けれど、嫌な予感は理屈よりも先に胸を掴む。
「急がないと」
私はアオトの手を取った。指は冷たい。けれど、小さく力を返してくる。
足元の光が、方舟の腹へ続く通路を縫う。
私はその先へ踏み出す。
暗闇の奥から、何度目かの振動が波のように押し寄せ、壁のパネルが順に目を覚ます。
『ノア=アーク第壱区画へ誘導を開始』
『補助生命維持、起動。環境制御、安定化』
『――セーフティ解除待機』
はじめて会った少年と、はじめて見る世界の船。
選んでしまえば、もう戻れない。けれど、戻る場所はとうに失われた。
私は、振り返らない。
「行きましょう、アオト」
「うん」
扉が開く。薄い風が頬を撫で、どこか遠い場所の匂いがした。
崩れゆく遺構の奥で、世界はもう音を立てて動き出している。
――その音は、崩壊の足音か。
それとも、始まりの合図か。
答えは、きっとこの先にある。
話を変えてすみませんが、全話リライトしています。