第2話:記録の残響とマザーブレイン
冷たい空気が、まだ少しだけ頬に刺さっていた。
少年がまぶたを持ち上げた瞬間、灰色の瞳がこちらを捉える。
その視線に射抜かれた感覚が、胸の奥でいつまでも消えない。
私は、息を整えた。
「私はセリナ。レグノル王国の……姫よ」
少年はしばらく黙っていた。唇がかすかに震え、乾いた呼気が漏れる。
「……ぼくは、アオト……アオト=ミナセ」
名乗った自分の名を、確かめるように小さく繰り返す。
雪のように白い肌、右腕に装着された金属の装置。
王国の学舎でも軍でも見たことのないものだった。
どれほどの時間を、ここで眠っていたのだろう。
私は、そっと膝をつく。
身を起こす彼の肩に手を添えると、びくりとわずかに身じろいだが、やがて力を預けてきた。
体温は低い。
呼吸は浅い。
けれど、瞳だけははっきりと生の光を宿している。
遠くで、鉄が軋むような音がした。
崩れた通路、苔むした鋼鉄の床、奇妙な記号が彫り込まれた扉。
ここは、神殿ではない。
何かの……施設。
「ここはどこ。神の祠じゃないのよね」
問いかけると、アオトは首をわずかに振った。
「……研究と、保護のための区画。たぶん……冷凍施設の中枢に近いところ」
意味は半分も分からない。
けれど、彼の口調には“知っている者”の確かさがあった。
私の世界の理とは、根っこから違う。
そのとき――。
小さな電子の音が、空気を裂いた。
アオトの右腕の装置が微かに震え、淡い光が浮かび上がる。
空中に、板のような、紙でも水鏡でもない光の膜が展開した。
『パーソナルユニット・アオト=ミナセ、意識再起動を確認』
『接続先検索中――中枢系統〈マザーブレイン〉とのリンクを試行します』
冷たい女声が、遺構の静寂に落ちた。
詠唱でも祈りでもないのに、意味を持つ言葉が空間を満たしていく。
「マザーブレイン……それが、あなたを守っていた何か」
思わず口をついて出た問いに、アオトは短く息を吸う。
「ぼくたちの時代の中枢制御。世界を“管理”する頭脳……だったはず」
頭脳が世界を管理する――。
その言い回しが、どこか恐ろしく感じられた。
けれど同時に、ここまで崩れた地下でなお、彼の言葉だけが地に足の着いた現実のようにも思えた。
床下から、低い唸りが伝わってくる。
「立てる」
アオトが囁く。私は肩を貸した。
細い体に、意志だけが宿っている。
立ち上がるたびに、古い機械がひとつずつ息を吹き返すように、壁の記号が淡く光った。
通路の先――黒金色の扉が立ちはだかる。
アオトが右腕をかざすと、扉の縁に青白い輪が走り、ゆっくりと左右に開いた。
そこは、広大な空洞だった。
半球の天蓋。淡い照明が穏やかに降り、空洞の中央に、巨大な“船”が眠っている。
静まり返った夜の湖に、ひっそりと浮かんでいるみたいに。
『ノア=アーク――多目的航行型記録船。低電力起動モードへ移行します』
また、あの声。
「……ノア、アーク」
口に出すと、音だけが先に胸に落ちた。
意味は分からない。だけど、どこかで聞いた伝承の舟の名に似ている気もして、脈が少し速くなる。
「ぼくたちの言葉で“方舟”。人を、記録を、未来へ運ぶための船」
アオトの瞳に、微かな熱が宿る。
私の世界にないものを、彼はあたりまえの顔で言う。
彼の世界にないものを、私は祈りのように唱えてきた。
その違いが、痛いほど鮮やかに胸に刻まれる。
天蓋がきしり、砂がぱらぱらと降った。
崩れている。時間がない。
『外部より不明広域干渉波を検出。危険度、低から中へ上昇』
『推奨行動――搭乗口へ移動し、第一起動区画へ退避してください』
機械の声は、怖いほど迷いがない。
けれど、いまはその迷いのなさに救われる。
「行きましょう。ここは安全じゃない」
私はアオトの手首を取った。体温が、ほんの少しだけ戻ってきている。
彼はうなずき、歩幅を揃えてくれる。義手の奥で、小さな機構音が規則正しく鳴っていた。
◇
昇降リフトが、静かに私たちを載せる。
船体の腹が開き、光の道がのびる。踏み出す足元が、ふわりと温かい。
船内は、眠っている都市みたいだった。
細い光の筋が床を走り、壁面には見たことのない器具や、透明な管が整然と並ぶ。
迷子になるほど広いのに、どこにも人の気配はなかった。
「呼吸、苦しくない」
思わず呟いた。
さっきまで胸の奥で冷たい針のように刺さっていた空気が、ここでは柔らかい。
「環境を、ぼくらに合わせて調整してる」
アオトの声はまだ掠れているけれど、言葉ははっきりしてきた。
私の歩調に合わせ、ゆっくりと制御室らしい場所へ向かう。
扉が開く。
中は円形で、中央に円卓のような台があった。周囲の壁が一斉に淡く光る。
『起動者確認。補助言語、再構築を開始』
『未知言語の統計解析――進捗、七割』
壁に光が走り、空中に半透明の板がいくつも浮かぶ。
そのうちのひとつが形を変え、地図のようなものが現れた。
そこに、見覚えのある形が映る。
レグノル――。
白銀の城壁、尖塔、川沿いの市場。
そして映像の中で、それらが黒く、静かに崩れている。
呼吸が止まった。
「やめて」
思わず口から洩れた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
けれど映像は止まらない。違う角度、違う高さから、焼け落ちた城を映し続ける。
アオトの視線が、わずかに横から私に寄り添う。
「……ごめん。確認しなきゃいけない」
私は、うなずいた。
泣かなかった。泣きたくなかった。
王女としての最後の意地みたいなものが、喉の奥で熱く渦巻く。
『外部観測網の再構築――軌道目標〈ペガサス〉、通信経路を確保』
『カウント開始。起動まで、五十三秒』
「軌道、目標……宇宙にある“施設”のこと」
アオトが、私にも分かる言葉を選んでくれる。
私は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「宇宙に……施設」
魔法では、星はただの星だ。
けれど、彼の言う宇宙は“見張るための場所”で、世界を俯瞰するための場所なのだ。
それが、どれほど残酷で、どれほど心強いのか。
まだ、分からない。
静かな震動が、床から指先へと伝わってくる。
船のどこかで、何かが動きはじめている。
「立てる」
「立てる」
同じ言葉が重なって、私たちは少しだけ笑った。
ぎこちないけれど、確かに笑えた。
『警告。地上より複数の不明反応を検出』
『推定、観測網と診断。遮蔽フィールド展開を推奨』
七聖――。
黒の魔女の冷たい微笑が脳裏にちらつく。
喉の奥の熱が、今度は冷たい氷に変わった。
「マザーブレイン。遮蔽をお願い」
アオトが、私には馴染みのない名を呼ぶ。けれど、その声は祈りに似ていた。
壁の光が一段と強くなり、すぐに穏やかな暗さに落ち着く。
『遮蔽、完了。短時間の監視は回避可能。長期の滞在は推奨されません』
「ここに長くはいられないってこと」
「うん。まずは安全な区画へ避難して、装備と体制を整える。外へ出る時は、君の世界の“やり方”に合わせて」
君の世界。
その言い方に、胸が少しだけあたたかくなる。
私の世界は、もう燃えてしまったのに。
「……ひとつだけ、お願いがあるの」
「うん」
「救いたい。人を、土地を、言葉を。全部は無理でも、できるかぎり」
アオトは、短く息を吸い、うなずいた。
その瞳に、きれいな灰色の光が灯る。
「分かった。ぼくの“知っている”を、君の“祈り”に繋げる」
機械の声が、ふたたび落ちる。
『起動完了。外部観測〈ペガサス〉、リンク確立』
『地上の被害状況、周辺勢力の動き、救難信号、すべての取得を開始』
光の板が、次々に情報を映し出す。
私は、ひとつ深呼吸をした。震えない。まだ震えない。
「セリナ」
「なに」
「少しだけ、手を。体温が、欲しい」
差し出された指は、少し冷たかった。
私はその手を強く握った。祈りじゃない。約束だ。
低い唸りが、腹の底から天へと抜けていく。
船が、息を吸う。世界に目を開く。
遮蔽の向こう側で、誰かがこちらを探している気配がする。
『提案。第一起動区画に退避後、搭載医療区画で起動者の生体を安定化』
『同時に、地上観測データから安全経路を抽出。退避点の候補を提示します』
「行こう」
「行こう」
言葉が重なる。今度は、迷いがなかった。
扉が開き、柔らかな灯りが足元を導く。
振り返れば、崩れた地下、苔の床、封じられた扉。
すべてはもう遠ざかっていく。
けれど、ここで見たものは残り続ける。
灰色の瞳の光。
機械の声。
方舟という名の船。
そして、私の胸に灯った、はじめての“再起”の火。
世界は、確かに動きはじめていた。
足元の光が、次の角をやさしく照らす。
崩落の音が、遠くでひとつ、遅れて響いた。
私たちは互いに手を離さず、その角を曲がった。
設定は、たくさんあるのですがキャラクターや構成の書き方いざとなると難しいですね。
改稿はどんどんしていく予定で連載をかいていますので、ご容赦ください。
いろいろと勉強になる事ばかりです。