第10話:「 ファランシアへ」
雪は周囲の音をすべて消し去るかのように静かに降っている、白い静寂だけが残っていた。
ロスヴァルの町に戻ったのは、夜明け前だった。
ロスヴァルで、3つの役割を兼ねる「鷲の爪」の灯が、雪の中でぼんやり滲んでいる。
扉を開けると、暖炉の火とスープの匂いが迎えてくれた。
受付のカレンさんが顔を上げ、こちらを見た。
その瞳に一瞬だけ宿った安堵の色を、私は見逃さなかった。
「……無事でよかったわ。峠の吹雪、ひどかったでしょう?」
「ええ。少しね」
私が微笑むと、カレンさんは胸をなでおろした。
「二階の部屋、空いてるわ。休んでいきなさい」
「ありがとう」
私はアオトと共に、部屋の階段を上がった。
古い木材が軋む音が、静かな夜を埋めていく。
部屋の灯をともすと、アオトが机の上に端末を置いた。
義手の接続端子が青く光り、機械音が静かに響く。
「……通信するの?」
「うん。祈りの洞窟のこと、マザーブレインと共有としておきたい。」
私はベッドの縁に腰を下ろし、湯気の立つマグカップを両手で包みこむように持つ。
まだ、あのときの洞窟の光景が目に焼き付いて離れない。
――あの声。
『観測を開始』
そして、あの冷たい光。
アオトの義手が、低い共鳴音を立てる。
『接続確立。こちらマザーブレイン。報告をどうぞ。』
「ロスヴァル北方、祈りの洞窟。
未知の干渉波を検知した。
……お前のネットワーク痕跡は?」
数秒の静寂。
『該当する記録なし。
ただし、地形構造が旧アストレリウム系列施設と類似。
製造母体は――旧地球企業〈GAIA INDUSTRY〉。』
「ガイア……」
アオトは小さくその名を繰り返した。
それは、アオトの時代でマザーブレインの開発を競った企業。
同じ設計思想を持ちながら、最後には対立した存在。
「……つまり、あの洞窟は“もう一つの頭脳”の遺構ということね」
「セパレートが“引き継ぎ”なのか“切り離し”なのか……わからない。」
マザーブレインが淡々と答える。
『ガイアの設計データには、自己観測アルゴリズムが存在。
観測は干渉、干渉は責任。
この概念は、ノクス・アルヴェインの研究理論と一致します。』
その名を聞いた瞬間、アオトの瞳がわずかに動いた。
「……ノクス」
セリナが小さく呟いた。
洞窟で聞いた“観測”という言葉――まるで、彼の声のように。
アオトは義手を外し、深く息をつく。
「セリナ。明日、このロスヴァルを出よう」
「……ファランシアへ行こう。」
「……ファランシア?」
「バルドが言っていた。」
「レグノルの残党が、そこに集まっていると。」
「バルドが言っていた、七聖が動く前に、確かめたい。」
セリナは少し黙って、それからうなずいた。
「そこに、祖国“レグノル”の生存者が残っているかもしれない。
そして――七聖が何をしようとしているかも。」
「……行こう。僕も見ておきたい」
義手の端末に触れると、アオトは短く命じた。
「マザーブレイン、ハルピュイアの遠隔起動を。
ロスヴァル近郊、座標E-017。ミラージュモードで」
『了解。起動シーケンス開始。
ロスヴァル郊外に座標指定。偽装展開完了予定:午前七時。』
窓の外で、雪がひとすじ光った。
夜空に走る淡い青の閃光――ハルピュイアが自動起動する合図。
アオトはその光を見上げ、微笑んだ。
「準備は整った。……行こう、セリナ」
「ええ。ファランシアへ」
◆
翌朝、ロスヴァルの街は薄明の雪に包まれていた。
「鷲の爪」の前で、カレンさんが立っていた。
「もう行くのね。」
「はい。……お世話になりました。」
「あなたたちの事は、覚えておくわ。」
カレンは穏やかに笑った。
「無事で戻ってきて。――それが一番の報告だから」
「ありがとう」
私はフードを整え、街の外れへ歩き出した。
氷原の向こう、白い霧の中に――ハルピュイアの翼が見えた。
雪を散らしながら、音もなく待機している。
アオトが振り返る。
「行こう、リナ。……いや、セリナ」
「うん、“アオト”」
風が頬を切る。
雪の粒が光を弾く。
ハルピュイアが蒼く点滅し、ゆっくり浮上する。
そして、ハルピュイアは雪雲を裂いて飛び立った。
その行き先に、滅びた都――廃都ファランシアがある。




