逃げ込む勇気
少し遠くを見ているような母だった。
母の言葉はゆっくり俺の胸に届いていった。
「あのね。本当にごめんね。まぁちゃん。」
「そんな謝らないで下さい。私、嬉しいんです。
私のために時間を割いて下さって本当にありがとうございます。」
「いい子ね。まぁちゃん……。」
「いいえ、私は………。」
「まぁちゃん、私は貴女に生きて欲しいの。」
「生きて、って……母さん!」
「私の友達、同居してたのよ。ご主人の親御さんと……。
辛かったのね。
何も言ってくれなかったから私……知らなかったの。
ある日、偶然会ったのよ。駅前で……。
その時に彼女……急に泣き出したの。
いつも笑顔の彼女が急に涙をいっぱい流して……。
私の顔を見ただけだったのよ。
何もしてあげられなかったわ。私……。
何も………。
それからだった。彼女が命を絶ったと連絡が来たの。
家族葬だったらしいの。だけど、連絡が無かったのね。
だから、お別れできなかったの。
苦しかったんだと思うの。辛かったと思うの。
でも、何も出来なかったのよ。私……。
生きて欲しかった。生きてさえいたら……。
………ごめんね。彼女のことがあったから貴女が心配だったの。
だから、病院へ行こうって無理強いしてしまったわ。
本当にごめんなさい。ごめんなさい。」
「………いいえ、いいえ。」
まぁちゃんは「いいえ」しか言わなかった。
俺が産まれて直ぐの頃のことだったようだ。
だから、俺は母の苦しみを悲しみを知らなかった。
母は涙を拭いて言った。
「まぁちゃん、貴女の未来は貴女が創るの。
ご両親のための未来じゃないわ。
貴女の未来は貴女のものよ。
ゆっくり心を癒して、ね。」
「はい。」
「それから、辛いことがあったら、ここに来て!
うちに逃げ込んで頂戴。お願いよ。」
「ご迷惑じゃ……。」
「迷惑じゃないわ! 必ずよ。必ず……来て!
辛くなったら……辛くなくても来てね。
待ってるわ。親子で……。」
「はい。ありがとうございます。」
「うちを忘れないでね。」
「はい。」
「必ずよ。必ず頼って!」
「はい。」
母から「会社が終わる夕方まで車で遊んで来なさい。」と言われた俺は、母の言う通りに車で出掛けた。
まぁちゃんを助手席に乗せて、俺は緊張した。
緊張していることに驚いたのは俺自身だった。