⑨
「――!?」
咄嗟に振り向いたが、相変わらずスマホのライトが照らしたのはせいぜい俺が降りてきたばかりの数段だけで、その先は真っ暗な闇が続いている。
それでも闇の向こうから、カツン、カツンと大きな音を鳴らしながら誰かが―――誰かが、階段を降りてくるじゃないか。
咄嗟に『俺』の顔を思い浮かべたが、同時に違和感も感じる。
(いま、俺のことなんて呼んだ?)
ヴィズなら俺のことを「日野」と呼ぶはずだ。でも今呼ばれた名前は、日野とは全く違うものだった。声も低さから男の人だということは分かったけど、聞き覚えは無い。
……恐らく、こちらへ向かってくる人物は俺の知っている人ではない。
俺がこうして固まっている間にも、誰かさんの足音は徐々に大きくなってくる。その一方で、俺の足は一段、また一段と器用にも後ろ向きで階段を下っていった。
(なんとなく……嫌な予感がする……。)
この空間に来てから良い予感がしたことなんて1秒もないけど、今までで一番胸がザワザワしている。足さえすくんでいなければ、今すぐ体の向きを変えて全速力で駆け下りたいくらいだ。
(………?あれ、足音が止まった。)
突然途切れた音を探して耳を澄ませると、足音の代わりに布が擦れるような音がした。しかも思ったよりも近く―――俺がいる階段のほんの数段先で、だ。
……相手の足音よりも、俺が階段を降りるほうが早かったはずなのに、いつの間にこんなに距離を詰められていたんだろう。
一瞬で手のひらにぶわりと浮かんだ汗を白衣で拭ったとき、今度は相手が息を吸う音が聞こえた。
「…大事なものが落ちているぞ、アンジョウ。それともようやく禁煙する気にでもなったか。」
(きんえん……禁煙?あ、シガレットケース…!)
誰かさんは、俺が置き去りにしたシガレットケースを拾い上げたんだろう。そして今はっきりと聞こえた、淡々とした男の声を俺は知らないし、間違いなく俺とは異なる名前を呼んだ。
また逃げようかどうしようかと考えるよりも早く、暗闇からスッと伸びた手が、俺の目の前に長方形の箱―――シガレットケースを差し出してきた。
かろうじて見える指先から目が逸らせないでいると、手の主は『早く取れ』と急かすようにシガレットケースを揺らす。
「おい、何をしている。」
「……あ、あの、俺はアンジョウじゃない、です。」
「…………。」
「だからこのシガレットケースは、俺のじゃない…。」
シガレットケースがピタリと止まり、箱の中でぶつかり合っていたタバコの音も止んだ。
再び訪れた静寂の中、俺の喉はカラカラの口のどこからか奇跡的に生まれたらしい生唾を盛大に飲み込んで、男の言葉を待つ。
「……子ども?なぜ子どもが部屋を出て……いや、違うな。君は違う。誰だ。ここで何をしている。」
「えっ、えっと、俺は、」
「止まりなさい。」
「うわっ!!」
―――無意識にまた後ろに下がろうとしていた足が急に止まったせいで、身体が後へ大きくのけ反った。
こんな所から転がり落ちちゃたまらない!全身全霊をかけて重心を前に戻すと、勢いで顔面から階段に倒れ込む。
(あっ…ぶねー!!なんで急に止まったのさ俺の足!まさかまさか、左腕みたいに『種』の影響が出ちゃったのか?)
もう十分暗いところにいるってのに、さらに目の前が真っ暗になりそうだ。
怖くて立ち上がれないので、階段に張り付いたまま恐る恐る力を入れてみると………両足は問題なく動いた。
ホッとしたのも束の間、耳元でカツンと一際大きな音がした。顔をあげなくても分かる―――男が、俺のすぐ傍に立っているのだ。その証拠に、視界の端に俺が履いているものとよく似た革靴が現れている。
「立ちなさい。」
「………。」
たった一言、静かに言われただけなのに、俺の腹の底にズンと響いた。
ヨロヨロと立ち上がると、視界に見えるものが革靴から男が身にまとっている白衣へと変わる。皴一つなく、ボタンは全てがキッチリと留まっていて、俺が着てる白衣とは大違いだ。
「……。やはり違うはずだが…。」
痛いほどの視線が俺の頭頂部に突き刺さる。どうやら男は俺の1段上に立っているらしい。
少し顔を上に向ければ相手の顔も見えるはずだけど、どうしても顔をあげることが出来ず、男の白衣か自分の足元に目をやってしまう。目に見えないけれど、とても重たい『何か』に頭を押さえつけられている気分だ。
―――頭の上から、低く笑う声がする。
「どうした。私が怖いか。」
(…怖い……。)
俯いているせいで、俺の顔から階段にむかって汗がどんどん滴っていく。足元を照らすスマホのライトが滅茶苦茶に動いているのを見て、初めて自分が酷く震えていることに気が付いた。次第に歯の根が噛み合わなくなり、喉に向かって胃液がせり上がってくる。
怖い怖い怖い……けど、どうして俺は知らない人をこんなに怖がってるんだろう。
「名前を言いなさい。」
「…っ、」
…まただ。恐ろしいこの男に名前なんて教えたくないのに、一瞬で『名前を言わなきゃ』という焦りの波が押し寄せ、かき消されてしまう。いくら喋るまいと歯を食いしばってもこじ開けられる。自分の身体なのに、なんで言うことを聞いてくれないんだ。
「……の……と」
「聞こえん。もう一度大きな声で言え。」
「お、俺の、名前は、ひ――むぐっ!?」
ん?…………んんん!?
こ、今度は口が動かなくなった!―――のではなくて、俺の口は何か大きなものに塞がれている。
暖かくて、大きくて、ちょっとゴツゴツしてるこれは……手だ。
俺の動かない左手でも、スマホを握りしめている右手でもない。目で辿ると、腕は俺の背後から伸びているので、俺の目の前に立っている男の手でもない。
「…駄目だぞ。そいつに名前を言うんじゃない。」
「むぐがっ!?」
俺の耳に穏やかな低音が囁いてくる―――ってことはやっぱり、俺のすぐ後ろに誰かが立っているってことだ。
咄嗟に振り向こうとしたけれど、いかんせん俺の口を塞ぐ手の力が強くて顔が回らない。
「…落ち着きなさい。この異空間ってのは、取り込んだ人間の情報を元に作られるようだ。よってあの男もただの幻覚だ、怖がる必要はない。」
「……!」
「それにしても『種』とやらが、ここまで引き出してくるとは思わなかったな。あのヴィズはなかなか珍しい能力を持った個体のようだ。媒体となった少年が肩入れしすぎたってのもあるだろうが……ヴィズもどうだか。なぜさっさと喰い殺さない?通常じゃあまり見られないケースだ。」
背後の男が独り言を呟くにつれ、俺の口を押える手の力が少し弱まった。
恐らく反対の手が、背中をポンポンと優しく叩いてくる。不思議と身体の震えがおさまってきて―――口ではなく鼻で呼吸が出来るようになったとき、ほろ苦い匂いが鼻腔に流れ込んできた。
「ヴィズは一方的に人間を阻害する存在だと捉えられがちだが、影響を与えるのはお互いさまってことだな。人間がいなければヴィズは生まれないし、ヴィズがいなければオリジンとラミアの均衡を保つことはできない。献血などという言葉すら生まれないかもしれない。」
「おい。」
「昼は人間の世界、夜はヴィズの世界……昔そう言い伝えられていたのは、互いの存続のため深く干渉するのを避けるためだ。今は人間がヴィズに干渉しすぎている。このままじゃオリジンとラミア、どちらか一方が絶滅するな。」
「おい!いい加減にしなさい。」
俺の前に立っている男から鋭い声が放たれた。それだけで俺の全身に電流が走ったような衝撃があったのに、背後の男は「ん?」と抜けた声を出した。
「あ、ああ、すみません。いつもの癖でまた考え込んでしまいました。お久しぶりですね。」
「何を寝ぼけたことを言っているんだ、ふざけるのも大概にしなさい。全く……この状況を説明しろ。お前の白衣を着ているそれは何だ。」
「『何』だなんて、幻覚でも相変わらずだ。…とは言っても、今の貴方がどんな人間になってるかは知りませんがね。」
知らない男二人が俺を挟んで、全く内容が分からない会話を繰り広げている。ただ、前方の冷静な声の中に、怒気が滲んできたことはハッキリと分かった。
速やかに逃げ出したいが、背後の男に捕まってるせいで動けない。
「……はぁ、どこぞで頭でも打ったか。もういい、それに直接答えさせるまでだ。おい子ども―――早く名前を言いなさい。」
「んぐぐ…!」
また開きかけた俺の口を、背後の男の手が強く押さえ直した。俺の名前はモゴモゴと曖昧な音になって、手のひらに吸い込まれる。
「おっと危ない…良い機会だから、従うだけじゃなく反抗する練習をしといたほうが良いな。そうすれば君のために陰で走り回ってる奴も、少しは安心できるだろう。」
「ごげごがげぎ?」
「そうだ。ほら、『嫌だ』って言うだけだぞ。」
背後からもう片方の手が伸びてきて、俺の頭を掴む。嫌な予感がしたのも束の間、頭を無理矢理上にぐっと引き上げられた。
目の前に立っている男の白衣ばかりだった視界に、男の肩から顎までが現れる。暗くてぼんやりとしか分からないが、男の唇が真一文字に結ばれているのを見た瞬間、『やばい』という直感で咄嗟に目を背けた。
「どうした。名前を言えと言っているのが分からないのか。」
(!!…無理、どうしても言うことを聞いてしまいそうだ!)
まだ口を塞がれているから耐えているけれど、外された途端、男の望み通りに名前を言ってしまいうだろう。
突き刺さるような視線も辛くて、また下を向いてしまいたい―――そんな俺の願望は、背後の男の手によって簡単に阻止されてしまう。
「負けるな。君が拒否しない限りこの幻覚から出られないぞ。こんな深層には君の友だちはいない―――自分が何をしに来たのか、どうしたいのか。思い出しなさい。」
(俺が、何をしに来たのか、だって?…………そうだ、米山君!!)
一瞬でも本気で思い出せなかった自分を殴りたい―――俺は、米山君を追いかけてここに来たんじゃないか!!
(米山君……ってどんな顔だったっけ?あれ?もしかして俺、どんどん米山君のこと思い出せなくなってる?)
まずい。それは本当にまずいぞ。
もうクラスメイトでさえ米山君のことを思い出せなくなってしまっているというのに、俺まで忘れたら一体誰が米山君を探すんだろう。
(とにかく早くここから出ないと!そのためには……)
汗まみれのスマホをぎゅっと握りしめる。俺が何か言おうとしているのに気が付いたのか、口を押えていた手が離れた。
階段の上を見ることを全力で拒否している眼球を必死の思いで動かす。
「お、俺、」
「なんだ。」
「俺の名…じゃなくて!、お、おれは名…名なな――なにをしてるでしょう!?」
「は。」
な……なんとか名前を言わずに済んだ!!けど、たったこれだけの会話でも息切れを起こすほど消耗するなんて。
相変わらず歯がガチガチとやかましいし、全身冷や汗が止まらないけれど―――自分がしなきゃいけないことを思い出した今は、どうにか自分を保っていられる。
あとは、俺の全力でひねり出したしょぼい作戦が上手くいくか……。
男から背けようとするのを全力で堪えている俺の両目に涙が浮かぶころ、男の唇が動いた。
「お前が何をしているか?それはこちらが聞きたいことだ。何をしているか説明しなさい。」
―――よし、きた!
俺がひゅっと息を吸うと同時に、背後の男が小声で「うまい!」と言ったのが聞こえた。
「俺…俺、友達を探しに来たんです!でもここにはいない。だから俺はこんな変な所にも、貴方にも一切用は無い。」
「なっ、」
嘘みたいに口が滑らかに動く。
俺が男の質問を無視できないのなら、男の質問を俺が有利なものに変えればいいのだ。
あとは、その勢いに任せて……
「貴方には名前も言いたくない。俺は今すぐここから出て行ってやる!!」
「よく言った!」
力いっぱい叫んだその瞬間、目の前の男の身体に亀裂が走った。
驚いて辺りを見渡すと、階段や壁、そこら中にも白く輝く蜘蛛の巣が――亀裂が走っている。そして瞬きする間もなく、食器棚をひっくり返すような音を立てて、空間が砕け散っていくではないか。
「ちょっ、これどっ、うわあ!!」
嫌な予感は的中し、俺の乗っていた階段もあっさり崩れ落ちてしまった。
悲鳴をあげる間もないまま、無限の闇に吸い込まれるように落ちていく。白衣がはためき、ポケットからペンやら紙やらが次々と飛んでいく。
さらに身体がひっくり返り、頭が下になると、何かが上から落ちてくるのが見えた。
(あ、あれは―――)
闇の中でも不思議とはっきりと分かる。深い茶色をした、長方形の小さな箱。
見覚えのあるそれに向かって咄嗟にスマホを持った手を伸ばしたけれど、触れた指先が微かに革の感触を感じ取っただけで、掴むことは出来なかった―――が、すぐに反対側から伸びた大きな手が、箱をしっかりと掴んだ。




