①
カツン、カツン、カツン……
冷たい音が一定のリズムで響くのは、薄暗い階段だ。
あと、どれだけ降りればいいんだろう。いくら目を凝らして先を見ようとしても、真っ暗で終わりが見えない。
カツン、カツン、カツン……
いつもより遠い足元では、膝をすっぽり隠してしまうほど長い白衣が、リズムに合わせて揺れている。
いつの間にこんな格好に着替えたんだろうと考えようとして……いや、いつもこんな格好をしていたから、どこも不思議ではないな、と思い直す。
それよりも気になるのは、両手に謎の液体が並々と入った、コップを持っていることだ。
暗いせいで液体の色は分からない。中身が知りたいという細やかな意識など無視して、俺の身体はひたすら液体をこぼさないよう慎重に階段を降りていく。
それほど危険なのか…もしくは、大事なものだろうか?
「〇〇、どこに行くんだ。」
カツン、カツ……
突然、背後から名前を呼ばれて立ち止まる。
振り返ることなく、俺の唇は動いた。
「あの子達のところに。たまには、こういうのも良いかと思いまして。」
「手に持っている物はジュースだな?…そんなものより成長に必要な、飲むべきものがあるだろう。」
「これだって無駄ではありませんよ。適度な刺激を与えるように、と言ったのは貴方ですし―――少なからず効果は出ているかと。」
「ほお。例えば?」
「そうですね、ある子は……今まで見向きもしなかったモノに興味を示し始めました。花や虫、食べ物や、四季について話すこともある。これもまさに、今回のリクエストなんですよ。」
俺がコップを軽く持ちあげて見せると、俺の後方にいる人物がフッと笑う気配がした。
「例のおねだりか。最初に聞いたときは、一体何が起こったかと思ったがね。珍しく子供らしさを感じられたものだ。」
「……そうですね。そうだ、貴方も一緒に行きませんか。きっと喜びます。」
「いや、私はこれからすぐに出る。いつも通り、後のことは頼んだぞ。くれぐれも慎重にな。」
念を押すようにそう言ったのが最後、声ではなく足音が響き始めて―――声の主は、どこかへ行ってしまうようだ。
音が遠のき、完全に気配が消えたのを確認した俺の口からは、勝手に溜息が漏れる。
「おねだり1つで子供らしい?俺の娘があのくらいの歳だった時は、とんだワガママ姫だったぞ。
……それに、あの子らは貴方が思ってるよりもずっと子供だ。大人が勝手な尺度を乱用するもんじゃない。」
ボソボソ呟くように放った言葉は狭い階段に反響して、自分自身に降りかかる。
それを払い落とすように頭を軽く振ったあと、俺は再び階段を降り始めた。―――が、3段ほど降りたところで、突然足場が消失したではないか。
「!!」
悲鳴をあげる間もないまま、無限の暗闇に吸い込まれるように落ちていく。コップが手から離れ、白衣がはためき、ポケットからペンやら紙やらが次々と飛んでいく。
さらに身体がひっくり返り、頭が下になると、胸ポケットからも何かが滑り落ちた。
(あ、あれは―――)
闇の中でも不思議とはっきり分かる。深い茶色をした、長方形の小さな箱だ。
見覚えのあるそれに向かって咄嗟に手を伸ばしたが、触れた指先が微かに革の感触を感じ取っただけで、掴むことは叶わなかった。
あっという間に見えなくなった箱を追いかけるよに、俺の身体も落ちて、落ちて、落ちていく――――
◆◆◆
「―――っ、…あれ……?」
しょぼしょぼ滲む視界の中、ベッドの天井に向かって伸ばされた自分の手をぼんやり見つめる。
……えーっと、なんで俺は手を伸ばしてるんだっけ。
うまく力が入らない手を握ったり開いたりしながら、生ぬるい感覚を辿っていると、視界の端から赤茶の頭が飛び出してきた。
「起きたか日野。」
「…いぬかい。おはよう。」
「お早う。急に手を伸ばすから驚いた、何か夢でも見てたのか。」
「夢は……ああ、俺のポッケから…先生のシガレットケースが落ちてさぁ……ぬん…」
「ぬん?…おい、寝るんじゃない。また遅刻するつもりか、今日は米山に会いにいくんだろう。」
「―――はっ!そうだった!!」
米山君の顔を頭に思い浮かべた瞬間、一気に目が覚めた。
急いでベッドから降りると、ローテーブルの上にはノートや教科書が置いてある。きっと、犬飼が朝早くから期末テストの勉強をしていたんだろう。
時刻は朝の6時半で、カーテンからはまだ熱し切らない爽やかな光が漏れている。昨夜あの場所に立っていた、自分と同じ顔をした…全く別の存在の姿は、今ここにはない。
「陸は?」
「部活。また学校で会おうと。」
「そっか、テスト期間でも朝練はあるんだっけ。ちゃんと起きれたかなあいつ……2人には床で寝させて申し訳ないよ。」
「全く問題ない。布団を持ち込んで正解だったな。」
昨夜ヴィズが消えた後、陸と犬飼はいくら大丈夫と言っても303号室に泊まると言って聞かなかった。
ついには2人とも薄いカーペットの上に転がって寝始めたので、分かったからせめて布団を持って来てくれと逆に懇願したのをはっきり覚えている。
(この季節に床で寝て、万が一体調崩したらマズイもんな。……でも2人がいてくれたから、安心した。)
正直、あんなことがあった後に1人で部屋にいるのは不安だった。上のベッドは空だから、先輩は帰ってこなかったようだし―――それについては、あまり考えないようにしよう。
身支度を始めると、頭がだんだん昨日の出来事を思い出してくる。
『俺』の騒動がまるでついさっきの出来事のような、遠い昔の出来事のような……変な感じだが、クローゼットから制服を引っ張り出しながら、そういえばここに閉じ込められたこともあったなぁと、サラリと思い出してしまうのは中々にやばい。
ついでに転がりながら飛び出た自分の姿も想像してしまい、シャツをビリビリに破いて窓から飛び出したい衝動に駆られる。
「…顔が絶望のチワワになってるぞ。」
「ま、マジ?なんでもな―――犬飼、まだ肩痛いのか?」
振り返って見た犬飼は、肩をぐるぐる回している。確か、昨日の帰り道も同じような姿を見た。
床で寝たのが悪化の原因だったらどうしよう、と思ったのを見透かしたのか、犬飼が先に「違う。俺は布団に低反発マットを付けている。」と謎の解説をしてくれた。
「だが、勉強による肩こりでもないと思う。」
「じゃあ何なんだ?」
「…確証を得たら話す。日野も、腕の調子はどうだ。」
「あ、忘れてた。普通に半袖着ちゃった、着替えなきゃ―――」
………あれ?見下ろした俺の右腕、綺麗さっぱりなんの跡も付いていないんだけど。
「ええっ、ウソだろ?」
右腕をいろんな角度から見直しても、腕を間違えたかと思って左腕を見ても、やはり痣はない。
右腕を強く握るが、昨日まではあった鈍く響くような痛みも感じなくなっている。
「どうした、忙しいな。」
「どどどうしてか分かんねえけど、痣が無くなってるんだよ。犬飼も一緒に見て!」
「消えた?そんな訳が―――……本当に無いな。と、言うことは。」
「っ、なんだよ?」
急に俺の腕から顔へと視線を移した犬飼は、目を細めてじっと見てくるから居心地が悪い。
「夜中寝てる間に、入れ替わってるなんて事は…」
「何が?」
「日野とドッペルが。」
「ねーよ!俺は俺だっての。証拠はえーっと、」
……やっべえ。痣がなくなったいま、俺が本物だって証明出来るものがないぞ。
俺だけが知ってることを喋ったとしても、それは俺の頭に『種』をまいて情報を集めたヴィズにだって出来る事なのだ。
俺が1人であたふたしているのをたっぷり眺めた後、犬飼の顔は離れた。
「冗談だ。それに、俺にも言えることだからな。」
「犬飼君?分かるように解説してから勉強に戻ってくれ。」
「…俺のこと、女子トイレで会ったドッペルじゃないかと、少しくらい疑った方が良いかもしれない。そう言うことだ。」
数秒考えて―――そうか、と納得した。
犬飼も種をまかれ、ヴィズに化けられた経験があるという点で俺と全く同じなのだ。
「じゃあ、目の前の犬飼がニセモノっていう可能性もあるのか。
…って言われてもなあ、俺すでにトイレで騙されてるし、あれ以上にクオリティが高くなったらもう、見抜ける自信ないよ。」
「何を言う。そこは友情パワァでなんとかしろ。」
「やめて、滅多に使わない言葉をチョイスするんじゃない、ニセモノに見えるから。あとパワァじゃなくてパワーな。」
「それもそうだな。気をつけようぱわー。」
おいおい、語尾が新しいキャラみたいになってるけど、こいつ本当に本物の犬飼で合ってるよな?なんか話せば話すほど自信がなくなるって言うか、本人が俺を罠にはめにかかってる気がする。
「それにしても、日野の痣はどこに消えたんだ。……まさか、治ったとか。」
「まっさかぁ!そりゃ放っとけば良くなるだろうとは思ったけどさ、一晩で治るなんてありえねーよ。ラミアじゃないんだし。」
例えラミアだって、こんなに綺麗に治るのには数日かかるに違いない。犬飼もそれには同意のようで、小さく頷いた。
「そうだな。あのヴィズが関係していると考えた方が、まだ現実的だ。今日、日野の姿で会いに来ると言っていたから、その時にでも聞いてみるか。」
「うん。……あの、さ。犬飼。」
「なんだ。」
再びテーブルの前に座ろうとしていた犬飼が動きを止める。
俺は散々迷って―――昨日から何度も口の中で転がしていた言葉を、ようやく外に出した。
「こんな事になっちゃったけど…大丈夫か?その、お前は弟の事もあるし…無理してないかなって。」
「…ああ、俺の弟がヴィズのせいで目が見えないことか。俺が本当は憎いと思ってるのに、無理してヴィズと関わっているんじゃないかと、そう心配してるんだな。」
犬飼は本当に察しが良い。表情が変わらないことを突かれる事が多いが、その分相手の話をしっかり聞き、よく観察し、言いたいことを汲み取ってくれる。
俺が頷くと、犬飼はすぐに口を開こうとして―――また閉じた。思案するようにゆっくり瞬きを繰り返している。
「犬飼?ご、ごめんな、こんなこと聞いて。」
「いや、俺は説明が下手だから少し考えていただけだ。
そして、いつもの様に結論から言うと、俺はヴィズを憎んではいない。…いや、憎んでいた、が正しいか。」
「今は違うのか?」
「ああ。理由は……俺の弟がヴィズを憎んでないからだ。あいつは自分を不幸だと泣く事は無いし、その原因を呪うこともない。いつだって前を見て生きている。」
犬飼はふとテーブルの上に転がっていた小さな袋をつまみ上げる。昨日ヴィズがクッキーを食べ散らかした後の残骸だ。
「―――だから俺達家族も、そんな弟の前でいつまでも騒いだり、憎んだりするのはもうやめた。俺はただこの先の将来で、あいつの目を治す事を考えるだけだ。
ヴィズは恐ろしいし災いの元だが、見方を変えれば無限の可能性を秘めている。今の俺にとっては興味深い存在だな。」
「そうか……すごい、強いな。」
犬飼も、弟も、家族も―――本当は何度も苦しんだはずなのに、前を向いて歩こうとする心の強さと言ったら。
それに比べて、俺は…
(俺は、前を向いて歩けているだろうか。たまに、まだあの公園から出られてないような……そんな気持ちになるんだ。)
綺麗になった右腕の半袖シャツを捲ると、肘上に薄っすらと小さな傷が見えた。
あの日から変わらない、俺のトラウマの爪痕。
……どうせならこれも一緒に、消えて無くなれば良かったのに。




