⑫
―――重い扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
物音1つしない空間の中、暗闇に目が慣れてくると、部屋の隅で動く小さな影を見つけて近づく。
「またこの部屋にいたのか。調子はどうだ。」
ん、なんだこの低い声は。俺が喋ってるはずなのに、出た声は知らない男の人の声だ。
「……ふつう。」
返ってきたのは子どもの高い声……だけど、大人みたいな冷静さを帯びた声だった。
俺の視線は部屋に1つだけある小さな窓に移る。
「今日もカーテンは開けてないのか。外はいい天気だぞ。」
「そんなことしたら、まぶしくて目がつぶれちゃう。あと、もう少し小さな声でしゃべってよ。」
「そうだな、悪かった。今日はどうして遮音のヘッドホンしてないんだ?……ああそうか、あいつが外に出てるからか。」
いま何時なんだろう。分厚いカーテンからは少しも光が漏れてないから、外の様子は分からないけれど、子どもの『まぶしくて』という言葉を聞く限り夜ではない。
……でも逆に、夜でもないのにこんなに真っ暗な部屋にいるのか、この子は。
「ごめんな。お前も連れてってやりたいが、もう少し我慢してくれ。」
「僕のことはいいよ。ここで聴いてるだけでも楽しいし。」
「まさか…聴き分けてるのか?ただ聴こえるってだけでも普通は発狂してるぞ、いますぐヘッドホンを付けなさい。」
大きい声を出さないように気をつけながら、諭すようにそう言ったけれど、子どもが動く気配はない。
「だって心配だし、あいつも気づいてるよ。…そうだ、『タンポポ』って知ってる?」
「タンポポ?知ってるけど、それがどうした。」
そう聞いてから、僅かに違和感を覚えた。……この子どもは花の名前などに興味があっただろうか?
「タンポポって小さいけど太陽みたいに黄色くて、大人になると白くなって空を飛ぶんだって。それホント?」
「あー、そうだな。絶妙に合ってるけど、誰が言ったんだ?そんなの。」
質問に対しての答えの代わりに、小さく笑う声がした。
「やっぱりそうなんだ…!そっかぁ、僕も見てみたいけど、太陽みたいに眩しかったらどうしよう。」
「花は光ってないから大丈夫だ。……ふむ、興味があるなら、今度図鑑でも持って来るか。」
「ほんとに?ありがとう。」
本当は『本物を見せてやろう』と言いたかったけれど、それが出来ないのが歯がゆい。子どもも分かってるからこそ、何も言わないんだろう。
(なんでだよ、そんなの俺が摘んできてあげるのに。―――って、あれ、俺いま何してるんだっけ?『この人』は俺じゃない。『この子』は……誰だ?)
そう思った瞬間―――急に足元がふわりと浮いた。もがこうにも動かない身体は上へ上へと上昇し、頭が黒い天井を突き破る。
そしてついに、空気が抜けた風船のような勢いで、俺の身体は部屋の外へと投げ出されてしまった。
◆◆◆
―――ミンミンミンミンミン……
霧の向こうから聞こえてくる音が、ゆっくりと近づいてくる。
まだ眠い…まだ寝ていたいのに、それが蝉の声だということに気がつくと、自然とまぶたが持ち上がった。
「………暑い……。」
朝とは思えない程もったりした暑さのせいで目覚めは最悪だ。起き上がる気力など無く、寝転がったまま汗ばむTシャツをパタパタあおぐ。
こんなに暑いのに、どうして俺はカーディガンなんか着てるんだ?腕に張り付いてうっとおしいそれを脱ぐと、右腕に紫色の痣が現れて―――一気に昨日の出来事を思い出した。
(あ、そうか。昨日は色々あったうえに、いきなり寝ろって言われてマジで寝ちゃったんだ。なんか変な夢見てた気がするけど……なんだったっけ。)
暑さと眠さで重い身体をどうにか起こし、エアコンのリモコンを手に取る。リモコンの画面で設定温度を確かめようとしたら、その下に表示された『9:40』という数字が目に入った。
「くじよんじゅっぷん……って9時40分んんん!?」
叫びと一緒に眠気など吹き飛んでく―――嘘だろ、もう1限始まってるじゃん!!!!
(アラームかけてなかったぁ!1限始まってるっていうか、着く頃にはもう2限が始まってるじゃん!)
2限目・古典の担当である通称『お爺ちゃん先生』は穏やかな人だが、遅刻や欠席にとても厳しいのである。こうなったら遅刻してでも出席して、謝り倒すしかない。無断欠席よりかは多少マシだろう。
(先輩はいないし、たぶん夜に出かけたっきり帰ってないやつで……そういえば犬飼とスズメから連絡きてないな?いつもなら、遅刻する前にすぐメッセージが飛んでくるのに。)
制服の裾につまづいたりしながらも猛スピードで身支度を済ませると、寮を飛び出す。
玄関から1歩出た瞬間、突き刺すような日光に目が眩む―――コンディションは最悪だけれど、俺の全体力を費やしてこのまま走り続ければ、なんとか2限開始後早々に着けそうだ。
「……ん?」
学園の校門をくぐり中庭に駆け込んだ時、甘ったるい匂いが鼻先を掠めた。何の匂いだろうか?菓子のような、蜜のような……花のような。
(そうだ、花っぽいんだ。昨日の花壇で嗅いだみたいな……この辺にもあるし、そのせいか。)
相変わらず広すぎるこの中庭は、グラウンド前だけじゃなく校門から走って来た道全てに花や木が綺麗に植えられている。残念ながらそれを鑑賞している時間はないので先を急ぐが、また米山君を思い出すと胸がチクリと痛んだ。
(出来ることなら、また花のこと教えて欲しいな。)
静かに花を見ているときの米山君は、少しだけ顔色が良かった気がするのだ。
「はー、つ、ついたぁ……おえ…。」
息も絶え絶えとはまさにこのこと。マジで疲れた、今朝だけで一生ぶん走ったんじゃないか?
1年生の教室がずらりと並ぶ廊下で汗を拭い、息を整えていると、扉の中からは先生や生徒たちの声が微かに聞こえてくる。
……なんだかポツリと立ちつくす俺だけ、違う世界にいるような気分になってきた。
(この空気でドア開けんの?ガラガラ音立てて?め、めちゃくちゃ入り辛いんですけど…!つーか前と後ろ、どっちの扉から入るべき?)
前からガラガラか、後ろからガラガラか……ああもう、どっちも変わんねーよ!悩んでても仕方ない。全ては遅刻した俺が悪いんだから、素直に前から入ってすぐお爺ちゃん先生に謝る、これで行く!!
「……っ、お、遅れてすみません!」
扉をスライドさせると、案の定クラス中の視線が一斉に俺に集まった。
下げた頭を恐る恐るあげてみれば、教卓のお爺ちゃん先生は俺の顔をじっと見た後、ゆっくり名簿を開く。恐らく俺の名前を確認してから、出席簿に『遅刻』と記入するんだろう。いやもしかしたら、授業に出る資格は無いから出て行けって言われる可能性もあるぞ―――恐怖で堪らず生徒側に目を向けると、最前列のスズメと目があった。
「……?」
口が半分開いてるスズメは、何度も瞬きしながら俺を見て、後ろを振り返ってを繰り返している。
スズメ、なにやってんだ?俺が遅刻したことに驚いてるのかな……でも、俺が登校してないことは1限で分かってるだろうに。
『どうしたの』と口パクしようとしたら、お爺ちゃん先生が先に口を開いた。
「日野 秋人君。」
「は、はい!すみま…」
「戻って来たってことは、出席出来そうなのかね。」
「…はい?」
名簿を閉じたお爺ちゃん先生は、皺が目立つ手を動かして次に出席簿を開いた。
「10分オーバーだけどまぁ、出席に変えといたげるから。早く席に座りなさい。」
「…は、はい…ありがとうございます。」
―――えっと、どういうことだ?
よく分からないことを言われた気はするけど、怒られなかった。これはつまり、遅刻を大目に見てもらえたって事でいいんだよな?
(マジで?奇跡すぎる、ダッシュで来て良かったぁ…!)
クラス中の視線を掻き分けて席へ行くと、机の上には引き出しに仕舞っていたはずの古典の教科書やノートが準備してあった。
ひとまず席に着き、お爺ちゃん先生がゆっくり黒板に文字を書き始めたのを見計らって、右隣の犬飼に声をかける。犬飼も同じ気持ちだったのか、隣を見た瞬間から目が合った。
「おはよ、これ犬飼が用意してくれたのか?」
「……いや。」
「じゃあ誰が?」
「誰がって、」
「ねえねえ日野、半袖から長袖に着替えて来たの?」
犬飼が喋り終わらぬうちに、今度は左隣から佐々木さんが話しかけて来た。
腕の痣を隠そうにも、昨夜寝てる間にカーディガンが汗まみれになってしまったので長袖シャツを着て来たのだが、そんなに気になるのか?夏でも半袖じゃなくて、長袖を捲って着てる生徒は多いのに。
「着替えてっていうか、最初から長袖で来たけど。」
「どゆこと?さっきまで半袖だったじゃん。」
「さっきまで?…俺が今来たとこ、見てたよね?」
「見てたけどさぁ。え、寝ぼけてんの?だってそこで1限受けてたじゃん。」
「 ―――へっ? 受けてないけど。」
「?」
「?」
「コラ、やかましい。静かにしなさい。」
飛んで来たお爺ちゃん先生の声に、「?」のぶつけ合いを繰り広げていた俺たちは慌てて口を閉じる。
いつの間にか黒板いっぱいに書かれた文字を、消される前にと急いでノートに写し始めたものの、先程のやりとりがイマイチ腑に落ちない。
…佐々木さんは一体何を言ってんだ。寝ぼけてるのはそっちじゃないのか?ここで1限を受けてたって言われても、その時間はまだ寝てたし。どう考えても無理だろ。
(それで結局、教科書を準備してくれたのは誰だったんだっけ?)
再び先生の目を盗んで右隣を見ると、もう犬飼はいつもと変わらず背筋を伸ばして前を向いていた……が、シャーペンを持っていない左手で、机の引き出しから何かを半分引き出している。
俺に見えるように傾けられたそれは、英語の教科書だ。なぜ英語?と首をかしげる間も無く、続けて犬飼の指は俺の机を指差した。
(俺に英語の教科書を見ろって言いたいのか?なんで……あ、確か1限は英語だったな。)
犬飼の意図は謎だが、とりあえず示された通りに引き出しの中を探る。バレないようにそっと机の上に乗せた英語の教科書は、特段変わった様子はない。
表紙を眺めてから適当にページをめくってみる。すると、あるページに小さなプリントが挟まれていた。
―――これは、毎回授業開始と同時に行う英単語の小テストのプリントだ。
5分間で解いたあとに隣の席同士で交換・採点し、返却するシステムで、春から犬飼の採点をしているが100点以外書いたことがない。
よって、このプリントには嫌という程見覚えがある。……ただ、教科書に挟んだ覚えはないし、更にもっと大きな問題はその内容だった。
(なっ、なんだこれ字汚なっ!名前欄のとこ『ひの あきと』って……しかも白紙で0点!?)
思いっきりひらがなで書いてある名前は、文字の間隔や大きさがバラバラなうえに、『あきと』の『と』がひっくり返っちゃっている。
…まるで、幼稚園児が見よう見真似で書いた文字みたいだ。その横に犬飼の綺麗な『0点』の筆跡があるせいで、異様なアンバランスさを放っている。
(実施日は今日の日付けになってるってことは、1限でやった小テストか。……まったく、誰だよこんなお茶目なイタズラしたの。俺だって流石に自分の名前くらいは漢字で書けるよ。)
―――そう、イタズラ。これはきっと、遅刻した俺をからかおうとしてやったイタズラに違いない。恐らく謎の発言をしていた佐々木さんと、採点をした犬飼はグルなんだろう。
(もしかして、他にもあったりして。ノートとかさ。)
口元が緩みそうになるのを押さえながら、今度はノートを開いてみる。すると、大きなひらがなが、贅沢にノートの3行分を使って書かれていた。
『じよん は さつかあ を していました』
(じよん って、もしかしてジョン?さつかあ は……サッカーか!)
教科書を遡ると確かに、少年ジョンが友達とサッカーをしているイラストと、その英文・和訳が載っているページがある。でも、今やってる授業の範囲とは関係ないので適当にチョイスされたんだろう。
『じょん は さっかあ を していました』
『じょん は さっかー を していました』
『ジョン は サッカー を していました』
(なんか、だんだん上達してるし……。せめて英語の授業なんだから、英語の練習しろよ。)
一見、同じ文章が繰り返し書かれているだけのように見えるが、文章も字も上手くなっているではないか。
こんな手の込んだイタズラするなら、ついでに今日の板書をしてくれてたら嬉しかったなあ、なんてボヤきつつ読み進める。
次のページをめくると、字の体裁がなんとなく整うと同時に、文章が1行に収まるようになってきた。
『わたしわ ひのあきとです』
『わたし わ 日の あき人 です』
『わたし は 日の 秋人 です』
『私は 日野 秋人 です』
唐突に俺のシリーズが始まったようである。ジョンはもういいんだろうか。
『秋人 も サッカー を していました』
(まさかのジョン応用!?…ってか、俺がサッカーしてたことよく知ってたな。犬飼かスズメ情報か?プール掃除の時に言ったような気がするし。)
……さて、いたずらノートを楽しむのもいいが、いい加減俺もお爺ちゃん先生の板書をしないとマズい。
最後に、一体何ページ分イタズラされたかを確認するために2.3ページほど捲ってみると―――教科書のように美しい文字で綴られた文章が目に飛び込んで来た。
『秋人が学園に来たので帰ります。隣の人が警戒しているように感じます。次は別の人で試してみようと思います。』




