⑦
(おお、思ったより涼しい。)
非常階段のドアを開けたら、思った以上に風が吹き込んできた。夏空の下でも大半が日陰になっているせいだろう、全体的にコンクリートのひんやりとした空気が漂っている。
なんだ、図書室がある反対の棟までの近道で通ろうと思っただけだったのに、涼しいし静かだし空が綺麗だしで結構な穴場じゃないか。
踊り場であくび混じりに大きく伸びをすれば、さっきまで胸に渦巻いていたモヤモヤも空に吸い込まれて消えてしまいそうな、そんな気までして―――
「……ん?」
―――そして、風に混じって薄っすらと、ほろ苦い香りが鼻をかすめた。
(この匂いって、まさか。)
気のせいかとも思ったが、やっぱり嗅いだことのある匂いだ。
どこから漂ってきたんだろうか、塀に手をかけて下を覗き込んだり、辺りを見渡してみるけれど誰もいない。
(下でも横でもないってことは……上の階か?マジかどうしよう。)
反対の棟へ行くための渡り廊下は、1つ上の階にしかない。よってこのまま非常階段を登って校舎内に入りたいのだけれど―――上に居るかもしれない『誰かさん』は、この匂いから想像してあまり出くわしたくないタイプ……その、不良チックな人なんだろうなーと思う。
ならば来た道を戻り、校舎内の階段で移動すればいいのだが……校舎内の階段まで行くためには一旦、1年教室前の廊下を通らないといけないのだ。
(事実上サボってる身だし、教室前は通りにくいこと山のごとし…!よし、こっそり登って覗いてみて、ヤバそうな人だったら止めよう。)
覚悟を決め、そろりそろりと慎重に階段を登る。息をひそめながら制服の生地が擦れる音も立てないように―――って、どこぞのスパイにでもなった気分だ。
なんだか園田先生と倉庫の陰から、陸と結城先輩が話す様子を覗き見した時を思い出すな。
……そういえばあの時も先生からは、今と同じほろ苦い香りがしていた。
(よしイイ感じに登れたぞ。さて、誰がいるかなっと……。)
階段の折り返し地点まで登ったところで足を止め、壁からそっと頭を出してみる。
もう半分の階段が続いている先には踊り場があり、やはりそこには人影があった。
塀に肘を付き、外を眺めている後ろ姿に目を凝らすと、予想通りその手には細い煙を上げている嗜好品が見える。
……思った通りだ。でも同時に、予想外のこともあった。
まず1つめに、後ろ姿が全然不良じゃなかったことだ。むしろ塀にもたれていても歪まない綺麗な背筋と、風に揺れる細い黒髪は真逆のイメージを与えてくる。
そして2つめに、人影がこちらを振り向いたことだ。
全く慌てることなくゆっくりと……まるで俺が覗くのを待っていたかのように身体を反転させたその人は、塀の外に向かって静かに煙を吐き出してから俺を見た。
「やっぱり、そうじゃないかって思ったよ。日野君。」
「せっ……」
やっと言葉が出てきてくれたのは、その姿をたっぷり5秒間眺めた後だった。
「せ、せせ瀬谷先輩!?ウソ、だってそれ、」
「うん、コレね。あはは、見つかっちゃったね。」
階段上に立つ人影…瀬谷先輩は、手に持った煙草を隠そうともせず笑う。そして、驚きのあまり一歩も動けずにいる俺を手招きした。
(どこの不良かと思ったら瀬谷先輩って、マジかよ信じらんねえ…!瀬谷神様タバコ吸うの!?)
とりあえず招かれるままに踊り場へ立てば、先輩は煙草の火を消しさえしなかったものの、俺から遠ざけるかのように持ち替えた。
「なんか懐かしいな、入学したての頃もここで話したよね。」
「そ、うですね…。」
また視線を外へ向けた先輩の横顔は、陰の下でもパーツ1つ1つが細く柔らかい線を描いているのが分かる。入学式後ここで話をした時から変わらない、綺麗で穏やかな横顔だ。
―――それなのに、俺が知ってる瀬谷先輩とどこか違う気がするのは……単純に煙草のせいだろうか。
意識すると少しの沈黙でも緊張してしまう。先輩の横顔から無理矢理視線を逸らすと、今度は塀の上に小さな箱が置かれているのが目に入った。
深い茶色の革で作られた、長方形の箱だ。……これ、どこかで見た気がするぞ。
「もしかして、園田先生のシガレットケースですか?」
「そうだよ、よく分かったね。」
「前に見たことがあって…ってことは、先生から煙草貰ったんですか?」
「うん。でも今日はちょうど職員室の机に置いてあったから、勝手に借りちゃった。たぶん教頭先生に授業中くらい置いて行けって怒られたんだろうね。」
おいー!先生止めろよ、あんた一応高校教師だろ!!柴田じゃないが、なんであの人クビになんないの!?
それに瀬谷先輩だって見つかったら校則違反で罰則を受けたり女子に騒がれたり…とにかくヤバイはずだ。
「でもこんな所で吸って、誰かに見られたら大変じゃないですか?その…もうちょっと隠したりした方が…。」
「はは、見られてもどうにもならないよ。」
「? どうにもならない?」
「…いや、ごめん気にしないで。そうだね、その通りだし、一応他の人だったら隠してるよ。今は日野君だって分かったから隠さなかった。」
「そこなんですけど、俺結構コッソリ来たつもりだったのに。何で分かったんですか。」
「下の階で伸びをした時の声とか、踏み込む時の靴音とかかな。」
「そんなの聞こえ…しかもよく俺だって分かりましたね!?」
俺からしたら全然声出してなかったし、スパイ歩き(?)してたっていうのによく聞き分けれたもんだ!
にわかには信じられないが、そういえば瀬谷先輩は地上から屋上のバリカン3兄弟の顔を見分けたことだってある。
「もしかして、瀬谷先輩は視力とか聴力の能力値が高いんですか?朝原先輩の運動能力がとび抜けてるみたいに、ラミアの身体能力にも個人差があるって言いますし……ってそうだ、朝原先輩から瀬谷先輩は体調が悪いって聞いたんでした!大丈夫ですか!?」
「日野君、しー。」
あ、まずい。仮にも授業中だというのに、思ったよりデカい声が出てしまった。
慌てて口をつむぐと、唇の前で人差し指を立てていた先輩はにこりと笑う―――けれど、朝原先輩の言葉を思い出したからだろうか、よく見れば笑顔が硬い気がする。それに、目はすぐに伏せられるか、外に向けられるかのどちらかだ。
「す、すみません。俺うるさくしちゃうから、そろそろ場所を移りますよ。」
「俺には気をつかわなくていいよ。むしろ日野君と話してると気が紛れるからさ、もっとここに居てほしいな。」
「いいんですか?……じゃあ、居ます、けど。」
「うん。ありがとう。」
うーん、これ気をつかわれたのは俺の方なんじゃないの?本当にここにいて大丈夫なんだろうか。邪魔じゃないだろうか。……なにしろついさっき、うざいと言われたばかりだというのに。
「どうしたの、考え込んじゃって。なんかあった?」
「えっ、いや何にも。それより体調は…。」
「大丈夫だよ。もう慣れてるから……夏はいつもこうなんだ。」
「夏はいつも?…そういえば、朝原先輩も『そういう時期だから』って言ってたような。それって、暑さが苦手とかそういう事でしょうか?」
かなり単純なことだけど、夏と言われればそれしか思いつかなかった。
夏空の下嬉々としてプール掃除に励んでいた朝原先輩とは対照的に、瀬谷先輩は気怠そうにたびたび姿勢を変えては塀にもたれかかる。
「そうだな……さっき日野君が言ってた通り、視力とか聴力とか嗅覚とか―――感覚が鋭いって言ったら分かりやすいかな?生まれつきそういう風になってるんだ、俺は。」
「感覚、ですか。ということは、この気温も先輩にとっては更に暑く感じていたり?」
「寒さなら着込めばなんとかなるけど、暑さばかりはどうにもならなくてね。
夏は酷い季節だよ……外にいたらすぐに身体が動かなくなるし、日光が眩しすぎて目が開けられない。皮膚がじわじわ焼かれるのが分かって気持ち悪いし、虫の声は煩すぎて耐えられない。」
ゆるやかに頭を横に振った先輩は、これも先生から拝借して来たんだろうか、携帯灰皿にトントンと灰を落としてから再び口を開いた。
「出席日数足りなくなるから学校には来るけど、暑さでやられた後の教室のクーラーは冷えすぎるし、みんなの制汗剤や香水の匂いが混ざり合って―――ってしてるうちに体調悪くして感覚のコントロールが狂っちゃうんだ。」
「そっ、そんなことが起きてたんですか…!?ちなみに、コントロールってのが狂ったらどうなるんです?」
「例えば、目の前の人を見ようとしただけで、背景にある木の葉っぱの形まで見えてしまうし、会話をしようとすれば、学校中の生徒の声が耳に入ってくる……みたいな。
でも、大抵俺が情報量に負けてパンクするから、そうなる前に逃げてくるんだけどね。」
改めて辺りを見渡せば、陽の当たらないコンクリートで囲まれたこの場所を、瀬谷先輩が避難場所として選んだことに納得がいく。
「俺、今までラミアの身体能力のこと、便利そうだし羨ましいって思ってたんですけど……そんなに大変な事もあるなんて知らなかった。」
「あくまで俺の場合はだけど、確かにちょっとした副作用みたいなものだよね。中には、そういう副作用を無理矢理ねじ伏せてるツワモノもいるけど。」
「どうやって?薬とかあるんですか?」
「例えば、コレなんかそうだよ。」
先輩が俺に見せたのは、左手に持っている煙草だった。
俺の抱いていた薬のイメージとはかけ離れた…むしろ身体に悪影響を与えるはずの物体をまじまじと見つめる。
「え?コレって……普通の煙草ですよね。」
「聞いたことないかな、一般的に煙ってラミアの感覚を鈍らせるんだ。この煙草は特に…んー、その成分が強くてね。嫌う人が多い反面、俺みたいに感覚が過敏になったラミアが吸えば薬にもなる。」
昇り立つ煙草の煙を目で追えば、瀬谷先輩と初めて目が合った。
伏せられることも、逸らされることもなく見つめてくる澄んだ漆黒に、心の中まで見透かされてしまいそうで―――なぜか逃げたくなる。なんて、何を考えてんだ俺は。
思わず膝に力を込めたとき、煙草の先から灰が崩れ落ちた。「おっと」と呟いた先輩の目が俺から逸れる。
「そうそう、一応弁解しとくけど。俺は必要な時にしか吸わないし、好きで吸ってる訳じゃないよ。……これで俺の不良疑惑は解けるかな?」
「そそそんな不良だなんて思ってはないですよ!?そりゃびっくりしましたけど!!」
「本当かな?だって忍者かスパイみたいに近づいてくるからさ、少し笑っちゃったよ。息止めるの苦しかったでしょ。」
「あー!やめてくださいマジで恥ずかしいんで!あれが俺の精一杯の諜報活動だったんです!!」
悲しいことに全部バレバレだったんだけどね!
―――でもまあいっか。明るい声で笑う先輩を見てたら、なんだか安心した。さっきの変な感じもきっと、緊張しいな俺の気のせいだろうし……全く、これだからイケメンという種族はやっかいなんだ。
「はあ…少し笑っただけで疲れるなんて。」
ひとしきり笑い終えた先輩はまたゆっくり煙草を吸いながら、空いた方の手で階段に置きっぱなしの勉強道具を指差した。
「ごめんね、俺の話につき合わせちゃって。それ、期末テストの勉強しようとしてたのかな?ホームルームの園田先生、脅しにかかってたもんね。」
「よく知って―――って、もしかしてそれも聴こえてたんですか!?ここからじゃ俺には……ミーンミンミンしか聴こえませんけど。」
「不可抗力だけどね。今はコレが効いてるから、聴こうとしなければ聴こえないよ。」
「それは逆に言えば、聴こうとすれば聴こえるわけで……普段は必要以上に聴こえないように、コントロールしてるってことですよね。」
「うん。煩すぎて聴けたもんじゃないし、俺も頭がパンクするし―――それに『聴こえる』のと『聴こうとする』のって違うんだ。他に気を取られてると、大事な音まで聴き逃しちゃうからね。」
「??」
正直何を言われたのかさっぱり分からない。が、なんだか深い事を言われたような気はする。
「あはは、困ってる。簡単に言えば、今こうして目の前にいる日野君と話してるのが、すごく嬉しいってことだよ。」
「え、えーっと、邪魔になってないなら良かったですけど…そういうのは女子に言ってあげてくださいよ。」
「なんで?俺、前から日野君の声好きなんだよね。聴いてて安心するっていうか。」
「だだだからそういうセリフは…そのスマイルも!こっち向けないで、眩しいから!!」
「え、大丈夫?1本吸っとく?」
「違う日光の話じゃない!感覚鈍らせなくてもアイアムオリジン!!」
「あははは。」
あははじゃねーし!なんなんだよ、オリジンがこんな日陰で眩しがる訳ないじゃん!眩しいのはあなたの王子スマイルなんですけど!?
(しかも絶対わざとだ!あんな恥ずかしいセリフ、冗談でもよく男に言えるよな。俺もうっかり照れてんじゃないぞ!)
ああもう、どいつもこいつも俺をからかいおって。こうなったら無理矢理話を変えてやる……俺もちょうど、先輩に会ったら聞きたかったことがあるのだ。
「……パスワード?」
「はい。結城先輩が考えそうな4桁の数字が知りたくて。」
「へえ!いつの間にそんな面白いことに。」
聞きたかったこととは勿論、着信音の設定をロックしているパスワードのことである。
事のあらましを説明し終えると、先輩はシガレットケースから新しい煙草を取り出して火をつけた―――ちなみに、ライターも見覚えがある銀色だ。
「全然面白くないですよ!この前食堂で携帯鳴っちゃった時なんかすげー恥ずかしい上に、知らない先輩に『えっ、なんでオムライス食べてるの?』って2度見されたんですよ?なんか分かんないけど謝っちゃいましたよ、犬飼が!!」
「犬飼君が謝ったの?はは、なんじゃそりゃ。」
「でしょ!?しかも犬飼はうどん食べてて、湯気で曇るからって眼鏡を外してたから…その、顔が般若で………その先輩は後で『さっきはマジでごめんね』ってこっそりスペシャルラーメンの食券くれました。でも、それも陸が夜食に―――」
―――って、待て待て何の話してんだっけ?話が脱線しかけてるぞ。
スペシャルラーメンを嬉しげにすする陸の姿を頭からもみ消して、奥底に埋まってしまった本題を探り出す。
「えーっと、とにかく、このままじゃ授業中以外もずっとマナーモードだし、俺は電話にすら気づけませんよ。」
「あれっ、ずっとマナーモードにしてるの?」
「はい、目覚ましのアラーム機能とか使った後は忘れてることもありますけど……。」
そういうマナーモードにするのを忘れた時に限って電話はかかってくるのだ。家族や友人ならまだしも、イタズラ電話だったときの憤りはハンパじゃない。
「あー、なるほどね。何となく流れは察したけど、千隼がどんなパスワードにしたかは分からないな。でも1つだけ言うとするなら―――マナーモードにはしなくていいんじゃない?」
「ラーメンなのに?」
「だって勝手に着信音をラーメンでロックされた挙句、それを気にしてマナーモードにしなきゃいけないなんて悔しくない?俺はそういうの、むしろ開き直るべきだと思うな。」
「そっ、そりゃ悔しいですけど!」
俺にはラーメン信者として生きる勇気もラーメン愛もない。それなのに、瀬谷先輩は塀にもたれる身体を起こしてぐっと近づいてくる。
「それに今朝登録したんでしょ、緊急連絡メール。あれはちゃんと気づけるようにしないと。」
「いやぁでも…一応校舎にも防犯システムついてるじゃないですか。ヴィズが嫌いな周波の特殊電波?飛ばしてるってやつ。 」
「確かに、うちのシステム良いやつらしいからね。でもラミアの先輩として、オリジンの可愛い後輩にはちゃんと防犯してほしいんだよ。
…ね?せめて試験期間中だけでもさ。俺のためだと思って。」
「うぐっ、」
先輩の眉が下がり、また澄んだ目に見つめられる。
……これが他の人なら違ったかもしれないが、なにしろ相手は瀬谷神様だ。
まるで、言う事を聞かない小さい子を諭すような困り顔に、だんだん胸が苦しくなってきた。
「……わ……分かりました。」
「そっか!良かった安心した。約束だよ。」
はい負けた、完全敗北だ―――俺がマナーモードを解除するのをきっちり確認してから、先輩は笑顔で頷いた。
(あーもー弱すぎだろ俺、いま確実に自分でラーメンの道を選んだよ!……こうなったら反射を極めるしかない、携帯鳴っても『ズンチャー』で止めれるように、)
「そうだ日野君。」
「うぁい!?な、なんでしょうか。」
「ここ数日、聴こえてきた音の中にさ……」
続きの言葉を待ったけれど、先輩の口から出たのは煙だけだった。
「先輩?」
「…ごめん、何言おうとしたか忘れちゃった。ところで犬飼君は元気?」
「犬飼?はい、元気というか相変わらずマイペースですよ。」
「そっか。ならいいや、あまり勉強しすぎて体調崩さないように伝えといて。」
「はぁ、なんで……あっ、もしかして今朝のホームルームの事と関係ありますか?」
この時期は特に、勉強のストレスが起因となってヴィズが出現する可能性が高まるという話だった。だから、瀬谷先輩は勉強家の犬飼を心配してるんじゃないか?
「まあ、それもあるけど。でも犬飼君ってメンタル強いからあまり心配してないって言うか……怖いのはヴィズばかりじゃないからね。」
「それってどういう―――」
「あっ、千隼だ。見て日野君、ほらあそこ。」
口を無理矢理閉じて先輩に言われた方向を見れば、俺が行くはずだった反対側の棟の廊下にいくつかの人影が確認できる。
「結城先輩……いるんですか?あの米粒サイズの集団の中に。」
「いるよ、ほら後ろの方の米粒がこっち見て―――はは、嫌そうな顔した。千隼煙草嫌いなんだ。」
棟に向かって軽く振っていた手を止めると、先輩は何かを思いついたように俺を見た。
「そうだごめん、煙の匂い制服に移っちゃったかも。」
「そうですかね、俺は分からないですけど。ちょっとくらい平気ですよ。」
「だといいんだけど。とりあえず先に謝っとくね。」
「そんな、本当に大丈夫です。」
瀬谷先輩は律儀な人だな。腕を嗅いでみたが特に匂いはしないし、仮についたとしても気にしないのに。
―――なんて、その時はどうして『先に』謝られたのかは分かっていなかったのだった。




