⑤
―――人は見かけによらず、という話を蒸し返すわけじゃないが、夏という季節も2面性を持っていると俺は思う。
例えば夕暮れになると、昼間の照りつけるような輝きはどこへやら。辺り一面がオレンジ色に染みわたる。さらには蝉までもが、まるで空気を読んだかのように選手交代をして『ミンミンミーン!』から『カナカナカナ…』へBGMを変えるものだから、いつもと同じ寮までの道を歩いているだけなのに、どこかしんみりとした気分になる。
しかも、プール掃除で全身が疲労状態の今なら、なおさらだ。
(はーあ……つっっかれた。すぐ風呂入って寝たい。勉強したくない。)
ズレ落ちた鞄を肩に掛けなおしたら、腕に重い痛みが走って驚いた。―――おいおい嘘だろ、半日ブラシ作業しただけで筋肉痛なんて、そんなまさかぁ。
クスリと鼻で笑いながらエレベーターのボタンを押そうと腕を持ち上げる。すると、右腕は『どうも私がモヤシです!』と爆笑しながら震えていた。
(マジで筋肉痛かよ!もういい、こうなったら左手を鍛えてやる。両利きとかちょっと格好良いし、右脳も鍛えられるし、急に頭がよくなっちゃったりして……あ、)
鍵穴にうまくささらず弾かれた鍵が、左手から零れ落ちた。おまけにそれを取ろうとしてかがんだら、太ももが痛んで「うぁー」なんてオッサンのように唸りながら上半身を起こす。
―――ああ、こんなんじゃ若者として情けないぞ高校生!せめて最後にシャンと立とうと勢いをつけたら、ドアノブで頭の右側を強くぶつけてフィニッシュした。
「ぬぁー死んだ!俺の右脳速攻死んだぁ!筋肉痛って負の連鎖しか生まない!」
「うるっせーな、廊下で騒ぐな暑苦しい。外で蝉と仲よくぬぁぬぁわめいてろ馬鹿。」
「!」
内側からドアが開けられるや否や、流れるような罵倒が頭の上に降り注いだ。
声の主は、その整いすぎた顔を見ずともわかる。
「あーでも、今の時間は蝉よりもお前の方がうるさいかもな。」
「……俺は蝉以下ですか。結城先輩。」
「違うんならさっさと入れ。ホラ。」
おかしいな、ここ俺の部屋でもあるのにな?……でも、これ以上何か言って本当に締め出されてはたまらないので、大きく開けられたドアの中に急いで入る。
「あー涼しいー。」
暑い場所から冷房が効いてる空間に入った瞬間の、ひやっとする感じが結構好きだ。
クーラー万歳!天国天国、と心の中で呟きながら学習机の上に鞄を置くと、隣の机の上に参考書やノート(いつ見ても何が書いてあるのかさっぱり分からない)、お茶が入ったコップが置かれているのが見える。どうやら先輩は勉強をしていたらしい。
(そんで、端っこに積み上がってる箱と袋は女子達からのプレゼントだな。また増えてないか?)
詩織さんが言っていたことは本当のようだ。どれも開封された様子は無いけれど、ラッピングからして気合が入ってる感じがする。プレゼントもオーラって放てるんだな……なんて、あんまりガン見してると不審に思われてしまう。
「えーっと、俺プール掃除で汗まみれなんで先にシャワー使ってもいいですか?」
「それは別にいいけど、その前になんか言うことあるんじゃねーの?」
「……言うこと?」
俺、何か先輩に言わなきゃいけないことあったっけ?
心当たりの無さに首をひねりながらも、記憶の引き出しを手当たり次第引っ張ってみる。
すると、真っ先に出てきたのは―――
「今日こそパスワード教えてください。」
「却下。」
「却下ってなに!?人の着信音勝手にラーメンにしといて!」
「だから前も言っただろ。俺はちゃんと確認したって。」
「熱出して倒れてる奴にした確認なんて、確認じゃないですよ!」
そう、これはあくまで結城先輩曰くの話だが……入学式後に熱を出したあの日、先輩は寝てる俺に『確認』をしたらしいのだ。
その内容を俺的イメージで説明すれば、『同室者の連絡先を交換する決まりになってるから、番号登録しとくわ。ついでに着信も変えとくけどいいよね?おっしゃ、ラーメンにしたろ(笑)』って感じだ。
ちょっと口調が迷子になってる気はしなくもないが、実際も大体こんな流れだったに違いない。
俺の抗議を特に気にする様子もない先輩は、冷蔵庫から作り置きのお茶を取り出しコップにそそぐ。中の氷が揺れて涼しい音を立てた。
「でも、お前ちゃんと返事してたぜ。」
「『はい』って?」
「『うーん』だったかな。」
「そっ…!」
それ返事じゃなくて唸ってんじゃねーか!完全に熱にやられてるヤツだよ!つーか平常時でも迷ってる時にする返事だと思うけど!?
言いたい言葉は次々と浮かんでくるが……抑えろ俺。ここで言い合いになっては話がまた進まなくなる。
「ど、どうしても教えてくれない気ですね?だったら……せめてどんな数字にしたかヒントくださいよ。」
「ヒント?」
「はい。まさか適当に入力したわけじゃないでしょう?」
…とか言って、実際は適当な数字を入力した可能性の方が高いんじゃないかと思ってるけど、なにも手掛かりがない今、賭けに出るしかない。
ソワソワする気持ちを懸命に抑えながら様子を伺うと、腕組みをした先輩は2、3度長い睫毛を瞬かせた。
「……まあ。一応。」
「…!だったら、」
「でもバターには絶対当てられないから諦めろ。つーかヒントとか特に思いつかねえし。」
(俺に当てられないということは、やっぱり数字と俺は関連してないってことか?)
当てられる可能性はその分低くなったような気がするけど、適当に入力したのでないならチャンスはあるはずだ。もらったヒントを元に、朝原先輩達に聞けばいいし……ここで諦めて適当に入力し続ける、地獄の作業に戻るのは避けたい。
「で、でも、突然閃くかもしれないし?何でもいいから教えてください。」
「だから閃くわけ………いや、でもそこまで言うなら、日野ちょっとこっち向け。」
「は、はい。」
「そんで俺のこと見ながら、とにかく絶対パスワード当てるって思ってろよ。」
「えっ?教えてくれるんですか?」
「いいから早くしろ。」
どういう心境の変化なんだろうか?突然ヒントをくれる気になったらしい先輩はそう言ったが最後、真剣な表情で俺を見てくるから、俺もひたすら先輩を見あげる。
「…………………。」
―――1分は経っただろうか。窓を閉め切った部屋でも、俺たちが完全に動きを止めれば、遠くから蝉の泣き声がうっすらと聞こえてくる。
(……え、ずっとこうしてるだけ?ヒントは?)
そう思ったのが顔に出てしまっただろうか、それとも空気を通して伝わったんだろうか。先輩の眉が少し顰められたのを見て、慌てて邪念を打ち消す。
(危ない危ない、やっぱりやめたなんて言われてしまいそうだ。雰囲気からして、先輩は俺をからかってる感じじゃなさそうだし…言われたとおりにしてみようか?)
こうしてマジマジと顔を見合わせる機会なんて滅多にないから、緊張するというか気恥ずかしいというか……でも、今はそんな事を気にしていられない。こうなったらヤケクソだ!閃け俺の右脳!!
(絶っっ対にパスワード当ててやるからな!もうラーメン狂は嫌だ!)
言われた通りひたすら念を込め、半分睨むように先輩の瞳をガン見する。
しばらくすると、琥珀色に緋色がじんわり滲んできたような、そんな気がして―――
「よし、なんか思いついたの打ってみろ。」
「うぇっ?あ、ハイ!」
パンッと先輩が手を鳴らした音で、シャボン玉が弾けるように我に返った。
言われるがままポケットからスマホを取り出し、思い浮かんだままの番号を入力する。
すると……
「『パスワードが違います』…だそうです。」
「やっぱダメかー。ドンマイドンマイ。」
「いやいやいや、えっ?今の何だったんですか?ヒントは!?」
「今のがヒントだけど。だから無理だっつったろ?」
「ウソだろ!?だって顔見てただけ―――もしかして俺がエスパーじゃないから無理だったとか、そういうのですかね!?」
「はは、何だそれ。まぁしばらくラーメン継続ってことで、そろそろ麺をほぐしてきたらどうですか?」
「なんか俺がラーメンみたいになってるから!普通に『風呂入ってきたら?』って言ってください!」
「あ、茹で上がる頃には俺居ないから。」
「ああそうですか、ご自由にどうぞ!」
む……ムカつくー!ケラケラ笑いやがって、また完全に俺を馬鹿にして楽しんでるなこの人!真面目にやって損したよ!
怒りに任せて着替えやタオルをかき集めると、洗面所に駆け込んで後ろ手にドアを強く閉める。そして、手を洗おうと蛇口に手をかけたとき―――ふと、気がついた。
(あれっ、このパターンいつもと同じじゃね?もしかして俺、毎回同じ方法ではぐらかされてる……?)
………ありえる。実にありえる。
もしそうだとしたら、向こうの思うツボじゃないか。だって今回も結局、なんの手掛かりも得られなかったんだから。
先輩の意地の悪さもアレだが、ついつい流され怒ってしまう自分の学習能力の無さもどうなんだろうか。
(でもさっきはマジで教えてもらえるって思ったのに、睨めっこしただけとかふざけてるよ。あれがヒントとか絶対嘘だよ…な?)
冗談に決まってる。そう思うのに、頭の中には俺を見つめる先輩の、真剣な顔がチラつくのだ。
(ああもう、さっぱり分からん。しかも俺がこんなにモヤモヤしてるというのに、自分は夜のお出掛けですか。どこ行くか知らないけど、楽しそうで羨ましい限りだぜちくしょー。どうぞ行ってらっしゃいませ、だ!)
「……ん?行ってらっしゃい?」
…なんだろう、いま何か胸に引っかかったような。
脱いだ靴下を握りしめ、部屋と洗面所を仕切るドアを見つめる。ドアの向こうではきっと先輩が勉強道具を片付けて、出掛ける準備をしているところでーーー
『その前になんか言うことあるんじゃねーの?』
「…っ、そうか!!」
うわ、俺なんで今さら気づいたんだろう!
思いつくと同時に腕が靴下を放り投げ、ドアノブへと伸びる。勢いよく部屋へ飛び出すと、学習机に座っていた先輩もこちらを振り向いた。
「今度はなに、」
「た、ただいま!!」
「はぁ?」
「あの、帰ってきた時に俺『ただいま』って言ってなかったなって思って!……え、もしかして違いました…?」
先輩は珍しく目を丸くしたまま何も言わない。あまりのリアクションの薄さに、みるみる俺のテンションは下がっていく。
(こ、これは、)
プール掃除の時とよく似たこの空気、これは本格的に間違えたやつではーーーそう察した途端、後悔と羞恥の波が一気に押し寄せてきた。
やばい、今すぐ先輩の頭をフライパンで殴って記憶を消したい。ああでもラミアだし、簡単に避けられるだろうから俺の頭を殴った方が早いかもな、なんて思った時だった。
……柔らかく息が漏れる音がしたのは。
「ははっ、顔必死すぎんだろ……気づくのおせーよ馬鹿。お前が帰ったら挨拶しろって言ったくせに。」
「! えっと…すみません。頭打った後だったから。」
ーーー良かった、合ってたのか!
ほっと胸を撫で下ろしつつ、あの時は右脳をやられた痛みで一杯一杯だったのを思い出す。
……とはいえ、以前先輩に向かって偉そうに『家に帰ったら、ただいまくらい言え!』とか言っておいて、自分が忘れるとは何たる不覚!どうやら俺にはフライパンじゃなくて、ドアノブでも十分に効果があるようだ。
モゴモゴ言葉を濁していると、先輩は俺の頭をちらりと見た。
「ああ、右脳が速攻で死んだんだっけか?馬鹿なのにこれ以上脳細胞減らしてどうすんだよ。しかも期末前に。」
「おっしゃる通りです…。」
「で、今はもう痛くねーのか。」
「えっ?あっ、はい。」
…え、いま何聞かれた?聞き間違いかな?
よく脳が処理できないまま頷けば、先輩も頷いた後に鞄を持って立ち上がった。
「ならいいけど。そんじゃ、俺はもう行くから玄関の鍵閉めといて。」
「あ、ちょ、ちょっと待っ……先輩、『いってらっしゃい』!」
玄関から寮の廊下に出ていく背中に向かって、もつれる口をどうにか動かせば、
「ハイハイ、『行ってきます』」
小さく笑うような声の後に、ドアの隙間から見えた手がひらりと振られた。
◆◆◆
―――キュッ、
シャワーのハンドルを捻ったら、少し力が入り過ぎたせいか随分と勢いよくお湯が降り注いだ。頭のてっぺんから被ると、その強い水圧と大きな音に、テレビで見た滝修行をしているような気分になる。
……いや、『気分』だけじゃダメだ。
もしここが本当に滝だったなら、周りを気にせず思いっ切り叫べたのに。
(あーーもーー!なんなんだよーーっ!!マジで分かんねーよあの人、調子狂うなぁもぉーー!!)
勢い任せにシャンプーをプッシュして頭をガシガシ洗えば、面白いほど泡だっていく。
…ん?そういえばこのシャンプー、もう中身ほとんど無かったはずなのに。もしかして、結城先輩が買って詰め替えてくれたのか?マジか優し…
(って、ちっがう!!だから騙されんな俺、さっきまでパスワードのことで怒ってたじゃん!シャンプーだけで、ちょっと怪我の心配してくれただけで、そんな…挨拶くらいでそんな…)
……でも、少し前までは絶対にあり得なかったことだ。
まず部屋で滅多に姿を見なかったし、居たとしても近寄るなオーラが漂っていたよな。目を合わせて会話するようになったのはいつからだっただろうか…?
振り返ってみれば、最初に変化があったのは先輩が303号室に帰ってくる回数が多くなった事だろう。
今日みたいに出かけたり、気づいたら居なくなってることは度々あるものの、ほぼ毎日この部屋で顔を合わせてるんじゃないだろうか。そしていつの間にかこの部屋に2人でいることも、会話をすることも当たり前になっていた。
(部屋も入寮した時はなんも無かったけど、少しずつ先輩の物が増えてきたよな。)
さっき使ってたコップだったり、歯ブラシやクローゼットの服、冷蔵庫の中身などなど……部屋のあちこちに先輩の物が置かれている。
最近では自然と、節約や物を置くスペースの縮小を考えるようになって、他の部屋のアイデアを参考にお茶をボトルに作り置きしてみたり、シャンプーや洗剤といった消耗品は共有したりしている。
他人と生活するってもっと趣味嗜好のぶつかり合いがあると思ってたけど、今のところそういう事も起こっていない。
(このシャンプーだって、母さんが持たせてくれた激安メーカーのやつだっけ?俺は全然気にしないけどさ、先輩買ったとき値段見てビックリしなかったかな。)
イケメンに激安シャンプーを使わせているという謎の罪悪感を感じる一方で、たぶん本人は気にしてないだろう。前に好きな種類とか香りとかを聞いた時も「なんでもいい」の即答だったし―――先輩って意外に適当というか、こだわりが無さすぎる気がするのだ。
(こうして一緒に生活するようになっても、何考えてんだかさっぱり分かんないや。『まずは相手を知ること』って思ってたけどマジ難しい……こんなんでちゃんと『共存』できてんのか?)
そんな疑問を抱いたところで、正解がどこにあるのか、誰が知ってるのかも分からない。
オリジンとラミア、互いに仲良くしてれば共存?吸血・献血が出来れば共存?それとも―――なんて、不明確すぎて雲を掴むような話じゃないか。
(あんまり考え込んでも意味ないよな。それに、中学の頃の俺からしたら、この現状は大進歩だよ。)
そう胸中で呟きながら見下ろした右腕には、丁度肩と肘の中間あたりに薄っすらと傷跡が残っている。
どんなに消えて欲しくても、相変わらずそこにあり続ける俺のトラウマ。俺がラミアを遠ざけるようになった元凶の証だ。
(でも前よりはこの傷、気にならなくなったっていうか…気にする暇がなくなったのかな。)
相変わらず吸血に対しての抵抗感も変わらないし、相変わらず共存学の実技は出ていないけれど。
相変わらず先輩とは言い合いすることも多いし、まだまだ知らないことばかりだけれど。
でも、そんな『相変わらず』で溢れた日常の中でも少しずつ…確実に変わっているモノもあると信じたい。それはきっと先輩を知ることを選んだ俺だけじゃなく―――この部屋で生活することを選んだ先輩も、だ。
「そんで着信も変える!絶対変えてやるからな!!」
ちょーっと態度が変わったって言っても、あの憎たらしい笑みは相変わらずだ。このままじゃ悔しすぎる、俺の諦めの悪さを舐めないでいただきたい!!




