⑨
陸は小さく唸りながら黒い短髪を掻くと、いつの間にか灰色の雲が混ざる淀んだ空を見上げた。
「ごめん。俺もよく分かんなくて……なんでだろ、久々に懐かしい人と会って混乱してるっていうか―――いや、たぶんずっと矛盾してるんだよな。」
ポツリと陸が呟いたと同時に、その頬に雨粒が1つ落ちた。顔を俺がいる方へ下げれば、水滴はゆっくりと頬を伝っていく。
「矛盾…って?」
「秋人―――俺はたまに、自分がラミアだったら良かったのにって思うよ。」
「え、」
詰まる言葉とは反対に、頭上からは一斉に冷たい雨が降り注いできた。一瞬で耳が雨音に支配され、全身がずぶ濡れになる……まさにゲリラ豪雨というやつだ。
「うっわやべーな!走るぞ!」
「あっ、う、うん。」
陸は立ち尽くしていた俺の手を掴んで走り出す。
一方の俺は―――えっと、今何が起こったんだっけ。頭の中まで雨でぐちゃぐちゃになってしまったのか、思考がうまく繋がらないけれど―――この短時間で出来上がった水たまりを思い切り跳ね上げた時、頭の中に唇を震わせている阿部さんの姿が浮かんだ。
(そうだ、阿部さんも言ってたんだ。自分が反対の種族なら良かったのにって。………陸も?自分がラミアだったら良かったって?陸がラミア?そんなの、)
そんなの考えられない。―――でも、陸は考えていた?いつから?どうして?
「やっと着いた……うおっ、見ろよこれ。すげー水出てくる。」
陸の声にはっと顔を上げれば、いつの間にか寮の玄関先に立っていた。
屋根の下で制服の裾を絞っている陸はいつもと変わらない顔で笑っている。
「…秋人大丈夫?走らせたから疲れた?寒いよな、中入ろう。」
「いや、陸あの、さっきの話、ラミアだったら良かったって、どういう…」
聞くのが怖いと思うのはどうしてだろう。ごくりと勝手に喉が鳴る。
顔を見れずに、陸の手がついに脱いだ制服の上着を雑巾のごとく絞るのを眺める。どっと大量の水が地面に落ちた。
「ん?―――ああ、あれ気にしてたのか。ごめんごめん冗談だよ!」
「…は?冗談?」
「たまにラミアってどんな感じなんだろって思うだけ。……もしかして、雨のせいでシリアスになってた?」
「な…んだよもー!びっくりさせんなよバーカ!!アーホ!!バッタのことカマキリの子どもだと思ってたくせに!!なかなかカマが生えないって悩んでたくせに!!」
「なっ、それ昔の話だろ!なんで今言う!?」
「うるせーお前こそあれで冗談とかマジでなんなの!?ドシリアスだったに決まってんだろ俺の心配を返せ!!」
「ごめんって、足蹴らないで!でも秋人、俺のこと心配したの?」
「当たり前だろ!ラミアだったらよかったなんて、何か深刻な理由があると思ったわ。」
「…………。」
「……えっ、なんでここで黙る?!」
「や……ちょっと思ったんだけど、もし俺がラミアだったらさ、俺たち幼馴染じゃなかったかもね。」
「はぁぁ?」
今度は何を言い出すかと思えば。本当に、どうしちゃったんだ今日の陸。
でも、ふざけてる訳ではなさそうだから、俺も一応想像してみる。
「まあ……種族が違えば幼稚園も違ってただろうし、出会ってはなかったかもな。」
「だよなぁ。」
「でも家が近いんだから街とか、それこそ公園で出会ってたかもよ?一緒に遊んでさ。」
「それは無い。」
きっぱりと言い切られたことに驚いた。陸は次に俺の制服をぎゅっと絞りながら続ける。
「だって力加減が出来ないから、ラミアは一緒に遊べないだろ。もしケガさせたら?それに、血が飲みたくなったらどうする?」
「う……それはそう、だけど、だったらボールとか使わない遊びをすればいいだろ。血液パックを持ってくるとかさ。そういうことさえ気を付けてれば、一緒に遊べないことは無いだろ。」
国の政策として教育機関は分けられているけれど、一緒に遊んじゃいけないなんて決まりは無い。たまたま俺の生活環境がそうだっただけで、他種と一緒に遊んでる子どもは大勢いるはずだ。
「だから、俺はお前がラミアでもきっと友達になってたよ。もしおっさんラミアに会った後だったら……分かんねーけど、それでも高校で友達になってた。絶対。」
「そうかな。」
「そうだよ!でもそれは『もしも』の話で―――お、俺は個人的にお前がオリジンで、幼馴染で本当に良かったって思ってる。」
ああ、普段ならこんなこっ恥ずかしいこと絶対に言わないのに。でも今はちゃんと応えなきゃいけないような、そんな気がする。
「もしお前が居なかったら、俺も今ここに居ないと思うからさ…その…ラミアだったら良かった、なんて言わないで欲しい…っていうか。」
(だって陸がこんなこと聞いてくるなんて変だし、それに俺も…。)
今日は今まで知らなかった陸の新しい一面をたくさん見たからだろうか、なんとなく不安な気持ちになるのはどうしてだろう。
…ずっと一緒にいたはずの幼馴染が、遠くへ行ってしまうような気持になるのはどうしてだろう。
(……なんて、考えすぎ。いつまでも幼馴染に甘えてちゃ駄目だよな。)
胸の重みに耐え切れず俯くと、自分の前髪から雫が地面にポツポツ落ちていく。それを5つほど数えたところで、静かだった頭上から―――小さく噴き出す音が聞こえたではないか。
「……うおーい。人が真面目に答えてんのにさぁ。」
「いやっ…ぶふっ……秋人って、やっぱ秋人だなって思って…。」
「はぁ?俺は俺に決まってんじゃん。カマキリとバッタは全然違うけどな。」
「あっはは!もうやめろってその話は!」
先生も凄かったけど、この幼馴染もなかなかに笑いのツボが浅いのだ。何がおかしいのか大きく口を開けて笑っている。
「なー、マジでどうしたんだよ。お前やっぱ悩みでもあるの?」
「はぁー……いや、今解決したっていうか……俺がちゃんと分かったから、大丈夫。」
「今ので何が分かったって?」
「取り合えず、俺もお前が幼馴染で良かったってことかな。この場所を誰かに渡すのは惜しいし。だから俺は俺なりに頑張ってみるよ……ありがとな、秋人。」
「いや、そんな爽やかスマイルされても全然わかんないんだけど。」
なぜお礼言われたのか謎だが、陸は先程よりずっと晴れやかな顔をしている。もしかしたら、ピタリと止んだ雨雲の隙間から光が差し込んだせいで、そう見えるだけかもしれないけれど。
(と、とりあえず元気になったみたいだからいいのか…?)
俺に言えることといえば―――この優しい幼馴染には悩む顔より、笑顔でいてほしいということだけだ。
◆◆◆
「うー、靴もやられた…気持ち悪い…。」
ぐちょっ―――3階の廊下に敷き詰められたカーペットを踏むたびに、足元から水っぽい音がする。河童か俺は。あんなに豪雨だったくせに、俺たちが寮についたら止むとかアリ?
かじかむ手で303号室の鍵を開ければ、部屋に先輩の姿は無かった。
今日は帰ってこない日なんだろうかと考えつつ、さっき別れ際に陸から言われた言葉を思い出す。
『秋人が平気って言うなら仕方ないけど、もしあの人に嫌なことされたらすぐに言えよ!』
(いやぁ……既に色々あったなんて言えないよな。)
乾いた笑いを漏らしながらシャワーを浴び、ジャージに着替える。
1番問題の制服はどうするか迷った挙句、面倒だけど洗濯することにした。ランドリー室にずらりと並ぶ洗濯機は共同だが、乾燥機付きなのが嬉しい。
さて、洗濯機を回しているうちに急いで向かったのは612号室…犬飼の部屋だ。ノックをすれば、ドアが小さく開かれる。
「…はい。」
「あ、犬飼メガ…ひっ!?」
隙間から除く犬飼は、般若のごとく眉間にしわを寄せて俺のことを睨んでいるではないか。
普段表情筋が死んでいるくせに、どうしてこんな凶悪面になっちゃってんだ犬飼…!?
思わず後ずさりしたら、もっと鋭い目つきになった犬飼が距離を詰めてきた。
「……日野か?」
「えっ?あ゛、もしかして見えてないのか!その顔は見えてない顔なのか!?」
慌てて犬飼の顔に眼鏡をかければ、般若はスッと塩顔男子へ早変わりする。目が悪い人ってみんなこうなの?
「…やっと見えるようになった。」
「なあ、地震の時とか絶対眼鏡落とすなよ?それが無いと生存率大分変わりそう。」
「今度家に忘れたスペア持って来よう。…でも、なぜ地震の話になるんだ。」
「だって放課後に結構長い地震あったじゃん。」
一拍置いて、犬飼は首をかしげた。
「…?なかったけど。」
「なかった?……おかしいな、学校の方は結構揺れたんだけど。こっちはあまり揺れなかったのかな。」
地震の揺れる範囲が狭いってことあるのかな。それとも寮が頑丈なうえ、階層によって感じ方が違うとか―――まぁいっか、揺れなかったならそれに越したことはない。
「あとそうだ、あれから掃除任せちゃってごめんな。」
「いや。俺も全然見えなくて羽賀に手を出すなって言われたから、任せっきりだった。…で、幼馴染の方は解決したのか。」
「うーん、なんとなく解決した…のか?本人はそう言ってたけど。」
「そうか。良かったな。」
そう言って犬飼は眼鏡を押し上げる。
……俺の気のせいかも知れないけど、眼鏡を掛けてからというものの、押し上げる回数がいつもより多いような。
「うん。あのさ……犬飼、なんか話ある?」
レンズの中で僅かに目が彷徨った―――どうやら予想は当たりのようだ。
同時にきゅっと結ばれた口が、数秒後重たげに開かれる。
「……俺の弟の話。話したことは後悔してないけど、2人の重荷になったんじゃないか気になって。」
「えっ?そんなことない、俺の方こそトラウマの話聞いてもらったし……って、ももももしかして重荷になってる!?」
一気に血の気が引くのを感じる―――どうしよう、俺ってば自分のことばっかりで全然そんなこと考えてなかったんだけど!?
「いや、なってない。」
「うっわ良かったぁ!……俺はさ、2人が話を聞いてくれて、一緒に悩んでくれることが本当にありがたいし、逆に話してくれたことを重荷に思ったりなんかしないよ。」
むしろ犬飼は自分のことを話すことは滅多にないから、話してくれたことを嬉しく思うくらいだ。
たかが知り合って1ヶ月だし俺の思い上がりかもしれないけど……信頼してもらえているような、そんな気がして。
「それに、隠さずに相談しろって言ったのはそっちだろ。俺は頭も体力もないけどさ、困った時は全力で力になりたいって思うよ。」
「……そうか、そうだったな…。」
ふっと息が漏れた音がして、薄い唇の両端が持ち上がる。
「今朝日野にはあんなこと言ったが、俺自身になると今まで頼るような友人がいなかったから、よく分からなくて……。でも、今は眼鏡みたいだって思う。」
「め、がね?」
友達が眼鏡ってどういうことだ?ほらまた、答えだけ放り投げるんだから―――いつものように詳しい説明を求めようとしたが、珍しく犬飼の方が先に口を開いた。
「眼鏡をかけたら、今までぼんやりとしか見えていなかった周囲のものが急によく見えるようになる。それは本では知れないことばかりで、俺は手元の文字しか見てなかったことに気づく……日野や羽賀といるとそんな感じだ。」
「それは、犬飼にとって良いことか?」
「毎日慌ただしいけど、1人じゃないのは悪くない。」
「…へへっ、良いって言えよなー。犬飼君ったら素直じゃないんだからぁー。」
「……やっぱりさっきの話は無かったことにしてくれ。」
「ごめん今の冗談だから!だから眼鏡折ろうとすんな、それが無いとお前が般若だし一応俺のラッキーアイテムだし!」
「らっきーあいてむ?」
実に不似合いな単語を口にしながら、犬飼は眼鏡に力を込める手を止めた。
……よ、良かった、ギリギリで眼鏡真っ二つは免れたようだ。あまつさえ俺とスズメを眼鏡に例えた後だというのに、容赦なさすぎるだろ!
さりげなーく手の中から眼鏡を奪いつつ今朝の占いの説明をすれば、俺を睨んでいる般若は「そうか」と呟いた。
「言ってくれれば1日くらい貸した。」
「いやぁ、1日中(お前の顔が)そのままなのは代償が大きすぎてだな。」
「確かに、目が良い人間が眼鏡を使うと逆に視力低下を招きかねないしな。
……それにしても、日野が占いを気にするっていうのは意外だ。」
「そう?我ながらどうかとは思うけど、結構気にしちゃうよ。最近俺の神様、隠居中みたいでロクなことがないし。」
落ち着いたのを見計らって眼鏡を渡すと、眉間の皺が取れた静かな目が俺を見た。
「俺は日野は運がいいと思う。」
「え?昨日屋上から落ちたよ?」
「でも助かった。……そもそも、どんな1日になるかは占いよりも自分の行動次第だろ。屋上に付いて行かなければ落ちなかったんだから。」
「ご、ごもっともです!」
ま、まだ屋上の件を引きずっているようだ。ド正論すぎて何も言えないでいると、チクリと刺すような声色が少し和らいだ。
「ただ、もし転んでも日野は気合で起き上がろうとするし、周りもなぜか手を貸したくなる。―――だからお前の言う神様は仕事が無くて隠居したんじゃないか。」
「えっと……じゃあ、犬飼の言う俺の『運』は――は、はっくしょい!」
予想外のくしゃみをした反動で、首にかけていたタオルが滑り落ちる。
「寒いのか。そういえばなんで頭濡れてるんだ。」
「帰り道にすっげえ雨降って、風呂入ってさ。……あっ、制服洗濯してるの忘れてた!もう終わったかな。」
「なら早く取りに行け。そのままにしておくと雑菌が湧くし、誰かに放り出されるぞ。」
「やけに詳し……あ、掃除の本読んだからだな!そうか、じゃあ途中で悪いけど行くわ。色々ありがとう、また明日!」
「……ん、また明日。」
犬飼に別れを告げ、急いでエレベーターに乗り込む。雑菌も嫌だけど、洗濯物を勝手に触られるのはもっと嫌だ。
―――なぜなら入寮したての頃、うっかり乾燥機に入れたまま忘れていた洗濯物が畳んで置いてあったことがあるからだ。
ランドリー室の真ん中に美しく積み上げられた山の頂点で、パンツが鎮座しているのを見た時の恥ずかしさと言ったら……!!まだ部屋の隅に適当に放り投げてあった方がマシだったかもしれない。
当時の羞恥を思い出して震えたものの、幸運にも俺の制服達は停止した洗濯機の中に残っていた。良かったー、なんて呟きながら次は乾燥機に入れていく。
(あんま時間かからないし、座って待ってよ。これが終わったら夕飯食って、宿題やって……)
壁際の椅子でひと息つけば、自然と大きなあくびが出た。
やばい、このままだと寝てしまいそうだ……けど、ずっと立ちっぱなしだったせいか足が重い。立ち上がりたくない。
(……そうだ、さっきの話。結局犬飼が言う俺の運の良さってのは、周りの人のお陰ってことだよな?)
ぼんやりとした思考の割に、それはストンと腑に落ちた。
―――犬飼の言う通りだ。ピンチの時でもそうでない時でも、俺のことを支えてくれるのは神様なんかじゃない……周りにいるみんなだ。
(つまり、みんなが俺にとっての神様ってことか……ってそれは言い過ぎ?でもヴィズに襲われたり、屋上から落ちた時はもう死ぬかと思ったから、マジで神様と言っても過言では―――)
―――いや、待てよ?ヴィズの時も屋上の時も、俺を助けてくれたのって結城先輩じゃね?
(いやいやいや本気で感謝はしてるけど、あの人が俺の神様ってそんなまさか……ね!)
頭の中に現れた結城先輩に『意味わかんねーし、脳みそ溶けてんじゃね?』と言われ、全力で頷き返す。 そうだぞ俺、なに変なこと考えてんだ。大体それを言うなら、後光が差してて優しい瀬谷先輩の方がよっぽど神様っぽいだろ。
(よし止めよう、これについて審議するのはもう止めよう。それで……そう、俺もみんなに心配や迷惑をかけっぱなしじゃなくて、支えられるような人間にならないとな。)
とはいえ、俺は同じオリジンでも犬飼のように頭がいいわけではないし、犬飼の神様……峰ヶ原さんのようにもの凄い技術を持っているわけでもない平均マン、ただの凡人だ。そんな俺に、何ができるんだろう。
(もしラミアだったら……ああ、今ならちょっとだけ、自分が反対の種族だったら良かったのにって思う人の気持ちが分かるよ。)
でも日野 秋人はオリジンとして産まれたんだから、俺に出来ることを探すしかない。
(誰かの神様になりたいとか大層なことは思わないから。……そうだ、犬飼に『眼鏡』って言われたことは地味に嬉しかったな。)
ラミアと共存したいと思った時みたいに、自分の弱いところも少しずつ変えていければいい。
『どんな1日になるかは占いよりも自分の行動次第』
―――犬飼のこの言葉みたいに、この先俺がどんな人間になるのかもきっと、俺の行動次第なのだから。




