⑫
その後のことはよく覚えてないから、無心でひたすら寮への道のりを歩いたんだと思う。
303号室のドアを開けると、さっきまで居たはずの部屋はいつもと違う雰囲気で俺を出迎えた。
(平日の朝に帰るなんて無いもんな……こんなに静かだっけ。)
取り合えず制服を脱いで汚れ具合を確認したあと、手を洗いに洗面台へ行く。擦り傷があちこちに出来ているせいで動くと痛いけれど、結城先輩はもっと痛そうだったからどうってことない。
鏡を見れば、大きな湿布を左頬に貼った険しい顔の自分が見つめていた。
(………つかれた。)
寝てしまおうと思ってベッドに横になるけれど、時計の秒針がうるさくて全然眠れない。おまけに、目を閉じれば謎の浮遊感に襲われる―――エレベーターに乗った後、まだ落ちている感じがする現象に近い。
(息ぐるしい……何か飲もうか。)
重い身体を引きずって冷蔵庫を開けてみるが、中身は見事に空っぽだ。そりゃそうだ、普段買い物なんてしないし、飲食は食堂でしてる俺は何も入れた覚えがないのだから。
……でもさあ、結城先輩は1年以上いるんだから、何か入ってても良いんじゃないの?
(なんてね、あの人帰って来ないから仕方ないか。)
冷蔵庫の冷気を顔に浴びながら、深く息を吐く―――なんか、どんどん気分が悪くなっていく気がする。寮の食堂に行こうか。でも、こんな時間じゃ誰もいないだろうし、この顔で驚かすわけにもいかない。
(そういえば小さい頃、父さんも母さんも仕事で帰って来ない時はこんな感じだったな。あの頃は公園に行けばたくさん友達が、陸がいてくれたし、たまにあの子がいると……)
頭の中で誰かと一緒にタンポポの綿毛を飛ばしていた俺は、ふと303号室に戻ってきた。
「……やっぱり、やっぱり誰かいたって!一緒にタンポポとか、ダンゴムシとか見て遊んでた子が!………でも、誰だっけ?あんまり公園に来ることはなかったような……。」
必死に手繰り寄せていた記憶の糸は、玄関先に響く足音でぷつりと途切れた。
咄嗟に廊下へ目をやると、鍵穴に鍵を差し込む音がするではないか。
(ま、まさか……!?)
そんなことをする人など1人しか浮かばない。パニックのあまりなぜか咄嗟に隠れようと辺りを見渡したけれど、高速移動するより先に玄関のドアが開かれてしまった。
よって―――ネクタイを外しながら部屋に入ってきた結城先輩は、冷蔵庫に頭を突っ込んでいる俺の前で足を止めた。
「……何やってんの?」
「いや、これはその、奥の方にジュースあるかなーって。あはは……。」
誤魔化し笑いをすれば、開けっぱなしのうえに頭を突っ込まれた冷蔵庫が怒ったようにアラームを鳴らしてくる。ごめん、いま閉めます。
「……って、なんで先輩帰ってきてるんですか!?」
思ったままを聞けば、結城先輩はガーゼが貼られた顔で怪訝そうに俺を見下ろした。
「ここ俺の部屋でもあるんだけど、文句あんの?」
「い、いや無い……ですけど、授業は?」
「別に、出ても出なくても変わんないやつだし。怠かったから。」
「……もしかして怪我が痛くて、じゃないですか?ほ、本当にすみませんでした。俺、お詫びになんでもしますから、」
「なんでも?」
「あ!?いや、また吸血は嫌だ………けど、でも、今回も命助けてもらってるし、どうしてもならが、我慢しま、す。」
言葉とは裏腹に、ぎゅっと握った手は冷たいくせに汗が滲む。
……でも、ラミアにとって血は命と同じくらい大事なものだ。下手をすれば俺だけじゃなくて先輩も十分危なかった。命には命を―――血を払うことくらい、覚悟しなくては。
俺がひっそりと心を決める一方で、結城先輩はフンと鼻を鳴らした。
「腹減ってないしいらねーよ。こんな怪我大したことないし、ビビってるバターの血なんか飲んでも不味いだけだし、何かしてもらっても逆に面倒なことになりそうだし。……邪魔だからそこどけ。」
「しっしっ」と追い払う仕草をされれば、さっきまで感じていた申し訳なさが瞬時に蒸発した。
「ビビってない!それに何度も言ってるだろ、俺はもうラミアは怖くないって!あと、俺の名前はバターじゃなくて日野 秋人!!」
「ハイハイ。」
「ちゃんと聞いてくださいよ!」
「聞いてる聞いてる、これからはラミアと……なんだっけ、共存?するんだろ。」
「はい!」
「で、それを俺ともしてくださるんでしたっけ。」
「はい!……じゃなくて、それは言い方が…」
俺の勢い余った言い方が悪かったんだけど、果たしてどう言い直せばよいものか。
鞄を机の上に置く背中に向かってモゴモゴしていると、唐突に先輩が振り向いた。
「……日野。」
「は、はい!」
「『ただいま』」
「はっ……あ、お…かえりなさい……えっ?」
「じゃあ俺は寝る。騒いだら今度は俺が窓から放り投げるから、お前も寝るなり――とにかく大人しくしてろ。」
そう言うなり、先輩はあくびをしながら2段ベッドの上へと消えていった。
冷蔵庫の前に取り残された俺は、呆然と立ち尽くすばかりだ。
(なななんだ今の、なんだ今の!?……ただいまって言った?え、聞き間違いじゃないよね?)
外だったら「マジで!?」と叫んでいるところだが、もう高いところから落ちるのは勘弁なので、取り合えず俺もベッドへと戻る。
(!?……!?!?)
衝撃でまたもや寝れるわけがなく、ごろりと横に転がってスマホを手に取ると、突然スマホが震え出した。
驚いて取り落としそうになったのを慌てて握りしめ、画面に目を凝らす。すると、スズメや犬飼などAクラスのメンバーや、陸から何件も着信とメッセージが届いていた。
『羽賀 すずめ: 日野君、みんな心配してます。連絡ください。』
(スズメごめん、気づかなかった…!)
『犬飼 翔真: まだ寝てるのか。落ちたのか。』
(さすがに起きとるわ!……ん、落ちた…?)
『間宮 陸: 誰かが屋上から落ちたって噂になってる。秋人じゃないよね?』
(マジか……まぁ、1人くらい見ちゃった人いるよな……。)
『佐々木 麻子: 園田先生が、日野は花子さんとランデブーって言ってるけど、ホントだよね?』
(またあの人は!どんだけ俺をトイレキャラに―――って、さ、佐々木さんが先生を疑ってる!?)
思うことは色々あるけど、とにかく先輩たちだけじゃなく、心配をかけてしまった人はもっといるみたいだ。
『大丈夫!ごめん!』と返信を打ちながら、申し訳ない気持ちと、学校に行けばまたみんなに会えるという安堵感が胸に広がる。
……誰かが言っていたように、傷が痛むのだって、今なら生きてる証拠だと思える。
(俺、本当に生きててよかった……そういえば、いつの間にか気持ち悪いのも治ってる。)
ぱちりとベッドの天井を見上げれば、上から紙をめくるような音が聞こえてきた。先輩がまた雑誌でも読んでるんだろう。結局寝てないみたいだけど、本当にサボりたくて帰ってきたのか?
―――本当のところは分からないけれど、一緒の空間にいて気まずいと思わないのは、初めてかもしれない。むしろ部屋に誰かが居るということに、少し安心してる自分がいる。
(俺、あの人のこと誤解してたのかな。共存も献血も……道のりはまだ長いかもしれないけど、まずは少しずつ相手のことを……結城先輩のことを知っていけたらいい……な。)
冷えていた指先がじんわりと温まってきた。
……今度こそ、眠れそうだ。




