④
「ぐっ……はな、せ…っ!!」
やばい、やばいやばい―――のに、身体が動かない。
さっきまで『女の子だったモノ』は一瞬で4足歩行の大きな獣に姿を変え、腹の上に圧し掛かってきた。大声で叫ぼうとしても、鋭い爪が生えた前足で胸を踏まれると、口から悲鳴にもならない息が漏れるだけだ。自分の肋骨が軋む音が聞こえる。痛くて苦しくて呼吸ができない……このままでは、骨が砕けるのが先が、窒息するのが先か、どちらにしてもお終いだ。
急速に白んでいく頭でもはっきりと分かるのは―――あの女の子の形をしたモノの正体は、ヴィズだったということ。どこからか現れ、人間を襲って喰らう、化け物だったということだけだ。
「キテくれテ、ありがトウ、うレシい……」
「……ひっ!」
「いただきマス」
真っ暗でよく見えないが、獣の顔に付いた、3つの目だけが闇の中でもギラリと光って俺を見ている。獣の生臭くて熱い息が顔面にかかって、全身の皮膚がぞわりと泡立ったとき―――俺の脳に何かが浮かんだ。
『こんにちは。おじさんにも、その虫見せてよ。』
『うん、いいよ。』
『血も、吸っていい?』
『え?』
―――ああ、やめろ。これは思い出したらだめな記憶だ。7歳、公園、ラミア、掴まれた腕の感触、強い力、汗、黄ばんだ鋭い歯、みんな逃げろ、でも、待って、こわい、きもちわるい、だれか、だれかたすけ………
「「ギャアッ!!」」
「!?」
―――突然、俺の腕を掴んでいたオッサンと、俺の上に乗っていた獣が吹き飛んだ。
「げほっ、ごほっ、」
肺に酸素が急激に入ってきたせいで、ひどく咳き込む。耳につんざくように響いているのは、恐らくヴィズの叫び声だ。
(なにが、どうなった?)
起き上がって状況を確認しようとするが、すこし上半身を起こしただけで胸が痛くて倒れこんでしまう。
クラクラする視界を定めようと必死に瞬きを繰り返していると、顔のすぐ傍で雪を踏む音がした。
―――誰かが、俺を見下ろしている。
「おい、さっさと立て馬鹿。」
あまりに淡々とした声に思わず、分かってるんですけど起き上がれなくて……と言いかけたが、口から出るのは咳ばかりだ。
すると、小さなため息が聞こえたかと思ったら、いきなりコートの胸ぐらを掴まれ、地面から背中を引っ剥がされた。
「いっててて!!」
「ハイハイ、骨は折れてないから大丈夫だろ。」
いや、めっちゃ痛いんだけど!どんだけスパルタだよ!?
うっかり文句を言いそうになったが、それよりもヴィズだ。あの化け物、いったいどこに行ったんだろうか。俺もこの人も、早く逃げないと。
「あ、あの!女の子が、ヴィズでっ!」
「ああ、ヴィズならもう始末しといた。」
「えっ?……うそ、あなた1人で!?」
…嘘だろ?あれを?
思わず口をぱっかり開けたまま目の前の男を見上げると、暗くてよく見えないが「すげー間抜け面」と小さく噴き出しやがった。
男は俺の前にしゃがむと、さっき俺が女の子にしたみたいに、目線を合わせてくる。
「…………。」
至近距離にきた男の顔を見たら、俺はまた固まってしまった。…仄かに緋色に光る目、すっと通った鼻筋、人形みたいに形のいい唇。程よくはねた、柔らかそうな髪をかけた耳にはピアスがいくつも光っている。
……暗くてはっきり見えないというのに、なんだこの溢れ出るイケメンオーラは。TVと雑誌とクラブと外国、どれが出身地ですか―――貧困なボキャブラリーを思いつく限り並べる俺の一方で、男は口元の笑みを引っ込めると、真面目な顔というより冷めた目つきになった。
「お前さ、危機感って知ってる? き・き・か・ん。」
「…はぁ?」
「ヴィズに食われに行くお人好しな馬鹿はどこの馬鹿かと思ったら、またお前か馬鹿。しかも同じ場所とかほんと……はぁー、馬鹿は脳ミソの代わりにバター入ってんの?」
「いや、それ溶けるよね?」
「もう溶けてるっつってんだよ。」
ちょっとストップ―――待ってくれ、なんだこのイケメンは。一方的に罵られたと思ったら、今度はすごく哀れんだ目で見られているんだけど。
いくらなんでも、初対面相手に失礼じゃないかと思う反面、自分がこの短時間で何回馬鹿と言われたのかをカウントしようとしているあたり、俺の脳ミソは本当にバターかもしれない。
「……で、お礼の言葉も知らないのか?」
「えっ、あ、そうだ!助けてくれて、本当に―――」
「あーやっぱいい。今回はこっちで。」
男が俺の首元に手を伸ばす。また胸倉を掴まれるかと思って咄嗟に頭を引いたが、掴まれたのはマフラーだった。
「えっと??」
……掴み間違えか?
意図がよく分からずにいると、男は無言でマフラーを俺の首からほどいた。そして、そのままコートの襟元を、強く横に引っ張ったのだ。
上半身の体勢が一気に崩された俺の視界の隅で、コートのボタンが飛んでいくのが見える。
(こいつ、どんだけ馬鹿力だよ!?)
驚きで目を見開いた瞬間―――冷たい外気にさらされた俺の首元に、男が噛みついた。