⑩
「―――待っ!!!」
小さな封筒は投げられた勢いと、強い風の相乗効果で宙を滑っていく。ちょうど俺の頭の上を通る時だけ、スローモーションのように見えた。
(取れ!あれは絶対に無くしちゃ駄目だ!!)
頭の揺れが止まり、全身がカッと熱くなる。
大きな声で笑っている柴田を足で押しのけて、仲間がひるんだ隙に腕を振りほどくと、がむしゃらに手紙を追いかける。
(くっそ、もう少しなのに……!!)
高度を下げながらも、手紙は未だ前を飛んでいる。このまま屋上の外に出てしまったら、この広すぎる学園では見つけることが出来ないかもしれない。
(絶対に、絶対に外には出さない!!)
なぜか後ろから複数の足音が聞こえる気がするが、振り返る余裕はない。
ただ薄桃色だけを見つめ全力で走り続け、距離が縮まり、あと数センチ落ちてくれば届くというところまで来た。
あとは、ちょうど目の前にある手すりに乗り上げればギリギリ指が触れて―――
「取れた!!」
「「止まれ!!」」
「えっ?―――あ、」
柴田たちの声が聞こえたと同時に、体重を支えていた片腕が滑る。ほとんどが手すりの外に出ていた身体は、簡単に空へ投げられた。
ーーー青い空を見上げて息を飲んだ瞬間から、身体は重力に従って落下し始めた。
(あっ、これ死んだ。)
内臓が浮く体感はジェットコースターに乗っているような速さなのに、周りの景色はまたスローモーションで流れていく。
4階の窓の側を通り過ぎたとき、窓に反射している逆さの自分と目が合った。目の前が、ちかりと光る。
『秋人、誕生日おめでとう!!』
『けーきだー!!』
うっわー、何歳の時だよこれ―――突然脳内で弾けた映像に眉をしかめたのも一瞬で、直後俺は心底ギョッとした。
(待って、まさかこれって走馬燈だったりする!?)
気づくが早いが、映像は次々と流れていく。
『今日から幼稚園に通うからね。』
『まみや りくだよ、よろしく!』
『この子……き…をまも……よ』
『日野、授業中に寝るのは良くない。』
『犬飼だってたまにスリープモード入ってるだろ!』
『ふふ。どうしても眠くなっちゃいますよね。』
『コ……を、…ード……してくれ……』
『せんせー、らみあってなに?』
『将来お友達になる人たちのことだよ。』
『秋人、さっきから峰ヶ原のページばっか見てる。』
『えっ?ホントだ。でかい校舎だから目に付くな。』
『いいから…はや……げ…!』
『オムライス?なにそれ、知らない。』
『うそー!おれ大好きだよ、食べてみて!』
『……うん。』
『初めての義務献血、怖くなかった?』
『ぜんぜん!これでしょうらいの友だちがげんきになるんでしょ?』
『俺はもう二度と吸血されないし、ラミアとは深く関わらない!』
『ごめん……あきと。』
ハッキリと思い出す間もなく、一瞬で移り変わる光景にまったく頭が追い付かない。ただ最後の誰かが泣きそうな声だけは、耳に残った。
(俺も、謝らなきゃいけない人がいるのに……!)
地面がもう目前まで迫ってきて、ぎゅっと目を瞑る。真っ暗な視界に過去の走馬燈じゃなく、この後起こるだろう自分の悲惨な姿が浮かぶと、急に吐き気がするほどの恐怖に襲われる。
これだけは、と手紙を両手で握りしめた矢先、
―――衝撃は下方ではなく、横から襲ってきた。
「ぐえっ!?」
潰れたカエルのような声が出た途端、身体が1転、2転、3転―――数えられたのはそこまで。もうどっちが上だか下だか分からないけど、取り合えず激しく転がったのは分かった。でもなぜか強く振動を感じるだけでちっとも痛くはない。
(…………?)
やがて、振動が止んだ。恐る恐る目を開けてみたけれど、相変わらず目の前は真っ暗だ。首を動かそうにも、身体が重くて少しも動かない。
(…やっぱ死んだ……?)
でも、それなら………どうしてまだ心臓の音が聞こえているんだろう。
俺の耳に響く鼓動は、今にもおかしくなってしまいそうなくらい強くて早いけど、普通心臓って死んだら止まるよな?
固まったままその音を聞いていたが、急に音が遠のくと同時に身体の重みが取れた。その代わり眩しすぎる光が容赦なく射し込んできて、目の奥を焼き付ける。
(あー……これは完全に召された。天国的な所来ちゃったわ。)
あまりの眩しさに目が開けていられない。
心理的ショックに現実逃避も兼ねて目を閉じたまま動かないでいると、左頬に肉がちぎれそうな程の痛みが襲った。
「いっ!?痛、いはい、いひゃい!!」
「この……死んだふりとは良い度胸してんな!」
「ちょ、いひゃいっていってんだろ!なにすんら……ほ?」
「ほ?じゃねえよ、さっさと起きろ馬鹿。」
聞き覚えのある声に眼を見張ると―――光が眩しい青空の下、逆光で顔が見えないけれど誰かが俺を見下ろしていた。
あれ、いつかの冬もこんなことあったなと思っていると、今回は胸ぐらじゃなくて腕を引っ張られる。
されるがまま起き上がると予想と同じ人の顔があったが、少し癖のある髪はいつも以上に跳ねてるし、整った顔には擦り傷ができているではないか。
「なんで天国に……結城先輩が?」
「寝ぼけたこと言ってんなよ、頭打ったんじゃないだろうな。吐き気は?身体は動くか?痛いところは全部言え。」
「………?」
言われている内容が全然理解できない。力なく上を見上げれば峰ヶ原学園の校舎が聳え立っていて、下を見ればコンクリートがある。
(俺ってあの屋上からここに落ちたんだよな。なんで生きてるんだ?)
誰かに訪ねたいけれど、目の前の結城先輩は俺の頭や身体に怪我がないかを細かく確認している。
先輩の手は傷だらけで所々皮がめくれているし、よく見れば制服も擦り切れていて……なぜか地面に落ちたはずの俺よりもボロボロだ。
(…あれ……落ちた?俺って地面に落ちたんだっけ?その前に何か、横から来たものにぶつからなかったか?それで、すごい転がって…………ってまさか!!)
もう一度結城先輩を見た途端、思考停止していた脳が一気に回りだした。
「もしかして先輩が俺を助けてくれたんですか?だからそんな怪我してるんですか!?」
「騒ぐな、じっとしてろ。」
「だって変です、俺は頭もどこも打ってないんですよ!?先輩が庇ってくれたんですよね?」
「いいから黙れって。」
「よくないですよ!手から血出てるし、どうしよう顔にも傷が、」
「……っ、そんなの―――そんなのお前もだろこの馬鹿!!一体何やってんだ!!」
「!!」
初めて聞いた結城先輩の大声に、息が止まった。激しい怒気をぶつけられた全身の皮膚がピリピリと痺れている。
「お前は自分がオリジンだって、少しの怪我でも簡単に死ぬってこと分かってんのか!?」
「は、い。」
「じゃあどうして毎回危険に突っ込んで行く?なんであんな所から落ちるんだよ!まさか本気で死ぬ気だったんじゃないだろうな!!」
俺の両肩を掴んでいる先輩の手に、ぐっと力がこもった。すっかり言葉を失っていた俺は、どうにか喉の奥から声を絞り出す。
「あ……の、手紙が飛んでって……お、屋上から落ちる前に拾おうとしたら、お、俺が落ちました。」
「あぁ?手紙?」
「これ、」
震える腕を持ち上げて、結城先輩に封筒を見せる。先輩はそれを手に取ると目を見張った。
「これって昨日の……こんな、こんな物のためにか。」
「あ、阿部さんラミアだから、これを書いた時、緊張して何枚も便箋を破ってしまったって言ってました。そ、そのくらい先輩のこと想って、一生懸命書いたんですよ。受け取ってもらえなくても……大事な物じゃないですか。」
「…………。」
先輩はしばらく手紙を見たまま固まっていたけれど、大きなため息をついて項垂れた。
こんなに身体を張って助けてくれたのに、手紙を追いかけて落ちただなんて、間抜けすぎて呆れたに違いない。
「あと、昨日のことなんですけど……先輩の気持ちを知らずに手紙を無理矢理渡そうとして、すみませんでした。勝手に誤解して、酷いこともたくさん言ってごめんなさい。大嫌い出て行けってやつも、本気じゃないです、勢いで言ってしまいました。」
改めて昨日の自分が嫌になる。そんな奴なのに助けてくれたんだと思うと、申し訳なさが込み上げてきて喉が焼けてしまいそうだ。
「そのっ……先輩が俺のこと嫌いなのは分かってるんですけど、もう少し同じ部屋で我慢してくれませんか。俺、出来るだけ早く寮出て行きますから。」
「…は?なんで。」
「先輩が言った通り、後からあの寮に入ったのは俺だから。俺のせいで先輩が帰って来辛いなら、出ていくべきなのは俺です。」
「なんでそうなる。俺は寮の話をした訳じゃ――……あーくそ!大体、ラミアを嫌ってるのはお前の方だろーが。昨日だって泣いたくせに。」
「なっ…!」
脳裏に、昨日の光景が蘇って顔が熱くなる。確かに先輩の前で無様にも泣いたけど―――でも待ってくれ、アレは心臓が痛かったせいだから、心理的に泣いた訳じゃない。つまりセーフだノーカンだ!
「な、泣いてないし!ラミアだって怖くないし!?吸血が嫌なだけですー!!」
「はぁー?嫌だってんなら、その辺のラミアに簡単に吸血されてんじゃねーよ!」
「だからされてないってば!簡単に吸血しやがったのは、あんただけだよ!!」
「!?――何言って、お前昨日首に、」
「あれはよく分かんないけど、朝原先輩に貼られたんです!なんか、俺と結城先輩がケンカしないためのお守り?とか言って。」
「なっ……あ…んのっ、ピンク野郎……!!」
「わー!手紙を握りしめんな!!」
静かに、だが今にも手紙を握りつぶしそうな勢いで怒りの炎を燃やしている結城先輩から、慌てて手紙を取り上げた。険しい琥珀色がこちらを向くと、自然と『来るぞ、備えろ!』と構える自分がいる。
「お前もお前だ、そんな話に乗っかってんなよ!」
「だって共ぞ……は、貼られたものは仕方ないじゃないですか!取るなって言われたし。」
「それ以前に貼られるなよ、もっと危機感持てって言っただろ。なのにお前ってバターはヴィズに喰われに行くわ、屋上から落ちるわ、何回言っても鍵はかけないし、窓は開けっぱなしだし、」
「せめて『お前ってやつは』って言って!? 大体、寮なんだから泥棒とか入るわけないし、俺がいるから問題ないでしょ!先輩の物だってほとんどないんですから、盗られたとしても俺の物ですよ!」
「だからそういうとこが―――もう、マジでお前の理解力疑うわ。ほんと脳みそ溶けてる。」
「またすぐそうやって嫌味言う!そっちだって全然帰って来ないし、帰ってきたと思ったら夜だし、せめて家に帰ったら『ただいま』くらい言えっての!それに―――確かに俺が不用心かもしれないけど、そんなに心配ならあんたも部屋に居ればいいだろ!?どこぞで女遊びしてようと勝手だし、俺のことなんか嫌いだろうけどな、こっちはどうやったら共存出来るかとか悩んでんの……に………あっ?いや何でもない。」
ちょっとちょっと!なんか今、犬飼ばりに滑舌良く喋れたけど絶対余計なことまで言ったな!?
音がなるほど勢いよく口を手で塞ぐも、殴られた頬が痛んだだけで一度出た言葉は二度と返って来ない。俺の早口に呆気に取られていた結城先輩は、綺麗な二重の目をぱちりと瞬かせた。
「……お前何言ってんの?」
「いや、ちょっとよく分かんないっすね。……と、とにかく俺は寮を出ていくんで、」
「誰と誰が共存するって?」
「えっ、えー?誰かそんなこと言ってました?」
「あーその誰かさんのせいで全身が痛いわー。手も顔も傷が残るかもな。」
「おい、ずるいぞ!!」
それを引き合いに出されると逃げられなくなる。ギリギリまで喉元で抵抗していたけれど、じっと刺さる視線に観念して渋々口を開いた。
「……だからそのっ、俺はラミアが嫌いな訳じゃないし、部屋が一緒になったのは仕方ないから……あ、あんたと共存してもいい…かなぁー?なんて思ったり……。」
「お前が俺と共存してくれる?……へぇーそうなんだ、なるほどー。」
にこっと笑った顔は、俺が女子だったら陥落してただろう……その額に筋が浮かんでなければ。
こんなに綺麗なのに怖い笑顔って初めて見たんだけど。震える俺の中に絶望のチワワが降臨する。
「す、すみませんちょっと今のは言い方が悪かったっていうか、」
「随分と偉そうに、大層なことを言ってくれるじゃねーか。そこまで言うならお言葉に甘えて共存させてもらおうか、なぁ?」
「いや、えっと…………ハイ。」
「俺はいつ出て行ってくれても―――やっぱ無理でしたって逃げても構わないぜ?泣き虫君。」
「なっ……誰が逃げるか、立派に共存してやんよ!!そっちこそ、俺が嫌いで怖いなら外に逃げたままでもいいんですからね!?」
「怖い?お前が?あっはは、面白いこと言うなぁ。」
「はは、ははは……。」
先輩と微笑みあいながら、俺は後悔と大量の冷や汗が背中を伝うのを感じていた。共存っていうワードが出ているのに、まるで宣戦布告でもしているかのようなこの緊張感はなんだろう。
―――なあ俺、完全に早まったんじゃないの?
でもここまで言った以上、今更引くことなんて出来ない…!




