O:絶望の幸福
境界線上につばさは立っていた。小さな背中と細い足首は、簡単に揺らいでしまいそうで、一寸先の闇の前に居座るには、あまりにも頼りなさげだった。
影が微かに震えた。つばさの身体が傾いてくのがわかった。徐々に前に乗り出して、境界線の外側に吸い込まれていく姿を見た。弾き飛んで行って、手首を掴んだ。無意識の内の行動だった。何か切迫したものが自分を動かしたのだろうか。
「高宮さん、痛いよ、離して」
つばさは真っすぐだった。前に傾いてなどいなかった。幻を見たのだろうか?
「離して」
二度目の警告で手を離した。一段高くなった縁を降りて、上履きをそのままにして、つばさは私を観察していた。光の無い瞳が探るように蠢いていた。
「あんたは死ぬのが怖くないの?だって、いつかは本当に飛び降りるんでしょ?」
「死ぬのは怖いよ。でも、生きるのはもっと怖い」
彼女と目が合った。いつものつばさだった。少なくとも今日死ぬ人間の目ではなかった。
「死んだらどうなるんだろうねぇ?地獄とか天国とかあるのかな」
「そんなもの無いわよ……。闇が……永遠の無意識が続いていくだけ……」
自分で言いながら鋭い恐怖感に襲われた。胸が締め付けられて、思わず母に助けを求めそうになった。母の名を絶叫しそうになった。『助けて、お母さん』、と。『死の恐怖から救ってくれ』、と。
「じゃあ、そこで初めて私は永遠になれるんだぁ」
つばさは皮肉っぽく笑った。実際そうだった。人間は何かを得ることにおいて永遠を得ず、何かを失うことにおいて永遠を得る。亡くなった人間が二度と戻ってこないように。人間とはなんて虚しい存在なのだろう?人は死ぬことで、全てを失うことで、生きている時に必死に探し求めている永遠を得るのだ……。
「いつよ?いつ飛ぶの?」
「近いうち。えへへ」
「なんでそんなに笑うのよ。まるであんたが幸せみたいじゃない」
「そうだよ。私はとっても幸せ……。望みなんて何にも無いけど、でもそれがありのままだから、私は笑えるの」
もし幸福というのがありのままを受け入れることだとしたら、そしてこの世界において、あらゆる希望、可能性が幻想であり、全き絶望であるとするならば、絶望することこそ唯一の幸福なのだろう。だからつばさは笑う。幸せだから笑う。
「教えてくれたのは高宮さんだよ?救いなんてないっていつも言ってたじゃない?それが世界なんだって。なら、私は飛びたい……ちゃんと飛んで行きたい。高宮さんはどうするの?あなたはフリをするだけ?」
「違う、違うわよ、あんたみたいに、私も……」
「でも、ちゃんと飛べるかなぁ」
挑発的な言い方だった。少しむっとしたが、言い返す気力もなかった。端に揃えられた上履きを見た。つま先は彼岸の方角を真っすぐ指し示していた。