B:奔逸なリビドー
先輩が下級生の肩を抱きつつ、空き教室から出て来た。乱れた服装に、汗ばんだ髪の毛、まどろんだ目つきは不確かで、一呼吸一呼吸が切なそうだった。労わるように頭を愛撫し、甘たるい声で先輩は囁いていた。
「いい?また明日、ここに来るのよ?」
女子生徒を解放して、先輩は私を意識した。見える位置にいたのだから最初から分かっていたくせに、わざと気づかないふりをして、見せつけていたのだった。
「やぁね。見世物じゃないのよ?」
「見たくて見たわけじゃないわよ。じゃあ」
先輩はすかさず私を捕えた。肩に腕を回して、うざったるく絡んできた。
「かんなだって私を探してたんでしょう?私に会いたくてこんなところまで来たんでしょ?」
「私は白倉先輩のことなんか眼中にないわ。もう、離してよ」
「そんなつまらないこと言わないで。今日は私、とても機嫌がいいのよ?毎日毎日いいことがたくさんあって、本当に生きてるって感じがするの。だからね、今この現在が、この青春が大好きなの、だって、綺麗で可愛い子たちと楽しく過ごせるんだから。ねぇ、かんな、そんな軽蔑するような視線を送らないでよ。私はあなたと違ってね、この生活を、いや、この人生そのものを謳歌しているの。まあ、あなたの哲学から言ったら、そりゃあ、腹立たしいかもしれないけど?でも、それってもったいないわ、本当にもったいない」
体重を全部預けてくるので、倒れないように先輩を支えないといけなかった。誰もいない廊下に女が二人、先輩はセールスマンみたいに流暢に話し、気分の高揚が、そのままベロを激しく動かしているのだと思われた。
きっと教室までついて来るに違いない。先輩を振り払って、乱れた制服を正した――虫でも追い払うように手を扇いで。
「さっきの子は?先輩の新しいお友達?」
「うん?まあね。あなたと同じ学年の子よ。優しくておとなしくて……それで従順でもあるの。なんで聞くの?まさか嫉妬した?」
「馬鹿言わないで。でも、一週間前は別の子と……」
「そうねぇ。でもしょうがないじゃない?やっぱり愛にも飽きってあるのよ。あの子もあと数週間したら捨てるつもりだし」
「あんた……いつか刺されるわよ」
白倉先輩は顔をくしゃくしゃにして笑った。美しい顔とはあれだけ破顔しても整っているのだなと思った。別に冗談を言ったつもりはないのだが。
先輩は私ににじり寄り、右手を私の頬に添えて、長い爪が皮膚に食い込んでも気にせずに、後輩である私を動けなくした。
「ねぇ、かんな。そんなしかめっ面してちゃ嫌よ?綺麗な顔が台無しじゃない?私ね、あなたのこと狙ってるのよ?好みの顔だもん。気が強そうで、でもどこか繊細さもあって、その皮肉な性格だって、あなたの魅力になってる。あなたは現状に不満を抱いてるみたいだけど、私ならきっとかんなのことを楽にしてあげられるのになぁって思うの」
左手は不意に腰に回されていた。白倉先輩は唇を緩慢ながらも手早く近づけて来た。目を閉じた。一瞬が永遠だった。なんとなく、屋上の上履きを思い出した。二つに揃えられた靴。頬に軽く感触があって、迫って来たものが退いて行くのがわかった。
「ファーストキスは取っといてあげる。だって可哀そうだもん」
少し濡れた頬が腫れたみたいに熱かった。痛くて、痒くて、蚊に刺された時の皮膚に近かった。細い口吻が皮を貫き、中の蜜をくみ上げて、腹を丸々太らせた虫けらのイメージが湧いてくる。きっと、先輩も、あの口で数々の花びらをまさぐったのだろう。それで満腹になって、顔を火照らせて、世界を満喫する。蝶になれるのは彼女だけなのだ。
「かんな。私はこの世界が大好きよ。私の好きなようにさせてくれる。まあ、ほっといてくれるとも言えるわね。それで十分なの。私は私の好きなようにする、他人なんて関係ない。だから、かんなも私みたいに生きてみたら?」
「無人島じゃなきゃ成立しないわよ、そんな生活。あんた、一人で生きてるつもりなんだわ」
再び、先輩は腹を抱えて笑った。今度はひときわ輝く美形も、少しだけ崩れた様に見えた。
先輩は私を置いて飛んで行った。別の蜜を探しに出かけたのだろう。