04
スゥという神官見習いの少女は、騎士団と王城の間にある庭園に佇んでいた。誰か――背丈からするに男――と一緒に話していたように見えたが、肝心の相手の姿はよく見えないうちに消えてしまっていた。
知らない場所を散策して迷子になって途方に暮れていたのかと足早に駆け寄ったが、当の本人はなんとものんびりした様子で、花の名前を教わっていた、などと言う。本当に不思議な娘だ。
「お仕事は如何なされました? 小休憩ならば素晴らしい、その調子で休まれてください」
「うん? うん……いや、そういう訳では……」
結果的に少女を探すため、仕事の手を止めてきたわけなのだが。これを休憩と呼んでいいのかは定かでないところだ。
戻りましょう、と声をかけると、頷いて寄越す。歩調を合わせながら廊下に戻ったところで、気になっていたことを問うてみることにした。
「スゥ殿。先程の、私を眠らせたあれは、一体何だったのか、お聞きしても?」
思い返しても不思議な歌。いや、正直歌だったのかも分からない。なにせ、三音で眠ってしまったので。
すると、その問いに、少女はなんということもない風に返してきた。
「ただの子守唄です」
「……子守唄」
「はい。スゥは、聖歌を歌うしか能のない神官なので」
聖歌。それがなにか特別な能力なのか、言う通りただの歌なのかはそれだけでは分からなかった。
「隊長さま」
「なんだ」
「スゥは神殿勤めでして」
「知っている」
「神殿に所属するものは、職務中虚言は吐けません。ゆえに、お答えが難しいことは秘することになりますが、ご理解いただけますか?」
自分が、歌について更に質問を重ねようとしたのを見抜いたのか。前もって話せないものは話せない、とそうはっきり言われてしまえば、それを拒むことも難しかった。
「分かった。あなたの良いように」
「恐れ入ります」
「それであの歌は、」
「ただの子守唄でございます」
「…………、そうか」
なんともはや、である。仕方ない。話題を変えよう。
「スゥ殿は、本当に私を休ませる為だけにここへ?」
「そう申しました」
「私の記憶が正しければ、あなたにお会いしたことはないと思うのだが」
「ええ。先日、神殿においでのところを、スゥが勝手にお見かけしただけです」
確かに数日前、討伐で負傷した騎士たちを処置してくれた礼にと、隊長たる自分が直々に神殿を訪れていた。個人的な理由があり、神殿にはあまり近づかないようにしているので、かなり久々に神殿内に入ったように思う。
「……あのときに?」
「はい。死にそうな顔をしておいででしたので、神官長の許可を取って、こちらに」
あの時は数度の討伐が連続して重なったあとだったこともあり、疲労はピークで、ずたぼろの酷い状態だったのは間違いない。間違いないのだが――、それだけでわざわざ見習いとはいえ神官が神殿から出向いて自分を眠らせようとするのは、流石に無理があるのではないか、と思う。
「他になにか手伝うことがらがあったのでは……?」
「そういわれましても、スゥは聖歌しか能がないので……」
「そうか……」
「はい、……あ。でも、神官も書類は作りますゆえ、そちらの手伝いなら出来るかもしれません」
――――なんと。なんと。今なんと。
勢いよく振り返ってしまう。がばり、と少女の肩口に両手を置き、低い目線に向けて顔を近づけた。
「本当か!?」
しかしてそれに返事はなかった。
は、と見れば、眼前で少女が固まっている。近い位置に鮮やかな紅。その瞳がゆら、と揺れた。真っ白な頬が、じわじわと、あかく、染まって。
「っ、すまない!」
近すぎた。普通に近すぎた。少女といえど、女性に対してこの距離はよろしくなかった。
ざざざ、と三歩下がって距離を取り、俯く。
何を、何をやってるんだ俺は。
「いえ、あの。スゥは神殿暮らしが長く……、その、少し、驚いてしまっただけです。あんまり、隊長さまの――――」
ふ、と慌てた声がそこで切れて。そのあとの言葉は秘されるのかとおずおずとその顔を見れば、染めた頬をそのままに、とろけるように笑っていた。
「その琥珀が、なつかしく思えて」
なつかしい、というその意味を、問いただすことはできなかった。何故なら、あまりに浮かんだ笑顔が綺麗で柔らかで、目が離せなくて――、そして、自分もその表情を、どこかなつかしい、と思ってしまっていたからだ。
◇
その後、少女を執務室に案内した。流石の風変わりな少女も、圧倒的なまでに積まれた紙の山に、元々大きな目を更にまん丸にして驚いていたが、腕がなりますね、という心強い言葉と共に机に向かってくれた。
騎士団の機密もあるため、重要度の低いものの仕分けをお願いしたのだが、これがまあ仕事が早い。さっさと山をならして、必要ないものをどんどんと纏めて片付けていってしまう。緩やかな空気を纏う少女からは中々想像できない手腕に、自分だけではなくディズも舌を巻いていた。
更に凄いのは時間管理の厳しさだ。一刻毎に四半刻の休憩を言い渡され、二回に一回は必ず不意打ちであの歌を食らった。毎度三音以内に倒れる自分を、ディズが回収してソファに寝かせるのも、既にお手の物になってしまったようだ。
目を覚ますと、相変わらずやめろというのに足置き役をやっているときもあるし、頭のすぐ横に座って、ろくに手入れもしていない自分のかさついた髪に香油を塗り込んでいるときもあった。
寝起きに動揺しすぎてソファから落ちたのは、仕方のないことと思いたい。
今日は午前中に実務訓練を終えていたので、元々昼からはひたすら書類作業の予定だった。日が暮れても終わらないだろうから、夜中までには何とか――と、そう願いながら手をつけていた訳なのだが。
終業を告げる鐘が鳴るときには、書類はかなりその山を減らしていた。今日中に必ずや、というものは、かなり早い段階で終わっている。
ぱん、と乾いた手を打つ音がする。少女が椅子から腰を上げていた。
「そこまで。後は明日にしましょう、隊長さま。さあさあ、帰りましょう。帰って美味しいものを食べてお風呂に入ってぬくぬく寝るのです」
硝子ペンを取り上げ、彼女にしては早口にそうまくし立てた。横でディズがげらげら笑っている。もう笑いを堪える気がないらしい。
「分かった、分かったから」
「ペンとインク壺はスゥが預かりますゆえ。もう今日は仕事をなさらないように」
「信用がないな……」
「当然です」
ふと細く白い指が伸びてきて、自分の目の下を薄くさすっていく。突然のことに驚いたのだが、少女の方は気にする様子もなく、するがままだ。
「早くこの隈を消しませんと。……ディズさまも」
「はいよ、スゥちゃん。善処します」
自分が寝ている間のことか知らないが、いつの間に名前で親しげに呼びあっているディズと少女を胡乱げな表情で一瞥し、細い指を取って下ろさせる。
「寝足りないくらいでは死なないから大丈夫だというのに」
「いけません」
ぴしゃりと言い放ち、少女は大切そうに自分のペンとインク壺を懐にしまった。そして微笑んで頭を下げる。
「それでは、また明日。同じ頃に参ります」
「……ああ」
これが、奇妙な執務生活のはじまりだった。