竜の騎士の日常
時間軸は本編後半年以上一年未満。とっくに一線は超えた。R15朝チュン。
騎士の朝は早い。日が昇るかどうかという時分、シリウスは自然と目を覚まし、その琥珀の瞳を瞬いた。
体に染み付いてしまった起床時間は、どんなに疲れていようが、昨晩何時に寝ようが、変わることはない。だが最近は、目は覚めてもベッドから抜け出すことが簡単にできなくなってきている。
理由は簡単だ。横ですやすやと『妻』が眠っているからである。
昨晩、夜半近くまで泣いてよがって自分の名前を呼んでいた少女だが、今は年相応のあどけない寝顔を晒している。シリウスより四つ歳下の可愛い伴侶。寝乱れた蜂蜜のとけたミルク色の髪を少しだけ撫で、シリウスはふと息をついた。
気を抜くと朝からまた抱き潰しかねない。それでなくともこういう朝は、毎回妻であるスピカにくどくど文句を言われているシリウスである。いくら妻の望みを叶えるためとはいえ、自重すべきこともあるだろう。大体、今日は休日ではない。このあと仕事に出向かねばならないのだ。
もう少しこのまま微睡んでいたい気持ちを追いやり、シリウスはするりと寝台から抜け出した。
神殿勤めの朝も早い。鳥が朝の挨拶を始める頃、スピカも自然と目を覚ます。紅色の瞳をぐじぐじと擦り、気怠い身を起こした。
昨晩の記憶が途中から、ない。何を口走ったのかも正直曖昧だ。羞恥に頭を抱えてうう、と唸る。
自分が余計な譫言を言えば言うほど、夫の夜伽は激しさを増す。分かってはいるのだが、あまりにめちゃくちゃな展開になると、言動に箍などつけられない。昨晩は多分自分が何か火種を放り込んでしまったのだろう。それはもう、酷い有様だった。
思い出すだけで背筋に甘い痺れが蘇る。
シリウスは恐ろしい。伊達に竜の一ツ星を持っているわけではない。毎度その制圧力には舌を巻く。有無を言わせぬ熱を帯びた眼光に抗うすべなど、スピカにはまるでなかった。
ぶんぶんとひとりかぶりを振っていると、表から剣を振り抜く音が聞こえてくる。空を切り、風を纏う音。窓辺に寄ってカーテンの隙間から覗くと、庭先でシリウスが剣を振るう姿が見えた。日の出とともに起き、剣の型を確かめるのが彼の日課なのである。
最初こそがらんとした寝台に驚きしょげたものだが、彼の剣の美しさを見られることに気づいてからは、こうして窓から覗き見ることがスピカの密かな楽しみになっている。
今日もシリウスは美しい。紺碧の髪が朝の光を弾いて煌めき、しなやかな体躯が舞うように型を取る。時折、金色の魔力がふわりと靡き、庭の木々の朝露を照らす。
思わずほう、と溜息をもらして見つめてしまうが、そうとばかりもしていられない。身を清めて支度をせねば、神殿の朝の務めに間に合わなくなる。スピカはそっとカーテンを戻し、そそくさと浴室に向かった。
「おはよう、スゥ。身体は大丈夫か?」
美貌の夫にそう微笑まれた妻は、大盛りのパン籠を手に頬をこれでもかと膨らませた。
「ご自分の胸に聞いてください」
「いや、俺だってあそこまでやるつもりは……。あなたがあんな風に『もっと』と強請るから、」
「シリウスっ!」
「……すまない。そもそも今日は仕事だったのに、無理をさせたな」
苦笑してスピカの髪を撫でるシリウスは、反省の言葉を口にはするものの、悪びれた様子は少しもなかった。益々スピカの頬は膨らむ。
「スゥ?」
「…………」
「ほら、機嫌を直してくれ。食べて出掛けよう」
シリウスはパン籠からひとつデニッシュを手に取って、それをスピカの口元にとんと当てる。甘い香りがふわりとして、空腹だったことを思い出し、スピカは仕方なくそれをぱくりと食んだ。その様子にシリウスが微笑む。
「スゥは朝から可愛いな」
恥ずかしげもなくそう言って、そっとつむじにくちづける。出会ったときからは考えられないような仕草と、甘やかにとろける声。伴侶としてともに過ごすようになってから間もなく半年経つが、受け取る方のスピカは毎回息も絶え絶えだ。
「シリウスこそ、今日も幸せそうで何よりです」
「……ああ」
スピカの手からパン籠をするりと奪い取り食卓に運んだシリウスは、スピカを振り返って小さく呟く。
「あなたも幸せなら、いいのだが」
「幸せですとも」
二人で顔を見合せて笑っていると、時計がポーンとひとつ鐘を鳴らして急ぐようにと知らせてくる。シリウスもスピカも、慌てて朝食の支度を再開した。
◇
大急ぎで支度を終えると、施錠をして、二人は徒歩で神殿に向かう。二人の自宅は神殿にほど近いところにあるので、徒歩でも四半刻と掛からずに到着する。
伴侶生活を恙無く堪能しているとはいえ、これはれっきとした護衛任務である。シリウスは外出の際、スピカの手を決して離さず、常に帯剣し、周囲を警戒することを怠らない。スピカもそれを分かっているので家の中より二人は言葉少なになる。
神殿に着くと、入口で神官に取り次ぐ。神官長が現れるのを待ち、直接シリウスがスピカを引き渡して、朝の護衛任務は終わりだ。
「行ってらっしゃい、シリウス」
「ああ。また夕刻に」
「今日は討伐は?」
「出る。昼前には終わると思う」
「……無理は、」
「しない。あなたの伴侶となってから、怪我のひとつもしていないだろう? 心配いらないよ」
琥珀をこれ以上なく緩ませ、優しい声音で告げたシリウスは、極自然にスピカの横髪を払い、空いた頬にくちづけた。
これは何日かに一度シリウスが仕掛ける悪戯で、今回は十日ぶりくらいになる。すっかり油断していたスピカは、周囲の視線がわざとらしく一気にそらされたのを感じ、顔を真っ赤にして頬を手で覆った。
「……、…………っ!!」
「では、行ってくる」
スピカの反応に深く笑んだシリウスは、涼しい顔で神殿を後にする。
神官長に行こうと肩を叩かれるまで、スピカはその場で顔を覆って立ち尽くした。
◇
シリウスは、神殿の馬車を引く馬たちの厩舎に、自分の馬を一頭置かせてもらっている。スピカを送り届ける時間はかなり早い時間なので、まだ馬車通りも少ない。シリウスはその馬を走らせ、王城へと向かう。
王城に着くと騎士団の厩舎に馬を預け、執務室へ向かう前に訓練場に足を伸ばす。早朝に自主訓練を行っている騎士たちがいるのだ。それを毎朝、シリウスは覗きに行き、必要であれば手ほどきをする。
隊長自ら、誰にでも――それこそ新人であろうとも指導してくれるとあって、騎士団内では密かに人気のある早朝訓練なのだが、「人数が増えるとシリウスが延々と訓練を続けてしまう」という理由で、内々に人数制限が設けられている。因みに、当の本人はそれを知らない。
今日もきっかり十五人の騎士たちが訓練を行っているそこへ、シリウスは入っていく。一刻ほど、そのまま訓練場に入り浸った。
早朝訓練がお開きとなると、シリウスは漸く執務室へ向かう。それでもまだ通常の出仕には早い時間となるので、シリウスは今日の討伐隊の作戦を確認し直すことにした。王都西の門近くでやや強い個体の獣が目撃されたので、周囲の警戒と必要ならば討伐を行うというもので、小隊三つで対処に当たる予定になっている。
本来なら隊長であるシリウスが出るほどの作戦規模ではないのだが、彼は余裕があるときは出来るだけ現場に出るようにしているため、今日もそちらに赴くつもりだ。
そうこうしているうちに、ディズが執務室にやってきた。いつもよりやや遅い出仕だろうか。互いに挨拶を交わし、予定を確認すると、討伐隊に加わるため部屋を出る。
「すいません、寝坊しまして」
「珍しいな。何かあったのか?」
「何か……、まあ、はい。ちょっと、嫁と、夜更かしを」
気まずそうにそれだけ告げてくるディズは、最近結婚したばかりだ。そういうこともままあるだろう、とシリウスは頷く。
「遅刻というわけでもなし、気にするな」
「……はい。しかし、隊長は毎日早いですねえ」
「そうだな。神殿に行くのが早いから、騎士団に入るのも早くなった」
「なるほど」
ディズは頭にシリウスの伴侶であるスピカを思い描く。相変わらず大切にされているな、と思わず笑みがこぼれたところに、シリウスが続ける。
「だが、俺も流石に今日は眠い。昨日はやはりやり過ぎた」
思わずディズの足がぴたりと止まった。それにシリウスがどうした、とこともなげに振り返る。
――これは、大切にされ過ぎている様子。ディズの顔が思わず引き攣る。
「…………、……隊長、そういうタイプでしたっけ?」
「以前ディズから酒の席で聞いた話がとても役に立っている。ありがとう」
「…………、……」
小隊を率いていた頃、男同士の席で酔いに任せてしてきた下世話な話が、あの少女に今災難として降り掛かっていると思うと、ディズは言葉を失う他ない。
「さ、行くぞ。時間に遅れる」
シリウスに促され、心の中で深く深く謝罪しながら、ディズは止めていた足を先へと進めた。
◇
討伐隊の任務は、シリウスの宣言通り午前のうちに終わった。目撃されていた獣の討伐もあったものの、シリウスが出るまでもなく、小隊の騎士たちが問題なく対処した。
今回も聞いていたより獣が弱体化していたな、とシリウスはひとり思う。シリウスは何となくその理由に見当がついていた。神殿にいる『星』が、特定の場所に向けて聖歌を歌っているのではないか、というものだ。
シリウスが討伐に出るというと、毎回のように起こるのだから、あながち外れてはいないと思う。
神官見習いとして騎士団にいたときも、『星』は神殿で歌を歌っていると言っていた。遠くからでも何か影響を及ぼす効果があるのは間違いない。
ただ、シリウスは未だに聖歌の効果について詳しくは知らないし、今後も知ろうという気もないので、彼女がそういったことを『御業』として行っているのかは分からないままだ。別にそれで構わない。もしそうなら、彼女が自分を案じてくれているのだと感じて嬉しい、という程度のことなのだ。
討伐から戻ったあとは、スピカから口を酸っぱくして言われているので、必ず小休憩とする。その後、午前の訓練に少しだけ顔を出し、間もなく昼の鐘が鳴った。
きちんと昼食を摂り、午後は執務室にて書類仕事。間にひとつ隊長格の会議に出席し、大きな出来事もなく一日が終わる。
終業の鐘とともに、シリウスは執務室の席を立った。定時にきちんと上がらなければ、神殿の迎えに差し支えるのだ。スピカと結婚してから、余程のことがない限りシリウスの残業は発生していない。
「上がるぞ、ディズ」
「はい隊長。お疲れ様でした。戸締りはしとくんで、先出てください」
「悪いな」
「いえいえ。スゥちゃんに宜しくお伝えください」
ディズはそう言いながら手元の書類を纏めていたが、ああそうだ、と思いついたように言葉を続けた。
「隊長。……今日はよく寝た方がいいと思います。隊長じゃなく、スゥちゃんがね」
「……分かって、いる」
シリウスのいかにもばつが悪そうな様子に、ディズは仕方がないなとばかりに笑ったのだった。
◇
シリウスは王城からまた馬に乗り、神殿へと向かう。夕刻の街道は馬車で混み合うので、帰りは王城の裏の森を抜けるルートを取っている。本来は立ち入りの制限されている場所なのだが、特別に陛下が許可を出してくれているのだ。
朝と同じ厩舎に馬を預け、シリウスは神殿の入口へ急ぐ。取り次ぐまでもなく、スピカはそこにいた。案内に立つ神官と立ち話をしていたようだ。
「スゥ、待たせた」
「シリウス。お帰りなさい」
声に気づいたスピカが、目を細めて微笑む。柔らかなその表情は、何度見ても美しく、不思議となつかしく、なにより愛おしい。
神官に挨拶し、スピカの手を取って帰路に着く。まだ終業の鐘が鳴ってからそう経たない時間だ。あちこちから話し声や馬車の音が聞こえてくる。
シリウスは警戒を解かないまま、スピカに問う。
「待たせてすまなかった。話をしていたのか?」
「はい。あなたさまの話を、少し」
「俺?」
思いもよらない返事に、シリウスがスピカの方に視線をやった。
「はい。素敵な旦那様だと言われましたので、そうでしょうそうでしょう、と胸を張っておきました」
ふんす、とやりきったような顔をしてスピカが言う。自分は特別なことは何もしていないのにな、と少し照れくさくなり、シリウスは視線を前へと戻した。
「素敵な旦那様のため、今日はとびきりの肉を焼きましょう」
「はは、それは嬉しいな」
夕飯のことを思い描き、自分もひと品くらい何か手伝おうかと考えていると、ぎゅっと強く手を握られる。驚いてシリウスがスピカを振り返ると、スピカが眉を下げてこちらを見ていた。
「――討伐、何事もなかったのですね。……よかった」
スピカは、シリウスが我が身を省みないことをよくよく知っている。だからこそ、離れている間に何かあるのではないかと、そればかりがいつも恐ろしい。
スピカには出来ることなど殆どない。彼を想って少しばかり歌を歌うだけ。それだって、助けになっているかどうかは甚だ疑問だ。
どんなに些細な討伐作戦であっても、スピカは心から彼の身を案じている。だから今日は早い時間から神殿の入口で待ち侘びていたのだが――、スピカはそれをシリウスに伝えるつもりはない。
シリウスは笑う。
「俺の出番すらなかったよ。このままでは腕が鈍りそうだ」
「おや。平和でよいではないですか」
「いざというとき、あなたを護れなくては困る」
「……シリウス」
熱を帯びた紅色のまなざしが揺れている。
シリウスはそれを直視することが躊躇われて、僅かに目を眇めた。
そこで、丁度よく家に辿り着いた。さっさと鍵を開け、玄関に滑り込むと、シリウスは愛しい妻を抱き寄せる。スピカは僅かに驚いた様子だったが、それに構うことなく思うまま深くくちづけた。
浅い呼吸音と、熱に浮かされた小さな声、それから少しぬたりと粘ついた水音。
夕食の時間は、予定より半刻ほどずれこんだ。
◇
「今日はもう絶対このままぐっすり寝ていただきますので」
スピカが寝台の上に座り、そう宣言する。
よい大人の二人にとってはまだまだ夜更けには早い時間。シリウスは既に横になり、きっちり掛物を肩まで掛けている。
「歌う?」
「やむなしです」
「久々な気がする」
「あなたさまが普通に寝てくれれば妾はこんなことをせずに済むのです!」
帰宅直後の戯れが更に効いてしまったらしく、今日はこのまま強制睡眠の流れになったのだ。
そう多くはないが、こういうときもなくはない。理由はその時々であるが、一番多いのがこの『シリウスがスピカを構いすぎる』なのは、非常にいただけない話だ。
「自重なさいませ、シリウス」
「……分かった。あなたがそう言うなら、求められるまでは触れないよ」
シリウスはそう言って神妙に頷く。
彼はとてつもなく真面目な男であるから、この言葉は口だけではない。暫くは護衛で必要なこと以外は一切何もしなくなるだろう。
スピカが僅かにたじろぐ。それはつまり、触れて欲しくば、求めねばならないということだ。
「きょ、極端では?」
「そうでもしないと、歯止めが効かない」
至極当然とシリウスが答えた。スピカは思わずぐぬぬと唸ったが、とにかく今日もあんな目にあっては体が持たないことだけは確かだったので、それ以上問うのはやめにした。
明日のことは、明日考えよう。スピカは余りの眠気に、全てを諦めて放り投げた。
「では、お休みなさいませ」
「ああ、お休み」
柔らかく笑んで、シリウスが瞳を閉じる。スピカもその横に擦り寄るように横になり、普段なら抱き留めて眠る彼が本当に触れてこないことに苦笑しながら、る、ら、ら、と歌を紡いだ。
(本当に、魂から強情)
シリウスは三音で眠ってしまったようだ。あんなことを言いながら、とても眠かったのに違いない。
紺碧の髪にさらりと触れ、スピカは自分からシリウスの胸に額を寄せる。
そのあたたかさがとても心地よくて、スピカは自分に子守唄を向ける必要もなく、するすると眠りに落ちたのだった。
数日後、全く自分に触れてこないシリウスに感情が爆発したスピカが、珍しく乱れに乱れたくちづけを贈ったことで、二人はその日見事に仕事に出遅れた、という。
また書きたい話が浮かびましたら追加しますが、とりあえずここまで。お読みいただきありがとうございました。




