ふたたびのマルシェへ
時間軸は本編後一ヶ月半ほど。同棲開始から二週間。マルシェに行こうという話ですが、デート要素だけでなく、酒盛りと改めての告白とシリウスの鋼の理性の仁義なき戦いが含まれます。
全部で12000〜13000字ほどあります。長いですが、あえて分けておりません。お暇な時にでもお読みください。
シリウスが次の休日に市場へ行かないか、とスピカを誘ったのは、二人の新居が漸く片付いた矢先のことだった。スピカはそれを勿論二つ返事で了承した。
思い出されるのは、ふた月ばかり前になろうかという、手を繋いで歩いたあの日。それから、伴侶になろうと誓ったときにシリウスが告げた、何度でもまた連れて行けるという言葉だった。ここ最近ずっと休みを引越しの片付けに費やし、ゆっくりするどころではなかったはず。漸く休みらしい休みを取れるというときに、こんな誘いをしてくれるなんて。スピカはそれが少しだけむず痒く、けれど何より嬉しかった。
「今度は時間の制限はないのだし、夜の屋台を回ってみないか?」
「夜! マルシェは夜まで開いているのですか?」
「ああ。そう遅くまでではないが、日が暮れたあとは蝋燭やカンテラがついて、また雰囲気が変わるらしい。売り物も」
「売り物も!」
「恐らく酒に関係するものだと思うが……」
なるほど、夜の屋台では酒やその肴を出す、という訳か。スピカは当然夜の街で飲み歩いたことなどない。聞き及ぶ話では、酒の席は明るく楽しいものだそうなので、一度くらいは体験してみたいものだった。
「スゥ、酒は……」
「お恥ずかしながら、成人してより飲む機会もなく」
「飲んでみたいか?」
「……分かりません。シリウスはお酒を飲まれるので?」
この男と夫婦となり暮らし始めて幾らか経つが、スピカは彼が飲酒する場面に出くわしたことはない。この家にも酒類の備蓄はなく、シリウスがそこまで飲酒に固執する様子がないということしか分からなかった。
「まあ、それなりにな。余り酔えない体質だし、積極的に飲もうとは思わないが……付き合いもあるから」
「お強いのですね」
「そうだな。少なくともディズの面倒はいつも俺が見ているよ」
「ふふ、左様で」
その様子を思い浮かべ、スピカは小さく笑う。シリウスより年上で、部下ではあるが彼をいつも弟かのような視線で見ているあのディズが、酒の席ではシリウスに甲斐甲斐しく介抱されているというのは、何とも可愛らしいなと思った。
「だから、もしあなたが飲んでみたいというのなら、付き合える。万が一どんなに酒に弱くても、俺が抱いて帰ってこられるし」
「抱、い……」
「大丈夫。多少酔っていようが、片手があなたで塞がっていようが、護衛に差し支えるような真似はしない」
安心して欲しい。そう言われたが、スピカは別の意味で全く安心できなかった。まさか酔っ払ったあげく家まで抱っこされたまま帰宅するというのは、羞恥の極みだろう。ぶんぶんとかぶりを振った。
「さ、酒は、その、家で、ふたりのときに、教えてください」
「…………」
「いや、決して! 決してあなたさまのお力を疑っているわけではなく! そうではなく……!」
「……わかった。では、酒は土産にしよう。帰ってからふたりで、飲もうか」
慌てるスピカにシリウスが目を細めて笑った。とても綺麗な笑顔だったが――、その瞳の奥には僅かな色香が揺らめいていた。スピカの背筋がぞくぞくと震える。何か、目の前の彼の男を焚きつけるようなことがあったか……!? と狼狽えるものの、スピカには思い当たることなど出来るはずもなく、なすがまま伸ばされた指に頬を撫でられるばかりだ。
「今回は昼過ぎに出かけて、日が暮れるまで回ろう。それでいいか?」
「……は、はい。それなら朝はゆっくりできますね」
なにせ、暫くぶりの休みらしい休みなのだ。休みだからといってお互い日々のルーティンから起床時間が外れることはあまりないのだが、少しくらいは寝坊したっていいだろう。シリウスがゆっくり眠れれば。スピカは純粋にそう思って言葉を継いだのだが。
「…………。スゥは俺をからかうのが本当に上手いな」
「何の話ですか!?」
シリウスの目は尚更眇められ、悩ましげな視線が情欲の色を深めていく。それを目の前にしたスピカの驚愕は、訳も分からぬままくちづけによって封じられてしまった。
◇
次の休日。いつもの時間にお互い目を覚ましたものの、寝台の中で髪に触れたりそこここにくちづけたり、のんびりと微睡んで早朝をやり過ごしたふたりは、いつもより二刻遅れの朝食を摂った。
さて、これだけ並べるとよほどただれた夜を過ごしたかと思われそうな状況ではあるが、まだふたりは夜の務めを果たしてはいない。ともに暮らしてたったの二週間。そもそもシリウスは、スピカが誕生日を迎え、十七になるまでは絶対に手を出すつもりはなかった。それがあとひと月ほど先のこと。そのため、寝台をともにし、軽い触れ合いはするものの、ふたりはまだ清い関係である。
遅い朝食が終わると、各々身支度にかかる。
前回のマルシェへ出かけたときのことはどうだったかわからないが、今回については間違いなく世に聞くデートというやつである。スピカは鏡台を前にしてひとり気合を入れた。今こそ、花嫁修業の成果を見せるとき。化粧や髪結いも王城のメイドに少しばかり習ってきたのだ。本格的にとはいかないが、それなりに整えるくらいはできる。
薄く粉をはたき、最低限に紅を引いて、香油で広がる髪を少し抑え、髪留めで一部を括って留める。それだけで、普段殆ど装わないスピカだってそれなりにはなるのだ。
神殿を出る時に持たされた数着の外出着の中から、レース襟のついた葡萄色のワンピースを手に取って鏡と睨めっこ。うん、とひとつ頷いて袖を通す。優しいベージュのカーディガンを羽織り、肩掛け鞄を手に取って、これで完成だ。
そろそろとリビングに出ていくと、シリウスは既に支度を終えていたらしく、ソファに腰掛けて本を読んでいる様子だった。白いシャツに褪せたココア色のトラウザーズ姿。薄手のジャケットが近くに掛けられているから、あれを羽織っていくのだろう。
――シンプルな服装が、絵になりすぎている。今日も美貌の旦那様は格好がいい。ほう、とスピカは思わずため息をついた。シリウスがその気配に気づいて振り返る。
「スゥ。支度――、……」
中途半端に途切れた言葉に、スピカが苦笑する。
「おかしく、ないですか?」
こんな綺麗な夫の隣に立つには些か不安だな、とスピカは自分の身支度を密かに恥じていたのだが、シリウスの方はというと相応しい言葉が瞬時に見つからず、数秒沈黙したあと、ぶんぶんと慌てて首を横に振った。
「似合って、る。…………、かわ、いい、な」
シリウスが吃りながら何とかそう告げて、はにかむ。すると、そんなふうに褒められるとは思ってもいなかったスピカは、みるみるうちに頬を真っ赤に染めた。
「その、シリウスの隣に立っても、大丈夫そうですか?」
「う、ん?」
「あなたさまが、素敵すぎて」
「いや、それはこちらの台詞だろう。……頼むから、俺の隣以外には、立たないで」
嗅ぎなれた花の香りのする髪を掬い、くちづける。
今日の護衛はいつも以上に気をつけなくては、こんなに可愛らしい妻などすぐ攫われてしまう。真面目に思いを新たにするシリウスは、スピカが落とされた言葉とくちづけに身動きが全く取れなくなっていることにはついぞ気づかないままだった。
◇
遅い朝食に合わせ、遅い昼食がマルシェで取れるようにとふたりは家を出た。前回行った時よりも季節は冬に近づいたので、暖かいメニューが増えているかもしれない。そんな話をしながら、馬車に揺られていく。
「食べたあとは、食器や敷物を見たいな」
「そうだな。生活に足りないものもまだあるし、見繕えるといい」
この機会に気に入るものがあれば色々買ってしまおう。ふたりは楽しげに頷き合う。
荷物が多くなれば、マルシェと提携している配送業者に頼めば後日届けてくれるよう手配もできる。絨毯のような大物を買っても、その後マルシェを手ぶらでまた楽しめるよう配慮がなされているのだ。心配なく買い物にいそしめる、というわけだ。
「今回のスゥには、お小遣いではなく、お給金がありますし!」
「はは、神官になったから給金が出たと喜んでいたもんな」
「はい!」
頬を染めて嬉しそうに鞄を撫でる姿に、シリウスの表情も綻ぶ。前回はどこか遠慮がちに店を回っていた彼女も、今回こそは目いっぱい楽しんでくれそうだ。
(――また、連れてこられて、良かった)
またいつでも来られる、なんてあの時は言ったけれど、もう二度と叶わないだろうと心のどこかで思っていた。少し前の自分が聞いたら全く信じられないような今の状況に小さく微笑んで、鞄に添えられていた彼女の小さい手に自分のそれを重ねる。すっぽりと覆い隠して見えなくなった彼女の指先を親指でつつ、と撫ぜると、急な触れ方にびくりとスピカの肩が跳ねた。
「っ、シリウス……、なに……」
「いや。あなたが愛おしいなと思って」
「う……お給金の話をしていてどうしてそう……」
みるみるうちに真っ赤に染まる彼女に、シリウスはただ笑みを深めた。端正な顔に浮かんだその表情はあまりにも美しく、間近で浴びてしまったスピカは途端に息も絶え絶えになる。これは、――いけない。ぱっと目を伏せて、数度深呼吸。何とか鼓動を落ち着けようと頭の中で聖典の一節を諳んじる有様である。
そうこうするうちに、ごとり、大きく馬車が揺れ、重なっていた手が自然と繋ぐ形に変えられた。
「もうすぐ着く。……今回も、手を離さないようにな、スゥ」
「……承知、していますとも」
「なら、いい」
ふふ、と笑うシリウスの声を聴きながら、手を繋いで彼が自分のものと主張しておかないと、あっという間にこの綺麗な男こそ誰かに連れられてしまうのではないかと、ひとり眉を寄せるスピカなのであった。
◇
マルシェは以前来た時と同じく、沢山の店が軒を連ね、賑わいを見せていた。昼食どきとしては少し遅い時間ではあるが、休日であることもあって、人出はそれなりだ。
前回来た時は一応、『ただの神官見習い』であったスピカだが、今回は彼女が『星』であると理解した上での外出である。今、護衛として動けるのは、シリウスが知る限り自分だけ。もしかしたら、国から秘密裏に暗部でもついているのかもしれないが、そんなイフをあてには出来ない。手放しで妻とのデートを堪能するわけにはいかないのだ。
の、だが。
「シリウス、次はあちらへ! はっ、あれも美味しそうですね……、どうしましょう、どちらを先に……?」
(少しだけ、浮かれても、……良いだろうか)
可愛らしくころころと表情を変えるスピカを見ていると、どうにも表情筋がゆるゆるになってしまう。とにかく可愛い。愛おしい。繋いだ手を指を絡めるように結び直し、周囲を警戒していた目線を蕩かせてスピカの方に向けた。
「ん、……どうしました、シリウス? 何か食べたいものがおありです?」
「うん……、ああ、いや……」
冗談でもあなたを、などというのは愚行だろう。小さく首を振ると、スピカがやや不満そうに口を尖らせた。
「妾ばかり選んでしまって……、あなたさまの好きなものも仰ってくれませんと」
「ん……。それなら、焼きたてのソーセージが食べたい、かな」
「ソーセージ! 良いですね! あちらにあった気がします、行きましょう!」
手を引かれて、シリウスは苦笑してそれについて行く。
少しだけ、の時間は一旦終わりだ。職務に忠実なシリウスは、すぐさま気持ちを切り替えた。ろくに前を確認しないスピカの代わりに、視界ある限り目を配り、彼女の背後は自分が覆うように立ち回る。対人護衛の技術はまだまだ習得途中だが、失敗は許されない。
「シリウス、ありました!」
「慌てるなスゥ、ひとにぶつかる」
「ふふ、大丈夫です。だって、」
くるり、振り返ったスピカは、シリウスの予想を裏切り、少しだけ申し訳なさそうな笑顔を浮かべていた。
「あなたさまが、護ってくれているでしょう?」
自分の警戒に気づいていたのか。シリウスは僅かに目を瞠り、護衛対象に気を使わせるという自分の未熟さに恥じながらも、確かに頷いて見せる。
「それは、――必ず」
「ならば、案ずることはありませぬゆえ」
苦い色を消して今度こそ綺麗に微笑んだスピカは、軽やかな足取りのまま人波を進んでいく。シリウスはその背を追いながら、相変わらず彼女には敵わないなとひとり噛み締めた。
◇
お腹いっぱい屋台を巡ったあと、少しだけ食休みをして、ふたりは食べ物の区画からそれ以外の小物や物品の並ぶ区画へと移動した。
来客用のティーセットや、色硝子製の七色コップ、冬に使えそうな毛足の長いラグ、削り出しで作られた可愛らしい装飾付きの木製カトラリー。めぼしいものを購入し、それらを家に纏めて送って貰えるようお願いした後、改めてゆっくり店を周り直さないかとスピカがシリウスを誘った。
「何か買いたいものがあるのか?」
「ん、……んん。そう、あの……」
口ごもって目を泳がせるスピカに、シリウスは小首を傾げた。スピカはええと、と再度言い淀んでから、ゆっくりと視線を上げてシリウスの方を上目遣いに窺ってくる。
「迷惑で、なければ」
「うん」
「あなたさまが、毎日身につけられるものを、買いたくて」
「うん、……ん? 俺?」
予想外の言葉に、一瞬通り過ぎそうになった思考を引き戻す。つまり、自分に何か贈りたいということか。シリウスは思わず数度瞬く。
「どうして、急に」
「急ではないんです。……あなたさまに、本当は、これを差し上げるつもりでしたでしょう。なのに、スゥが貰ってしまって」
そう言って胸元の石を片手でいじる。
それは、前回のマルシェで、彼女が買って手渡そうとした、魔力を込められるという石だ。元は半透明で色のなかった石だが、シリウスの魔力を込めてからは、彼の瞳と同じ琥珀色に色を変えている。
スピカはずっと密かにこれを貰ったままだったことを気にしていたのだ。この首飾りを大切に想っているからこそ、尚更だった。
「シリウスに、なにか、返したくて……」
いいのに、何もいらないよ、と返すのは簡単だが、そんな風に思ってくれていたスピカを、シリウスが無下にできるはずもない。考えながら、言葉を返していく。
「剣を使うから、手や腕に付けるものは、難しい。服飾関係も、団の指定のものを使うから……毎日は身につけられない。そうなると……、そうだな、ここなら」
そう言って、シリウスはその長い指で自分の前髪をさらりと耳にかけた。そして、普段見え隠れしている形の良い耳朶を、とんとんと指し示す。
「み、耳飾り、ですか」
「うん。穴を開けても構わない」
「かっ、構いますが!?」
「だが、ピアスの方が、カフより落とさないだろう?」
さしたることもない風にそう言って、シリウスは真剣な表情で首を傾げた。スピカから貰ったものをなくすのは、耳に穴を開けるよりずっと痛ましいことである、ということらしい。
スピカは暫し唸って、名案がないものかと言葉を絞り出した。
「……カフを……、落とすような……、危険なことをしないように、と願をかけて……、カフを贈りましょう」
「そうか?」
「そうです、そうですとも、我ながらいい考えです! 早速探しに参りましょう!」
ふんす、とスピカは胸を張る。先程の買い物の途中で銀細工の装飾品が並んだ店を見かけていたから、そこに行こうと手を引く。
店先にはすぐ辿り着いた。繊細な細工の施された銀製の装飾品が、黒い布の上に並んでいる。
花を模したブローチ、蔦草の模様の指輪、鳥の羽根を象ったペンダント。
どれも精緻で美しい。腕の良い職人が作ったのだろう。
順番に見ていたスピカの目がぴたりと止まる。目当ての耳飾りだったから、と言うのもあるが、何よりもその細工が美しい星を頂いていたからだった。星を囲むように細かい模様が刻まれた、形としてはごくシンプルなものだ。
――彼の身近に、『星』を置く。
それは酷い自己満足ではなかろうかとも思ったが、彼は星に縁深いひとだから、そうとは分からず受け取ってくれるやもしれない。
スピカはほんの僅かの間ひとり逡巡していたものの、一息ついてから、うん、と頷いて心を決める。
「これ……、」
「そうだな。これがいい」
そろそろと指を伸ばしたとほぼ同時だった。重ねるようにシリウスが同意する。
「星の意匠だろう。俺にとっては特別だからな、『星』は」
スピカは赤面する。だって、彼の言葉の裏がありありと読めてしまったから。自分が浅ましく考えていたことを、するりと肯定されてしまったから。
「星を――俺にくれないか?」
まるで求婚でもするかのような言い回しに、甘い声。緩んだ琥珀がスピカを見つめている。スピカは勢いこくこくと首を縦に振った。
「店主、これを、これを言い値で」
「いやスゥ、この支払いは俺がしないと。その石を買う時、そうだっただろう?」
「でも……」
「これでおあいこだ。そうさせてくれ」
ぽんぽんと、宥めるように頭を撫でて、シリウスは財布から本当に言い値のまま硬貨を取り出し店主に渡した。入れ替わるようにスピカの手元に美しく小さな銀細工がそっと載せられる。
「スゥ」
「はい」
「つけて欲しい」
「ぅえっ、」
「俺もあなたにつけたろう? それもおあいこにしてくれ」
珍しく悪戯な色を載せて微笑んだシリウスに、スピカはただただ狼狽えたのだった。
◇
前回のマルシェでも立ち寄った四阿で、夕暮れを眺めながらふたりは一旦足を休めることにした。スピカの瞳の色に似た紅色がゆらゆらと空の端に滲み、シリウスの髪色に似た紺碧の帳が降りようとしている。街は橙の光に溶けるように照らされ、とても美しい眺めだった。
スピカはそんな美しさを堪能する余裕もなく、震える指でシリウスの耳にカフを嵌めた。緊張しすぎてかすめた指先に、シリウスが低く声を漏らしてくすぐったいなどと言い出した時にはもう頭が沸騰して倒れるかと思ったものだが、何とか聖典の暗唱をすることで事なきを得た。
シリウスはとても嬉しそうにしていた。耳介の上の方に付けられたカフに触れて、大切にすると静かに微笑んだ。これからはこのカフをつけたまま騎士団に出仕すると彼は言う。想像するだにとても面映ゆく、照れくさいな、とスピカはひとり呻いた。
「スゥ、ほら、灯りが」
そう声をかけられ、スピカはようやく目線を街の方へと向けた。やや高台にある四阿からは、街のみならず屋台の様子が良く見える。ぽつぽつと、ガス灯が灯るのに合わせ、屋台にも灯りが灯されていく。カンテラに色硝子でも使われているのか、様々な色合いの光がさざめくように揺れている。
「綺麗……」
紅色の瞳に、沈みゆく夕日の黄金と、街の淡い灯りが映り込んで、宝石のように煌めいていた。シリウスはその横顔を目を細めて見つめる。
(また、来られて良かった。本当に)
噛み締めるように何度もそう思う。こうして傍を許されてから、日毎彼女を愛おしいと思う気持ちが溢れて止まらない。
自分の気持ちもはっきりしないまま、もしあのときあのまま別れていたならば、どうなっていたのだろう。頭の硬い自分のことだ、曖昧な情を抱えたまま、一生を終えていたのかも。シリウスはそっと思い巡らす。
そして、ただ、伝えたくなった。心の内に今はっきりと抱く、この想いを。
「スゥ」
「はい」
「あなたが好きだ」
「は、……、は、い、?」
「……好きだよ、スゥ」
それは、はじめてくちづけたあの日より、明確な告白であった。
スピカの言葉は、ひとつも出てこなかった。呼吸を止めて、瞬きすら忘れて。赤く染まる頬を隠すことも出来ずに、目の前の綺麗な顔をした男が、ひどくゆっくりと笑うさまを眺めるばかりだ。
(――なんで、急に)
どっ、どっ、と早鐘を打つ鼓動が耳の奥で反響する。甘い視線に絡め取られ、金縛りのように動けない。
ただ、好きだと言われた。それだけのこと、なのに。スピカの思考はめちゃくちゃに揺さぶられて、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
『星』である間、こんな感情に飲まれたことはない。スピカが彼に出会ってから抱く心は、生まれて初めてのものばかりだった。ぐずぐずとその場に溶けてしまいそうだ。喉が干いていく。返事をしなければ、――したいのに、上手く声が出てこない。
「……、…………っ」
「――そろそろ、行こうか。美味い酒を買って、帰ろう」
長い沈黙に、相手を困らせたろうかと思ったシリウスが、何事もなかったようにそう言って腰を上げようとする。だが、追いすがるように彼の白いシャツが引かれ、中途半端な体勢でシリウスは動きを止めた。
「ス、ゥ?」
どうした、と。問うはずの言葉は、自分に向けられた燃えるような熱を秘めた紅色の瞳に飲み込まれてしまった。視線がそらせないうちに、スピカの唇がわなないて、から回って。随分遅れてから、震えた声がシリウスへようやく届いた。
「……妾、も。……あなたさまの、ことが……、……すき…………」
涙がこぼれそうなほど潤んだ瞳が、ゆらりと揺れる。真っ赤な頬、不安げに揺れる睫毛、僅かな呼吸音さえも。
全てがあまりに愛おしく、鮮烈で。抑えきれない歓喜のまま、シリウスは細く小さいスピカの体躯を掻き抱いた。
◇
夜のマルシェは酒に酔った客たちのふわふわとした雰囲気も相まって、昼とは全く異なる空気が流れていた。シリウスとスピカは変わらず手を繋いで、けれど昼よりも近い距離感で人波を進んでいく。それは足取りの覚束ない酔っ払いとの衝突を避けるためか、それとも改めて想いを確かめ合ったためか――、ともあれ、ぴたりと寄り添い歩く姿は、夜の雰囲気には似合いであったろう。
色鮮やかな酒瓶や、注がれたカクテルに目をやりながら、気になった食べ物を買って食べ歩く。昼に比べると塩味や辛味の強いメニューが多い。粗挽き胡椒の効いた豚串や、香りの良いガーリックトースト。ふわふわの卵が溶けた真っ赤な辛そうなスープに、濃厚なチーズソースのショートパスタ。片手に持っていたレモネードがどんどん進んでしまう。
「これが、酒が進むというやつ……」
スピカがまじまじとレモネードを眺めて呟くので、シリウスは思わず笑ってしまった。
昼が遅かったので、夕飯代わりの食べ歩きはそこそこのところで切り上げ、ランタンや蝋燭に照らされた屋台の様子を眺めながら、土産とする酒を探す。
はじめて飲む酒なら口当たりの良いもので、酒精の弱いものが良いだろう。炭酸水で割れる果実酒などもいいかもしれないが――、シリウスはひとり思案する。
「スゥは甘いものの方がいいか?」
「そうですね……、その方が飲みやすいかもしれません」
「おっ、お二人さん、酒をお探しかね?」
目の前の出店の店主が明るい声を掛けてくる。酒瓶がこれでもかと並んだ店先、なるほど目当てのものを探すにはぴったりな店であるらしい。
「ああ。彼女がはじめて味わう酒を探している」
「お嬢ちゃんのハジメテ! ヒュウ、そりゃァいい、取っておきがあるぜぇ」
にたりと笑って見せた店主は、鼻歌交じりに瓶を探しだす。この調子からするに、店主は既にすっかりできあがっているらしかった。シリウスとスピカは顔を見合せて苦笑する。
「おっ、これこれ、これよォ! アイスワイン!」
小ぶりの瓶は、美しい黄金色の液体で満たされている。これはまた高級品をだされたものだとシリウスは苦笑を深めたが、確かにこのワインならば、間違いなく彼女も喜んで飲めるだろう。
あまいあまい、デザートのような、アイスワイン。
「貴重品だから値は張るがな、いいトコで取れたお墨付きの一本だ。小瓶だしな、記念として飲むにゃァ相応しいだろうよ」
言われ、シリウスはスピカに向き直る。
「スゥ、葡萄ジュースは好きか?」
「え、ええ。ですが、店主はワイン、と」
「ああ。このワインはとても甘いから、ジュースが好きならばきっと気に入る」
「それほど甘いのですか? 葡萄は好きですけれど……」
「なら、決まりだ。店主、それを貰っていこう。彼女と夫婦になってはじめての酒の席なんだ。少し色を付けてくれたら、嬉しいが」
珍しく値切るような口振りで店主に笑いかけたシリウスに、スピカは頬を染めて俯いた。それが効果的だったのだろう、店主は口笛をひと吹きして、一割ほど値引いた上に、つまみのチーズをオマケしてくれた。
「お幸せになァ、おふたりさん!」
瓶とともに贈られた言葉は、気恥しいけれど温かくて。シリウスもスピカも柔らかく笑んで礼を言い、店を後にする。
小さな瓶の入った紙袋を手に、ふたりはゆっくりとした足取りで帰路についたのだった。
◇
ふたりが家に着いたのは、出仕する日より二刻半ほど遅い時間となった。夜としてはまだ早い時間だが、食事を食べ歩きで済ませてしまったふたりは入浴と寝支度をしてから寝室で隣り合う。
小さな丸テーブルに、買ってきたばかりの酒瓶と、使われる機会に今まで恵まれなかったワイングラスがふたつ、並ぶ。注がれた黄金色は澄んでいて、部屋の灯りを反射してきらきらと瞬いていた。甘い葡萄の馨しい香りがする。
「乾杯しよう」
「はい」
慣れない手つきでグラスを取ったスピカに、シリウスは密やかに笑みをこぼした。黄金が揺れて、硝子の合わさる高い音がひとつ響く。
スピカがゆっくりと杯を傾けるさまを、シリウスは静かに見守っていた。ほんの少し、小さな唇が煌めく葡萄酒を含み、こくりと喉が上下する。
はじめての酒は気に入るだろうか。ただそう純粋にそう思って見ていただけなのに、その仕草が酷く艶めかしく感じられ――、煩悩を振り切るようにシリウスもグラスに口をつける。
焼け付くような甘さが口内いっぱいに広がり、目を瞠る。鼻に抜ける香りもとても芳醇で、よい酒だというのが一口で分かる。飲み口が良い分、調子に乗って飲み進めると痛い目を見そうだ、という意味ではとても悪い酒のようだが。
目の前のスピカに目を戻すと、きらきらした目線でグラスを見つめてから、一口、また一口と惜しむように飲み進めている。どうやら気に入ったらしい。
「美味いか?」
「はい! シリウス、これは本当にお酒、なのですか? 葡萄をそのまま液体にして閉じ込めたかのような味がします……!」
「ふ、……気に入ったなら良かった。味とは裏腹にそれほど可愛らしい酒精ではないから、飲みすぎるなよ」
はい! と、元気の良い返事をして、またスピカがちびちびとグラスに口を付け始める。肴に並べたチーズを齧りながら、シリウスはそんなスピカの様子を機嫌よく眺めていた。
他愛のない話をしながら、ふたりの夜の時間は続いた。シリウスがグラスを空け、手酌で二杯目を注いだころ、スピカはまだ半分ほど飲み進めたところであったが、既にその頬は分かりやすいほど上気して、目はとろんと微睡んでいた。
酒精には弱いと見える。はじめての酒を教えたのが他でもない自分で良かったと、心の奥で燻る欲を素知らぬ顔で窘めつつ、シリウスはそっと安堵する。
こんな無防備な妻の姿を他に見せてたまるか。
「しりうすぅ、」
「うん?」
「あのね、あなたさまにはないしょなのだけれど」
「うん」
内緒なのに話そうとしていることに笑ってしまいながら、シリウスは先を促すように頷いてみせる。
「わらわ、ずうー……っとまえから、あなたさまのことばかり、考えていました」
「…………、え、」
にへら、と笑うスピカに、シリウスは返す言葉を見失う。今の今までそんな話は聞いたことがない。これは本当に聞いていい話なのかと思いつつも、好奇心が勝ってしまい、酔った彼女を止められない。
「でも、きっとあえないとおもっていました。だから、あの日……あなたさまを目にして……、でも、疲れきってぼろぼろで……、だから、どんなことをしても、わらわが、しあわせにするって」
「それで、俺のところへ来てくれたのか」
「はい」
流石に酔った状態とはいえ何か肝心なことは秘されている気はするが、それでも普段の彼女であれば絶対に口にしなかったことだろう。シリウスの頬が酔いとは別の理由でじわじわと赤く染まっていく。
「だからね、シリウス……」
「うん」
「シリウスよりスゥのほうが、ぜったい、ぜったい……さきに、すきになったとおもうの」
ふにゃふにゃと笑っていた顔を急にキリッと真面目なものに変えて、スピカが言い切る。
――沈黙。ただただ、シリウスは沈黙した。
口を開いたら、何が飛び出すか分からなかったからだ。
動悸が止まらない。頭が沸騰しそうだった。
「シリウス……、すき……。ずっと、ずうっと……しあわせでいて」
熱の篭った目線で好いた相手にそんなことを言われて、理性がめちゃくちゃにされない人間がいるなら教えて欲しい。シリウスは叫び出したい気持ちを奥歯を噛んで飲み込んで、長いながい溜息をついた。
――相手は酔っていて、四つも歳下で、無垢な少女で。
繰り返し自分を宥めるシリウスだったが、現実は非情だった。
「シリウス……」
ぽて、と肩に柔らかいスピカの体が寄りかかってきた瞬間、シリウスの鋼の理性はぷつりと音を立ててついに潰えた。
抱きすくめるように身を寄せ、まろい頬を捕まえると、そのまま噛み付くようにくちづける。甘い、葡萄酒の香りがする。ワインだけではないその味に酔いしれ、ぱくりと食んでから舐めあげると、寝ぼけたような声とともに薄く唇が開かれた。すかさず舌先を口内にねじ込むように侵入させ、隠れていた彼女の舌を誘い出すようにざらりと撫でる。
鼻に抜けるような声がする。シリウスの頭がじんと痺れた。このまま、もっと、深く触れて――。
「スゥ……」
僅かに離した唇の合間に愛しいひとの名を零して、シリウスは漸くはたとその異変に気づいた。あまりにも反応が無さすぎる。幾ら酔っているとはいえ、こういう行為にこれでもかと恥ずかしがるスピカが、なされるままにされているなんて。
放り投げられていた理性が一気に戻ってくる。よもや気分でも悪いのかと青ざめてスピカの様子を改めたシリウスだったが、スピカはというと。
「…………、寝て……、る」
全体重を預けるように、シリウスの腕の中に凭れて眠っていた。
シリウスの身体中の力が抜ける。興奮と緊張で強ばっていた全身に、忘れていた疲労感がどっと押し寄せてくる。なにせ、半日、彼女と街を歩きながらも周囲を警戒し続けていたのだ。精神的にくたくたにもなろうというものだ。
だというのに、彼女のはじめてをひとつ貰い受ける喜びに浮かれて、今までそれに見向きもせずに隣り合っていたのだ。酔いと疲れに任せて思考が塗りつぶされ、愚行に及んだ自分の未熟をシリウスは恥じた。
――シリウスよりスゥのほうが、ぜったい、ぜったい……さきに、すきになったとおもうの。
――ずっと、ずうっと……しあわせでいて。
「幸せだ。あなたがいれば、それだけで」
シリウスはゆっくりとスピカの前髪を指で払い、その額にくちづける。むず痒そうに擦り寄るスピカに、ふ、と笑って彼女を抱えあげると、広い寝台にそっと寝かせた。
寝顔を僅かな時間眺めると、思いがけない彼女の秘密を聞かせてくれた酒瓶を振り返り、注いでしまった二杯目のグラスに手を伸ばす。煽ると、むせ返るような甘みと香りが喉を焼いていく。
「きっと、俺の方が先に、あなたを好きになっていたよ」
アイスワインの味よりなお甘かったくちづけを思い出し、シリウスは堪らない気持ちで耳に宿る星をゆっくりと指でなぞりながら、目を閉じ苦笑した。
◇
こうして、二回目のマルシェへの外出は終わった。
一回目とは違い、手に余るほど買い込んだ物品は、長くふたりの生活に寄り添うものとなった。
特に、小さな葡萄酒瓶は、空いてからもキッチンの窓際に花と共に飾られ、とても大切な思い出の品になったという。
また、普段飾り気のなかったシリウスが、この日を境に美しいイヤーカフを肌身離さず付けて出仕するようになったことも、周囲に密かな話題を呼んだようだが――それはふたりの預かり知らぬことである。
アイスワインをはじめて飲んだ時の感動は今でも忘れられません。あんなもの覚えてしまったら……はわわ……みたいな味がするので、飲んだことのない方はぜひ機会があれば飲んでみてください。とってもあまい。
話も糖度の高いものになりました。同棲二週間でお互い色々と意識しまくり。
この後好きな女と同衾することふた月近く、シリウスは一線を超えずに堪え、その後もなんだかんだ堪え、三ヶ月くらいは粘ったと思います。がんばった。
こちらの一話は、ネタを提供してくださった、某方へ感謝とともに捧げます。あたたかいお言葉ともども、本当にありがとうございました……!




