17
その前日、思えば王城がにわかに騒がしかった。
騎士団長からの指示を受けた後――スゥ殿と別れた後から、自分の受け持つ第三部隊は、近衛や警吏、衛兵を始めとした城や街を護るものたちと協力し、国境方面の警備に当たっていた。
夜勤を終えたものに声をかけ、交代したその日の早朝、騎士団のものではない馬車が、竜がいるという国境に向けて出立して行くのが見えたのだ。
「隊長、あの馬車……」
「分かっている」
城門の見張り塔にいたディズと俺は、すぐに気づいた。何しろ見慣れた馬車だったからだ。
あれは、スゥ殿が――『星』が使っていた馬車だった。
「……やはり、彼女が行くのか、竜のところへ」
分かっていたことだ。かつて竜は暴虐の限りを尽くしたという。その強大な力は、討伐するにはあまりある。
であれば、姫巫女の時代と同じく眠らせて封じる他ないのだろう。
「大丈夫、なんですかね」
「……分からない。何も情報が入ってこないからな」
「それはまあ、そうなんですけど」
王命にて竜の件には関わらないようにされてから、小さな情報すらも部隊には回ってこなくなった。調査隊の結果も、竜がいる正確な位置も、そして『星』の関わるだろう作戦の内容についても、自分には何も分からない。
「馬車だと、国境まで丸二日くらいですかね」
「……そうだな」
「無事だといいなあ……」
『星』ではなく、『スゥ殿』を思って言ったのだろうディズの呟きに、自分は返す言葉を見つけられない。
部隊には別に任せられた仕事がある。自分はその長だ。それを全うする責任があった。
――――それに、ただの騎士ごときが、尊き『星』そのひとに、もう関われるはずもない。
「……行くぞディズ。のんびりしていたら、時間内に巡回が終わらなくなる」
「分かってますよ」
見張り塔の窓際から離れ、階下へと足を踏み出す。
幸せに、どうか幸せに。願いが届くよう、ただ心の奥底で祈ることしか出来なかった。
◇
――――は、と。
何故だか急に誰かに呼ばれた気がして振り返る。立ち尽くしているのに気づいたディズが、不思議そうに声をかけてきた。
「隊長? どうしました?」
「え、あ、……ああ」
もう日暮れ時だ。足元の影が長く伸びている。風が髪を攫うように吹いて、思わず何かを探すように空を仰いだ。
なつかしい気配だった気がする。それは、時折あの少女に抱いていたものとは似て非なるなつかしさのように思えた。
「…………、隊長」
ディズが常より低い声で自分を呼ぶ。
「なんだ」
「隊長は過労から遂に風邪を引きまして」
「ん、……んん?」
藪から棒に何を言い出すのか。眉間に深い皺を寄せて睨むが、そんなことには気にも留めず、あっけらかんと続けた。
「明日から数日間休養されると、そういうことで」
「ディ、……ディズ?」
何を言っている? と驚いて見やるが、ディズはただただ静かに笑っていた。
「今から早馬を飛ばせば、明後日の昼前には国境に着きますよ。大丈夫、ちょーっと覗いてくるだけならバレませんって」
「……ディズ」
窘めるように言うが、彼は頑として引かなかった。
「――行った方がいい。王命まで出して貴方を遠ざけたの、絶対にあの子です」
珍しく真剣な表情でディズが言い、「俺も一緒に行きたいのは山々ですが」、と続けた。
「こっちのことは上手くやっておきますから」
悪戯っぽく、揶揄うような色を乗せて背中を叩かれる。それだけで、与えられた職務を全うしなくては、と戒めていた自分の感情が、いとも簡単に溢れ出す。
自分に課せられた仕事を放棄しようと考える後ろめたさ。竜のなんたるかも分からないことへの恐怖。それから、何よりも彼女の身を案じる気持ち。全てがぐちゃぐちゃになって体中を荒れ狂う。
正直なところ、自分が行って何になる、とも思う。彼女にはきちんと第一線の優秀な騎士がついているはずだ。
けれど一方で、自分が行かねばならないと心の奥で何かが叫ぶのだ。
これが自分の一ツ星たる魂が訴えるものだというのなら。
「…………ディズ、すまない」
きつく、拳を握る。声が低く掠れた。
俺は、どうしても。返しきれない受けた恩を、彼女に返したい。
「たまには我儘くらい言っていいと思いますよ、俺は」
「……王命に逆らうんだぞ。我儘の域を超えてるだろう、こんなの」
軽口を返して少しだけ笑って。意を決したように、国境の方角の夕焼け空を仰ぎ見た。
彼女の瞳の色に似た、鮮烈な紅色が雲間に滲んでいた。