16
竜が現れた、と、突然シリウスさまの執務室に現れた陛下が、ディズさままで追い出す形で人払いをして、告げた。
シリウスさまという存在があることから、その竜が眠り続けた竜と同一でないことは分かっている。ただ、全てが別物とも限らない。魂だけは別物で、その躯は弔った骸を元にしたものかもしれない。
竜の生態について分かっていることは多くなく、姫巫女の時代からの記録を見ている自分も、彼のいきものがどういうものなのかはあまりよく知らないのだ。
「陛下はどのようなお考えでスゥのもとにいらしたのか、お聞きしても?」
「まだ考えが決まった訳ではない。何しろ、何も分からないからね。……けれど」
口元に長い指を寄せて、思案するようにゆっくり瞬く。春霞のような薄青の瞳が、小麦色の長い睫毛の向こうに見え隠れした。
「眠らせることになるかもしれない。『星』はきっと必要になる」
「…………、左様ですか」
「すまないね」
「いいえ。陛下の御意に」
黙礼をすると、陛下が小さく頷いて、王命を発した。
「……今より私が貴女に与えた許可の全てを取り消す。『星』は、新たに現れた竜の対応に当たられよ」
「『星』スピカの名のもとに、尽力いたしましょう」
その後、シリウスさまとディズさまが執務室に戻られ、陛下と共に話をしてから騎士団を後にした。
神殿へ戻る馬車の中、シリウスさまが最後に向けてくれた言葉を思い返す。
「――それは、あなたも、なんて……」
責めるように言われた言葉の、何と温かなことか。
スゥが――妾が『星』と知って尚、そう思ってくれるのか。それがこの身にとって、どれだけ嬉しいことか、彼はきっと知らないだろう。
やはり、彼には、幸せに生きて欲しい。
ただのひととして、もう自分を投げ打ったりしないで、自分のために生きて欲しい。
陛下には、彼の存在が竜にどんな影響を与えるか分からないから、という理由をつけて、彼が今回の件に関わらないよう先んじてお願いしておいた。陛下も元よりそうするつもりだったらしく、既に騎士団長に話をしてあると言っていた。
王命が出ているなら、彼が竜に近づくことはないはずだ。本音は、――彼が、何もかもをかなぐり捨てて、自分を護りに来てしまいそうだ、などと思ったからなのだが。恥ずかしい思い込みをしているだけかもしれない。自意識過剰にもほどがある。
神殿に着くと、『星』のために用意された部屋に急ぐ。全ての記録に何度も目は通しているが、もう一度確認しなくてはならない。
妾は初代姫巫女から数えて、七代目の『星』である。初代の記録こそ少ないものの、二代目から六代目までの記録はつぶさにこの神殿の一室に残されている。
『星』は姫巫女の生まれ変わりであるが、決して姫巫女とひとつながりの同一存在ではない。姫巫女のぼろぼろの一ツ星――魂に、他の魂が補填するように重なり合い、流転して生まれた別人だ。
傷つけられた魂が、他の魂で補われるとき、神官の行使する『御業』が備わる。それは『星』も同じこと。特別なのは、手法はどうあれ、その『御業』が竜を眠らせるものになる、ということくらいだ。
先代、六代目の記録から目を通す。
先代は眠りの水を作り出す『御業』によって、竜の眠りを深くした。
竜ほどの力のあるいきものを眠らせるために行使した『御業』の影響は強く、自分もこの先年老いるまで長くは生きないだろうと書かれている。魂にも再び、――いや六度、傷がついたはず、と。
先代の時代の終わりに竜が死んだ。その時のことも簡潔に書かれている。骸に立ち会ったこと。国境の森にて弔ったこと。終わりに小さく書かれている。
――これでもう、あの竜の犠牲は終わった。どうか、次があるならば幸せに。永き眠りにつくことなく、自由に。『星』も次代は現れないかもしれない。妾はそれで良いと思う。姫巫女も、きっとそう思っているだろう。
五代目は火を操って眠りを先延ばしした。
五代目は素直な人だったようで、感情のままに書かれた文章はまるで寝物語のようだ。
――こんなことは本当はしたくない。『星』として失格なのは分かっている。でも、いやなものはいやなのだ。けれども、その日が近づく度に夢を見る。竜が語りかけてくるのだ。わたしをねむらせろ、それがとおきやくそくだ、と。
四代目は風を操り眠りを誘った。
その『御業』のあり方は自分の聖歌に近いものがあるように思う。事務的に書かれた記録の中に、ぽつりと残されたその一文が目に留まる。
――何故、彼の竜は眠らねばならないのか。もう解放されても良いのではないのか。
三代目は光の明滅を用いて眠りを重ねた。
三代目ほど前のこととなると、『御業』も魔法のような手法になる。古めかしい語調で書かれた丁寧な記録にも、やはり主観の混じった言の葉がほんの時折覗いている。
――戦が終わって百年。傷ついた大地も緑に溢れ、隣国との諍いももうずっと起きてはおらぬ。竜の果たしたかったことは終わったのではないか。それなのに竜は毎夜『眠りを捧げよ』と我が夢枕に立つ。妾はその責から逃れることは許されぬ。
そして二代目は、『星』のあり方を決めたひと。その『御業』がどのようなものだったかは書かれていない。
自分が姫巫女の魂を継ぐものとして神殿に迎えられたこと、眠る竜と初めて対面したときのこと、そして十七の歳の時に竜の眠りを重ねたことが書き連ねられていた。
――まだ戦の傷痕は消えていない。隣国との関係もいいものとは言えないだろう。竜が護り愛した国のため、その身を犠牲にして与えた平和。この『星』をこそ継ぐ妾が、先へと繋がねばならない。竜よ、悲しき紺碧の竜よ。姫巫女と同じく、妾もまたこの魂を捧げよう。いつか、あなたが解放されるそのときまで、せめて安らかな夢を――。
◇
姫巫女の時代、隣国との大きな戦が起きていた。
それは長きに渡り両国の国土を焼き、罪なき民や獣のたくさんの命が無為に失われた。
戦の大きな原因になったのは、一頭の竜の存在だった。姫巫女の生まれた国に住みつき、その国を愛し護っていた竜。その圧倒的な力への畏怖と渇望。隣国は戦の末に、竜を我がものにせんと考えていた。
竜は戦にとかく悲しみ、苦しんだ。自分のせいで、自分の愛した土地が、いのちが焼けていく。
そして遂に彼の竜は、唯一自分の声を聞くことができた不思議な力を持つ姫巫女に頼んだのだ。
――どうか、自分を永久に眠らせてくれ、と。
姫巫女は苦慮の末、その願いを聞き届けた。自分の魂をも捧げて、竜を深い眠りへと誘った。
竜は国境近くにその身を横たえて眠った。
このまま戦を続ければ、竜を傷つけるかもしれない。怒りを買えば、竜の報復を受けるやも。両国は暫く睨み合いを続けた後、それでも竜が目覚めないと知ると、戦をやめた。
後世にはその顛末が正確には伝わっていない。竜が姫巫女に、国同士の争いを収めるため、自分を悪者にして欲しいと頼んだためだ。
姫巫女は、竜が暴虐の限りを尽くしたことで国が焼けたと、戦の記憶が失われるころに歴史がすり変わるよう、その当時の両国の王へ頼んだ。
両国の王たちは竜の深い慈悲の心に打たれ、眠る竜を手厚く保護すること、目覚めた時には竜の願いを何でも聞き届けること、そして何より竜を巡って二度と争わぬことを誓った。
以降同盟を結ぶまでに国交は改善され、二国は類まれなる友好国となっていく。
竜の犠牲の上に平和は成った。けれど、どれだけ経っても竜は目覚めようとはしなかった。
それどころか、流転して現れる姫巫女の『星』に眠らせ続けることを願い続け――遂にその命を終えるまで、それは続いた。
竜が何故そう願い続けたのか、六代に渡る『星』たちも、そればかりは分からない。だが、その竜は遂にその運命から解放され、新しい生を得たのだ。
シリウスさま。
紺碧の竜の一ツ星を頂くひと。
記録の中の竜のように、自分を投げ打ってでも他を救おうとする、とてもとても強情で、優しいひと。
彼に出会って、思った。
彼を、あの竜を、今度こそ幸せにする。初代姫巫女もきっと望んでいたであろうその願いを叶えるため、自分は『星』として生まれてきたのだと、そう信じていたのだけれど。
「……新たな竜と、出会うためだったというのか」
新たな戦乱の種になるかもしれない竜を抑えるため。また悲しい竜を生み出すために、生まれてきたのだ、と。
「それでは、あまりにも――……」
やるせなかった。
愛する国のため、眠り続けた紺碧の竜を想う。数百年にわたり、彼の竜がついぞ死ぬまで続いた繰り返し。またそれと同じことを、というのは、考えるだに辛かった。
竜を犠牲にして得る平和に、一体どれだけの価値があるのだろう。
眠らせることになるかも、と陛下は言った。分かっている。それができるのは、恐らく自分だけ。
「それでも、何か……」
記録を読み直し、何か手段はないかと頭を巡らす。
――眠らせてくれと竜が語りかけてきた。『星』たちは夢の中であるけれど、そう残している。
姫巫女は唯一竜の声が聞ける不思議な力を持っていた。
自分は竜が死んでから現れた『星』。竜の声を聞いたことは無い。
けれどもし、その力が、流転して尚この身に残っているならば。
「対話できる、かもしれない」
眠らせなくとも済む方法を、竜に伝えられるかもしれない。
今はそれしか他にすがるものがない。記録を山積みにした机の上で拳を握り、唇を噛み締める。
帰ってからどのくらい自分はこの記録と向き合っていたのだろう。猶予がどの程度あるものか分からない。
兎に角急ぎ陛下への手紙を認めようと、手近な引き出しを漁ると、その中から白い便箋を力任せに取り出した。