15
その休日は、忘れ得ぬ日になった。
洗礼を受けてからずっと見ぬふりをしてきた自分の魔力。それを、善いものだと、そう言われる日が来るだなんて。
彼女が贈ってくれたペンダントは、魔力を込めた上で彼女に贈り返した。だって、それ以上の、かけがえのない、返しきれないものを貰ってしまった。人生の中でどうしても受け入れきれなかったものを、こんなに簡単に覆してくれた。一生返せない恩を受けたと思う。
ほんの小さな魔力ではあるが、これが本当に善いもので、何かを護るというならば、彼女にこそ持っていてもらいたかったのだ。
ディズには色々と聞かれたが、ただ楽しめたとだけ答えた。
……のだけれど、スゥ殿がペンダントのことを話したらしく、「隊長にそんな甲斐性があったなんて……!?」などと言われてしまった。
因みに面倒なので、本来は彼女が俺にくれようとしたものであることは黙っている。
彼女が来てから早いものでもう二十五日以上が過ぎた。変わらない日常が続いている。
彼女は昼からやってきて、執務室の仕事を手伝いながら、休憩の合いの手を入れて、時折歌を歌う。相変わらずすぐに寝落ちてしまうが、三音だったのが今は十音くらいには延びた。そのうち一曲聞き届けられる日も来るかもしれない。
そんな風に思っていた。思ってしまっていた。
そもそも、彼女はここへひと月手伝いに来たと、そう聞いていたのに。
◇
「竜が現れたらしい」
緊急招集で参じた作戦室にて、騎士団長から降りてきた話に、その場にいた全員が凍り付く。
耳を疑った。
竜。
二十年前に国境近くで死んだといういきもの。
死んだ竜の亡骸は確かに弔われたことから、それとは別の個体ではないかという。
「討伐対象となるかはまだ分からない。見かけたというだけで、被害は出ていないからな。個体としてはまだ小さく、恐らく前の竜が死んだあとに生まれたものだろうという見立てだ」
先ずは急ぎ、国境を挟んだ隣国とともに、調査隊を編成して現地に派遣することになったという。
「調査隊には第二部隊が当たれ」
「は」
「それからシリウス」
「はい」
「お前の部隊はこの件への関与を禁じる」
「――――は、……」
突然のことに、言葉が途切れた。何故、と問わねばならないのに、上手く思考が働かない。
二の句を告げずにいると、騎士団長は断固という姿勢自体は崩さないものの、少々困惑した表情を浮かべて続けた。
「王命なんだ。急なことでもあったから、詳しい理由は教えていただけなかった」
「王、命……」
「ああ。その代わり、第三部隊は王城及び王都周辺の警戒と警護に当たれ。万一があっては困るからな」
「…………、承知しました」
敬礼を取り、作戦室を出る。
急ぎ部隊の執務室に戻り、対策を始めなくてはならない。余計なことを考えている暇はない。緊急事態だ。自分に出来る仕事をこなすことが最優先になる。
足早に執務室へ戻ると、何故か部屋の扉の前にディズが立っていた。
声を掛けると、弾かれたようにこちらを振り返る。何かに気を取られていたのか、自分が歩いてくるのに気づいていなかったらしい。
それは優秀な騎士であるディズらしからぬことだった。
「た、隊長……!」
「緊急事態だ」
「こちらも緊急事態です」
「どうした?」
竜が出た以上のことがあるとも思えないが、執務室に入らなければ話も始まらない。先にとディズの話を促してやる。
けれど、彼は言いにくそうに口篭るだけで、かといって部屋に入る素振りもなく、扉の向こうをしきりに気にするばかりだった。
「……ディズ?」
痺れを切らして少しばかり威圧すると、観念したように呻き声を漏らして、報告を続けた。
「隊長……。陛下が、国王陛下が御自ら御出座しになって……、今、スゥちゃんと面会されておいでです」
◇
「来たか、シリウス」
廊下での会話からややあって、陛下の護衛が部屋の中から扉を開ける形で、ディズと俺は執務室への入室を許された。
元々自分たちのための部屋のはずなのだが、陛下がディズまで追い出す形で人払いをしてしまったというのだから、致し方ない。
室内のソファに、簡素な服装の男性――陛下と、神官見習いのスゥ殿が、斜めの配置になるよう腰掛けていた。自分とディズは距離を取った位置に留まったまま、最敬礼を取る。
「陛下、」
「ああ、挨拶は良い。公式な謁見ではないし、大体これは私の不躾な訪問だ。二人とも楽にしてくれ」
「……恐れ入ります」
顔を上げると、柔らかな表情で陛下が笑みを湛えていた。小麦色の柔らかな髪に、湖水のようなアイスブルーの瞳。自分より二十近く歳上の優しげな美丈夫である。
陛下は落ち着いた声色で問うてきた。
「騎士団長からもう話は聞いたかな?」
「は。竜が現れた、と」
「っな、」
驚きの声を上げたのはディズだった。スゥ殿はと視線をやるが、僅かに顔を伏せているだけだった。あの様子だと、先に陛下に聞かされていたのだろう。
「そうだ。それに伴い、スゥの騎士団への出向許可を現時点を以って取り消す。シリウス、構わないか?」
「……御意に」
頭を下げると、うん、と軽く返事を寄越される。
――――けれども。
ここで引き下がったら、きっと二度と訊く機会はないだろう。
意を決して言葉を継いだ。
「陛下、恐れながら」
「許そう。何かな」
「それは、彼女が『星』だから、ですか」
傍でディズが息を飲む気配がする。
流石に自分の発言に驚いたのか、陛下も目を瞠っていた。すぐさま、斜め向かいの少女の方を振り返る。
「スゥ、」
「いいえ、陛下。スゥは何も」
「……そうか」
「けれども陛下、スゥは最初から特別隠し立てをしようとも思ってはおりません。聡いお二人のこと、察しておいででしたのでしょう」
おもてを上げた少女の顔は、見慣れたそれと何一つ変わらないはずなのに、まるで知らないひとのように目に映った。薄く乗った笑みは作り物のようで、ころころと感情に合わせて揺れていた紅色の瞳も今は酷く凪いでいる。
「……数々のご無礼をお許しください、『星』」
「何と寂しいことを仰る。シリウスさまもディズさまも、どうかこれまで通りに」
苦笑して、そして目を伏せる形で礼をとった。神殿の最高位といっても差し支えない存在であろう、『星』だ。一介の騎士である自分たちに対して頭を下げることはできない。
神官見習いとして振舞っていたときとは、まるで別人のようだ。
「このような形で此処を辞することになり、申し訳ありません」
「『星』ともあろう方が、私どもにそのようなお言葉をかけてはなりません」
「シリウスさま……」
跳ね除けるような言い方に、どうしたってなってしまう。
分かっている。
いや、分かっていたつもりだった。
いつかこんなことになるかもと、どこかで予想出来たことだった。それなのに。こんなにも気持ちが落ち着かない。
「シリウスさまは、もう大丈夫です。このひと月、妾がお願いしたこと、どうか忘れずお過ごしください」
聞きなれない彼女が彼女を示す言葉に、思わず眉が寄った。
「承知、しました」
「必ずですよ。あなたさまは魂から強情な上、すぐご自分を犠牲にしてまで、何かを護りたがる」
「――…………」
「いけません。あなたさまは、……幸せでいなければ」
そのほんの一瞬。
『星』たる少女の顔に、『スゥ殿』の色が滲んだ。
それを見つけたらもう、耐えきれなかった。
言葉を選ばなければいけない。沈黙しなければいけない、のに。
「――それはあなたもだ! 強情なのも、自分を省みないのも、幸せに、なるべきなのもっ……」
飛び出した言葉を、なかったことにはできない。
不敬とこの場で裁かれても仕方のない発言だったが、陛下も、少女も、それを咎めはしなかった。
「……ありがとう」
本当に本当に小さな呟き。それが彼女――『スゥ殿』と交わした最後の言葉となった。