【短編版】契約婚のお飾り妻。メイドのわたくしが侯爵家の妻だなんて、謹んでお断りいたします。
「これは契約婚だ。私が君を愛することはない」
形ばかりの披露宴が終わった後。
控室で聞かされたのはこんな言葉でした。
まあ、彼からそんな言葉が出るのは想定しておりました。
だって、このお話をいただいてから今まで、彼はわたくしの顔なんか見ようともしなかったのですから。
新婦のわたくしが案内された寝室は、旦那さまの執務室のお隣。本当だったら夫婦の寝室になる場所でした。でも、どうやら旦那さまは執務室を挟んで反対側、以前から使っている彼の私室で寝起きする様子です。
執務室とこの寝室を繋いでいた扉のこちら側は大きめなチェストで隠されわたくしの力では開けることは叶わない状態になっていました。
きっと、これら全てが計画通りなのでしょう。
元々貧乏男爵家に生を受けたわたくし、それも四女でしたから。
お相手なんて現れるわけもなく、貴族院初等科を卒業後すぐ伯爵家の侍女として働きに出ておりました。
だから一応の貴族としての嗜みは学んでおりますし、そういう意味では平民出の侍女さんたちと比べても基礎教養が勝る分、奥様や旦那さまにも重宝していただいていると自負しておりました。
伯爵家の侍女としても、あまり失敗をすることなくなんとかこなしていたんですけれど。
なのにまさか、こんなことになるなんて。
♢ ♢ ♢
「ねえエーリカ? あなたにとてもいい縁談があるのよ」
奉公先のマグダネル伯爵夫人、フランソワ様がいつものお茶のお時間にそう仰って。
今日は天気が良いからお外でいただくわ。そう仰った奥様のお言葉に大急ぎで薔薇の庭園にお茶の支度を整えて給仕に徹し。風景に合わせローズティーに薔薇の花弁をそっと浮かべ、奥様の前にお出ししたところでそう声をかけられたのでした。
「え、奥様?」
一瞬、意味がわからなくて言葉に詰まる。
「ふふ。あなたの事はお父様にも頼まれていましたのよ。良い縁談が有れば紹介して欲しいと」
そうにこにこと微笑みこちらをご覧になる奥様に。
「あ、でも、縁談だなんて」
「お相手はねー。なんと侯爵家のご子息なの。あちらのご希望よ? 先日我が家で開いたガーデンパーティーにいらっしゃった侯爵様がね、ぜひ貴女をってご指名なのよ」
まさか!?
だってそんなの、普通に考えたらあり得ない。
「侯爵家であれば縁談などもっと高位の貴族様のご令嬢の方がふさわしいでしょうし、わたくしなんかをどうして……」
侍女をしている男爵家四女なんかが嫁げるお家じゃないです。
「そうよね。不思議に思うわよね。わたくしもあちらの息子さんは良く知らないんだけど、フォンブラウン侯爵家はわたくしの実家の親戚筋にあたるのよ。悪い話じゃないと思うわ」
始終にこにこと微笑みながらそう仰る奥様。
奥様の実家といえば確か四大公爵家の筆頭、ロックフェラー公爵家。
そこの親戚筋なら確かに家柄もしっかりしているわけで、ほんと悪いお話ではないのでしょう。
それでもやっぱり自分のような貧乏男爵家の四女にそんな夢のような縁談が舞い込んでくるわけはない、そう素直に信じられない自分がいたのも確かなことで。
お茶のお時間も終わりテーブルなどを片付けながら、どうしたらいいのかと考えてしまう。
奥様はああは仰ったけれど、本当に普通に考えたらありえないおはなし。
いったいどんな裏があるのか、なんて。
どちらにしても一度お父様に相談してみましょう。
そんなふうにつらつら思い悩んでその日は就寝したのでした。
翌朝。
結局お父様宛にお手紙を書いている余裕もなく寝てしまったからお昼休みの時間にでも書きましょうと思いながらお仕事に励み。
真っ青な空の下、中庭の物干し場で侍女仲間のマリーと一緒に洗濯を終えた大量のシーツを干している時。
「エーリカ? 侍従長様がお呼びよ?」
先輩のラミアにそう呼ばれ、
「ああ、マリーごめんね、ちょっと行ってくる」
「うん、大丈夫よ」
「ここは私が手伝うわ。貴女は早く執務室へ」
「はい、わかりました」
持っていた洗濯物をよっと受け取るラミアにすみませんと言って、中庭の扉に向かう。
パタパタと早足で向かい屋内に入ったあと、赤い絨毯が敷き詰められた廊下の端っこをしずしずと歩き執務室へと向かったのです。
内心ではあの例の縁談の話ではないかとちょっと不安におもいつつも、表情に出すのは抑えて目の前の扉をノックして。
「エーリカ、参りました」
そう慎ましやかに挨拶すると、中から「入りなさい」と声がする。
あれ?
侍従長の声じゃない?
そんなふうに疑問に思いつつ扉を開けたわたくし、目の前にいた方のお顔を見てびっくり。
「っつ……」
思わず声が漏れてしまいました。
「ああ、待ってたよエーリカ。今日はお客様と、それに君のお父様もいらしてる。そちらに腰掛けなさい」
そう目の前の長椅子を指差すご主人様。
アーバン・マグダネル伯爵。
よくみると、どうやらわたくしが勧められた長椅子にはすでにお父様、ブラン・バークレー男爵が座っていらしてわたくしにとなりに座るよう目で指し示している。
そして。
向かい側、マグダネル伯爵のお隣の椅子にもう一人。みるからに高位貴族とわかる気品のあるお方が椅子に深く座ってこちらを見ている。
「失礼いたします」と声をかけお父様の隣に腰掛ける。相変わらず怖い顔だ。
この父はわたくしが子供の頃からずっとこんな怖い顔しか見せてくれたことがない。
普段から、わたくしには命令するだけでまともに会話もしたことがなかったから、今の表情からもどんなお気持ちなのかも計り知ることもできなかった。
「もうフランソワから聞いているよね? こちらはフォンブラウン侯爵閣下。君をご子息の伴侶にと望んでくださっている」
「ああ、でも、そんな」
「もうすでに侯爵閣下と男爵の間では話が進んでいるから。君はひと月後閣下のご子息との披露宴となるから、こちらでの仕事は今日を限りでおしまいでいいよ」
え?
「実家に帰って婚姻の準備を進めなさい。いいね」
そんな有無を言わさない勢いで断言する伯爵様。
侯爵様は笑みを浮かべ頷くだけ。
お父様はひたすら相槌をうっている。
ああ。もうこれは。
わたくしには拒否をするということはできないのね。
そんなふうに納得し、その場は無言で頷いた。
貴族の娘として生まれたからには政略結婚も覚悟しなきゃならない。
それくらいは子供の頃から言い含められてきた。
でも。
うちみたいな貧乏男爵家の四女にそんな政略結婚の価値なんかない。そう思い込んでいたのが間違いだったのだと、今更ながらに気がついて。
同僚の皆に挨拶もそこそこに馬車で伯爵家を後にするわたくし。馬車の中で「披露宴用のドレスあわせなどで明日から忙しくなるぞ」というお父様。
オートクチュールのドレスだなんて、そんなお金うちにあるのかしら?
そんな疑問にポカンとしているわたくしの顔に気がついたのか、
「支度金をたんまり頂いているから金の心配はしなくて良い。お前は一ヶ月後に備えて自分の身を磨くことだけ考えなさい」
そう仰ったお父様の言葉に。
ああ。わたくしはお金で売られたのだ。
と、そう実感したのでした。
♢ ♢ ♢
ひと月なんてあっという間に過ぎ去って、披露宴当日となり。
この日初めて旦那様になる予定のフォンブラウン侯爵家の嫡男ジークハルト様とお会いしました。
「よろしくお願いします」と会釈するわたくしの顔もしっかり見ようともせずプイッと横を向いてしまう彼に、ああやっぱり望まれていないんだなと、暗澹たる思いがわきあがってくるのを抑えることができなくなってしまって。
披露宴のあいだじゅう、心の奥底でぐちぐちと考え込んでしまう始末。
形式的に進む披露宴がどんなふうに進められたのかさえ、記憶に残っていません。
それでもやっぱり。
政略結婚、これはこれで仕方がない、とは思います。
断っていたとしても伯爵さまのお顔を潰しておいてそのままお仕事させて貰えるわけもありません。
お父様が貰ってしまった支度金も、どうやらもう既にその殆どが借金の返済に充てられそんなに残っていなさそうです。
返せと言われても、もう返すこともかなわないでしょう。
それでも、です。
肝心のジークハルト様がわたくしを望んでいないって、どういうことなのでしょう。
もちろんうちの爵位が低いことやわたくしの容姿が気に入らないと言うこととはあるだろうと思っておりました、けれど。
だったらなんでこんな縁談を進めたのですか!!
ジークハルト様が嫌だと言ってくだされば、わたくしが嫁いでこなくてもよかったんじゃありませんか!?
それが悔しくて口惜しくて。
披露宴の後、
「これは契約婚だ。私が君を愛することはない」
そう彼の口から発せられた時。
想定はしていたとはいえわたくしは怒りが込み上げてくるのを抑えることができませんでした。
もちろん、そんな気持ちは表情にはだしませんでした、けど。
彼、ジークハルト様に対するわたくしの第一印象は『最悪』でした。
白い結婚なら白い結婚で構わない。
絶対に離婚して貰おう。
この時に、そう決意を固めたのでした。
政略結婚が当たり前な貴族の結婚事情。優秀な子孫を残すことが命題な貴族の性として一夫多妻が許されたこの国で弱い立場の女性が離婚を訴えるには、
【三年間、白い結婚であること】
という条件がありました。
元々離婚が成立するには、
1、夫婦両名の同意
2、妻になんらかの落ち度がある場合
3、三年以上夫婦関係がなく、片方に離婚の意思がある場合
に限られます。
もちろんそこに家の事情や夫婦の事情も絡むので一筋縄では解決はしませんが、それでも妻側のみの意向で離婚するには三年間白い結婚である事は必須事項ではあったのです。
もちろんご夫婦納得の上で契約婚を継続していらっしゃるお家もあります。
お飾りであっても、離婚の意思が無ければ円満な夫婦関係が継続できるわけですし。
ああですから、わたくしがジークハルト様を説得してはれて離縁していただく事はできますし、不貞を働けば追い出される可能性だってあるでしょう。
まあそれでも、万一わざと不貞を働いたとしてもそれすら気に掛けられなかった場合、わたくしの心が持ちません。それだけは避けたいです。
とにかく。
まず第一に。
なぜ侯爵家の妻にわたくしが選ばれたのかそれを調べる事。
ジークハルト様は嫡男で、将来侯爵位を継ぐお方。
ご兄弟がいらっしゃるとはいえ弟君はまだ幼い。
妹さんたちは他家に嫁ぐでしょうから、本来であればジークさまの正妻にはわたくしのような男爵家の四女ではなくもっと高位のお嬢様方が相応しかったでしょう。
それなのに何故?
侯爵様は何故ジーク様が望んでもいないのにわたくしのような女を選ばれたのか、それがやっぱり不思議で。
もしその答えを見つけることができさえすれば、ジーク様を説得することも可能ではないか。
そんなふうにも考えて。
♢ ♢ ♢
「どう? 少しはここでの生活にも慣れたかしら?」
そう仰ったヴェネッサ様はカップを手に取りコクンと一口お茶を飲む。
豪奢な金色の髪を下ろしてまだ少女の面影を残しているヴェネッサ様。
今年貴族院を卒業し社交界にデビューする予定のヴェネッサ様はジークハルト様の妹。
わたくしとも同い年になるからか、この屋敷ではいつも気にかけていただいています。
貴族院初等科ではきっと同級生だったのでしょうけど、正直身分が違いすぎておはなしもしたことがありませんでした。
「ありがとうございます。こうして毎日のようにお茶に誘っていただけて感謝しておりますわ」
わたくしもお茶をいただきながら、そう無難にお答えする。
侯爵家の嫡男の妻、だなんていってもやることなんか何もない。
夫婦関係もないお飾りの妻だからそれこそ本当に何もすることが与えられていなかった。
お屋敷のお仕事は奥様がみな取り仕切っていらっしゃる。優秀な執事のバトラー様が奥様の指示で全てを采配していらっしゃるって感じ。わたくしが口を挟む隙ももちろんない。
ジークハルト様はといえば、日中は王宮に詰めていらっしゃった。
魔導庁においてけっこう上位の役職を賜っているらしい。聞けば研究室に篭って魔法具の研究をしていらっしゃるとのこと。
「あいつは女性に興味が無いのか社交界にも顔を出さず困っているのだ」
とは侯爵様の談。
もう婚姻後ひと月以上経つというのに、まともな会話もできていない。
話しかけてもまともに返事が返ってこなくって、萎えた。
「兄様もね、もう少しだけでも社交性があると良かったのだけれど。あれでも優秀らしくてね、魔法具の研究では第一人者って言われているらしいのよ?」
え?
あんなにお若いのに?
「そのせいでお父様も強く言えなくってね。気立の良さそうな貴女みたいな方をあてがったんじゃないかな」
貴女みたいの、って。
まあこれがヴェネッサ様の本音だとは思うけど。
「そういう事だったのですね」
「ああ、気を悪くしないでね。うちとしても侯爵位を継ぐ男子に恵まれてほしいのは事実なのだから。出来るだけ協力するから、なんでも仰ってね」
そう悪気なくおっしゃる彼女。
うん。悪い人じゃ、ないんだよね。
あっさりとわかったジーク様の事情。
ヴェネッサ様も、侯爵様も、何も悪気はないんだ。
ジーク様が全く社交界に興味を見せず、女性を嫌っているのかお相手を見つけようとなさらないのに業を煮やしてお金で解決できそうなうちの男爵家に目をつけただけ。
政略結婚って言っても普通だったら文句の出ようもない縁談であるのも事実。
逆に、わたくしがちゃんと妻の役目を果たして子を授かってくれたら、くらいなそんな希望で進めた縁談で……。
ああ、嫌だ。
だとしたらこの気持ち、どこにやったらいいっていうの?
これじゃまるで、ジーク様をその気にさせることができないわたくしが悪いみたいじゃないの。
それに。
このままわたくし達が白い結婚のままの場合、侯爵様は第二第三の女性をジーク様にあてがう可能性だってある。
それは、嫌だな。
だったらやっぱり先に離縁してもらった方がまし。
わたくしにとって。だけじゃなく、きっとジーク様にとっても不幸なことだと、そう思うから。
♢ ♢ ♢
ジーク様のお世話を一手に引き受けていた乳母のマーヤが孫の出産の手伝いの為にしばらくお暇を欲しいと申し出た。
彼が気難しく普通の侍女をそばに置きたがらなかったせいで、マーヤしか世話をするものがいなくて。屋敷の皆が困っていると聞こえてきたのがきっかけだった。
「わたくしに、彼のお世話をさせてくださいませんか?」
このまま距離が詰められないままだと離縁をしてもらうよう説得することもままならない。
そう思って声に出していた。
お屋敷では普段、朝食も夕食も家族揃って摂るのが当たり前であったのだけど、ジーク様が夕食時にいたことは無い。
下手をすると朝食の場にも顔を出さず王宮に向かってしまい、帰ってくるのも皆の夕食が終わった頃。
お部屋で一人でお召し上がりになるのが常だった。
そんな家族揃っての夕食の時間にわたくしは侯爵様にそう直訴して。
「お世話をする、か。それは良いかもしれないね。ジークも少しは君に心を開くかもしれないし」
「そうね。少しは距離が縮まってくれるかもしれませんものね」
ジーク様が相変わらずで、わたくしに手をだしてもいない、という事を良くわかっているのか、侯爵様も奥様も二つ返事で了承してくださって。
「しかし、どうするね。まともに正面から行っても拒否されてしまう可能性だってあるよ?」
「ええ、侯爵様。それについてはわたくしに、考えがございますわ」
そう笑みを浮かべる。
ふふ。
どうせ彼はわたくしの顔なんか覚えていらっしゃらないでしょうから。
ね。
翌朝早朝。
しっかりとメイド服に着替えたわたくし、マーヤさんと一緒にジーク様の寝室に入ります。
「ぼっちゃま。この間からお願いしてますけど、私しばらくお暇をいただくことになりました。その間このエリカがぼっちゃまの世話係になりますから、よろしくお願いしますね」
「ああ、マーヤおはよう。そうか、もうそんな時期か。孫のエミリが出産だって、大変だね。私のことなら心配しなくても良い。そんな女のメイドは要らないから」
「何をおっしゃいますか。ぼっちゃま一人じゃお着替えの場所もわかりませんでしょうに。夕飯や湯浴みだってどうするんですか? お一人じゃ困りますでしょう?」
「着替えなんて、別に同じものでも構わないし、風呂だって少しくらい入らなくても大丈夫さ」
「バカおっしゃい。いいですかぼっちゃま。貴方様はこの侯爵家の嫡男でございますよ? 世間にどう見られているか、そこまで考えなくてどうするっていうんですか!」
マーヤさんは強かった。
渋るジーク様を言い含め、わたくしを後任に押し込むことに成功して。
「エリカです。よろしくお願い申し上げます」
そうお辞儀をするわたくしに、目も合わせず返事も返してくれない彼。
もう、彼はほんとどんな女性に対してもこうなんだな、と、少し呆れるとともに。
こんな態度がわたくしだけに向けられていたわけでは無い。
それに何故かすこし安堵して。
まあ、彼に対する印象が最悪な事は変わりませんでしたけど、ね?
♢ ♢ ♢
「おはようございます若様。洗顔の用意、おもちしました」
キャスターのついたワゴンチェストにお湯を張った金のたらいを乗せ、お部屋をノックする。
返事はない。
しょうがないからそのままドアを開けてジーク様の寝台の横まで持ってきて。
「ジーク様。朝ですよ。そろそろ起きないとお仕事のお時間に間に合いませんよ」
そう優しく彼の体をゆする。
彼の扱いはマーヤさんから指南を受けていた。起きている時はいいけれど起きなければこうして起こしてあげていたのだと。
「んん。もう朝か、マーヤ」
「おはようございますエリカです。もうマーヤさんは里帰りいたしましたから。今朝のお世話はわたくしエリカに任せてくださいね」
「っつ、俺に近づな! ワゴンはそこに置いて部屋を出ていろ!」
「はい。承知いたしました。タオルは一段目、お着替えの下着は二段目にあります。本日のお召し物はこちらに」
そういうとクローゼットから今日ジーク様がお召しになる着替え一式をハンガーに揃えベッドの脇に置いて。
「それでは失礼致します。今ならまだ朝の朝食に間に合いますね。食堂で皆様がお待ちですからどうぞそちらにお越しくださいませ」
そっと笑みを浮かべ、礼をして下がる。
そのままわたくしも大急ぎで隣の隣の部屋に帰り、メイド服からドレスに着替え食堂に急いだ。
「ああ、エーリカさんおはよう。調子はどうかね?」
遅くなりましたと声をかけながら食堂に入り自分の椅子に腰掛けると、侯爵様がそう声をかけてくれた。
実際はきっともっとやり手なんだと思うけれど、こうして家族に見せる顔はほんと奥様やお子さんのことを思う気のいい叔父様にしか見えない。
今回のわたくしのメイドに扮する作戦も、「ああそれはいいね。身近に接すればきっと君の良さがジークにもわかるだろう」だなんて結構お気軽に了承して下さった。
まあ確かにね。
一筋縄では行かなそうだけど、それでも少しはしゃべってくれるようになったから。
まだ近づかせてはくれないけどね?
「まだお近くに寄ることもできませんけど、それでもお声をかけていただく事ができましたわ」
にこりとそう答えると、侯爵様も笑顔を見せてくださって。
「その笑顔だよ。君をみそめたのはその笑みが気に入ったからだから」
そう仰ってくださった。
わたくしみたいなのをどうして選んでくださったのかな。
お金で解決できそうだったからかな。
そんなふうに思ってちょっと荒んでいたけれど、この侯爵様の言葉には少しだけ、救われた気がしていた。
メイド作戦は侯爵家の皆様にも助けられながら続いていた。
「しかしなぁ。まさか自分の奥方の顔も覚えていなかったとはな」
「お兄様は女性のお顔の区別ができないのよ」
そんなふうに、ジーク様には容赦がない侯爵様とヴェネッサ様。
最初はちょっとどうかと思ったりもしたけれど、今ではこれが愛情ゆえのセリフだと言うのもわかってきて。
この家族が本当にお互いを思い合っている素敵な関係だというのも理解できてきたころ。
ほんとうに、このままでいいのかな。
そんな疑問が心の中をよぎるようになった。
彼と意思疎通ができるようになったら、ちゃんと説得して離婚届にサインをいただく。
そんな当初の計画も、揺らいできてしまって。
でも。
ダメダメ。
ここの侯爵家のみなさんがとても優しい方ばかりだっていうのもわかって、そんな家族の一員になれたら幸せなのかも、そんな思いも芽生えてきてしまったけれど。
それでもやっぱり、ダメ。
肝心のジーク様とはちゃんとした夫婦にはなれそうにないし。
元々こんなメイド作戦、彼に知れたらきっと騙してたってよけいに嫌われるだろう。
だから。
わたくしはいつでも取り出せるように、胸元に離婚届を忍ばせるようにした。
決意がゆらがないように、自分の分はちゃんとサインして。
♢ ♢ ♢
その日はジーク様の帰りがいつもにまして遅くって。
お帰りになる際にはまず前触れがきて、そしてお食事の支度やら湯浴みの支度やらの準備をはじめるのだけれどそれもなく。
お仕事がお忙しいのかな。
それとも、職場の方とお食事でもしていらっしゃるのかしら。
そんなふうに考えつつお帰りを待っていました。
もう皆が寝静まった頃。
お屋敷のロビーに灯がつくのがわかり、わたくしはメイド服に着替え厨房に向かい。
こんな時間。
きっともう何かお召し上がりになっているだろう、けれど。
もしお腹をすかせていらっしゃるのなら何か軽食を用意しましょう、そう思いながらとりあえずお茶のセットをワゴンに乗せて運びます。
お部屋の前でコンコンとノックをして、「若様、お帰りなさいませ」と声をかけ扉を開けます。
返事がないのはいつものこと。マーヤさんにもこの辺はお返事無視されても積極的にお世話をすべきと教わっていましたから、遠慮しないでお部屋に入っていきました。
が。
「ジーク様!!」
お部屋に入ってすぐ見えたのは寝台に寄りかかるように倒れ伏したジーク様のお姿。
慌てて近づき肩を抱き上げようと身体に触れると、すごく熱くて。
「う、うう」
お声をかけてもうめき声しか聞こえません。完全に意識が朦朧としていらっしゃる感じ。
とにかく上着だけでも脱がしてなんとかベッドの上に押し上げ、執事のバトラーさんを呼びに行ったのでした。
「疲労からくる風邪、でしょうか」
「応急処置で回復魔法をかけておいた。これで朝までは大丈夫だろう。バトラー、朝一番で薬師を呼んでくれ」
「承知いたしました旦那様」
「君ももういいよ。少しは寝ないと」
「ええ、侯爵様。でも、もう少しだけいさせてください。わたくしの部屋は隣の隣ですから、すぐ帰れますし」
「そうか、じゃぁまかせたよ。無理はしないようにね」
「ありがとうございます侯爵様」
結局、バトラーさんが侯爵様もおこしてくださって、ジーク様を着替えさせ応急的に回復魔法をかけてくださった。
でも。
通常の魔法は怪我を治すことはできても病気を治すことはできない。
病気まで治せるのは、聖女様や聖職者様がおつかいになる聖魔法だけ。
回復魔法だって、体力を回復させるだけ。
病気の根本を治すわけじゃないから。
それでも。
体力を回復させれば自身の治癒力で軽い病なら治るから、朝までにお熱が下がるといいんだけどな。そんなふうに思いながら額にあてたタオルを水に浸し絞ってまたのせる。
すこしでも。本当にほんの少しでも。これでジーク様のお熱がひいてくれたら。
そう願って。
♢
気がつくとお部屋には朝日が差し込んで。
ジークさまが寝返りをうたれて額のタオルが落ちたところで、わたくしは彼の額に手をあててお熱を測る。
「もう、だいじょうぶかしら」
ずいぶんと熱も下がった感じ。もう平熱に近い?
彼の顔を間近で見ても、もう熱に浮かされている表情でもない。
うっすら瞼を開けたような気もしたけど、気のせいだろう。
まだ起きてくる気配はない。
とりあえずお医者、薬師さんがいらっしゃった後にでもポタージュのスープをお出ししよう。
かぼちゃの冷製スープなら栄養もあっていいかしら。
「旦那様、また来ますね」
顔を近づけそれだけ言うと、自分の部屋に戻りました。
大丈夫そうで、ほんとよかった。
それが嬉しくて、普通に笑顔になっていたとおもう。
♢ ♢ ♢
それからの数日。
ジーク様はなぜか素直にわたくしの言うことを聞いてくれるようになって。
もしかして、看病してた時、気がついていらっしゃったのかな?
わたくしの顔を正面から見ては顔を赤らめていたりする。
うーん。これはどう考えたらいいんでしょう。
まあ、わたくしがエーリカだとわかったわけじゃなさそうです。
「エリカ」ってお声をかけてくださるようにもなりましたけれど、それが妻の名だとは全く気がついてもいない様子。
普通にメイドと思って下さっているんだろう。それはそれでいいんだけれども。
そんなまったりした日々が続いたある日のことでした。
「なあ、エリカ。もしよかったらマーヤが帰ってきてからもこのまま私のメイドでいてくれないか?」
お夕食をお運びして給仕をしている最中に、ジーク様がいきなりそう仰った。
なんだか真剣な目でこちらを見ている。いっぱいいっぱい考えて決意した、そんなふうにも見える。
「それは、わたくしがメイドでいることを許して下さった、と、そう考えてもいいのでしょうか?」
さんざん無視したりじゃけんにしたりしてたのに。少しは心を許して下さったのかしら?
そう思うと少し嬉しくなると同時に、このまま騙したような形のままじゃいけない。
そろそろ潮時なのかも。そうも思えて。
「ああ。君ならそばにいても嫌じゃない。だから、どうかな」
真剣な目で見つめる彼。
でも、これはメイドのエリカに対しての瞳。わたくしに、じゃない。
「若様の女嫌いが治ったのならよかったです。それならわたくし以外のメイドでも大丈夫でしょうし」
「いや、君だけだ。俺が心を許せるのは君だけ、他のメイドじゃだめだ」
「でも、メイドは一生そのままというわけにはいきませんよ? 若いメイドには皆婚期の縛りがあります。いつまでも一人の殿方に仕えるわけにもいきませんわ」
「そうか、ならこうしよう。君を私の第二妃に迎える。そうすればいいだろう?」
「って、ジーク様? あなた、女性を道具か何かと勘違いしていらっしゃいます?」
「違う! こんな気持ちになったのは君だけだ。今まで俺の周りにやってくる女はみんな俺自身じゃなくって俺の地位やこの家の金が目当てのものばかりだった。だけど君は違う。媚を売ってもこなければ俺に好かれようとあの手この手でくるわけじゃない。それなのに、俺が熱を出した時には朝までそばにいてくれて……。好きだエリカ。どうかこのままずっとそばにいてくれないか?」
ああ。
ダメだ。
もう、ダメ。
「ジーク様には奥様がいらっしゃいますわ。どうかその言葉は奥様に言って差し上げてくださいませ」
そう言って。
この場から逃げるように振り返り扉に手をかけたところで彼に左腕を掴まれて。
「行くな! エリカ」
「だから、そう思うなら奥様とちゃんと向き合ってくださいませ!」
「いや、他の女なんて皆同じだろう。誰もかれも俺の地位と金に興味があるだけで。そんな薄汚いやつの子なんかいらない。あいつだって結局は一緒だろう。地位や金に釣られて俺の妻の座におさまったんだろうさ。だったら好きにすればいいし、侯爵家なんてなんだったら弟が継げばいいのさ。俺このままは魔法具の研究をしながら自由気ままに生きるんだ」
バチン!
思わず手が出ていた。彼の頬を思いっきり引っ叩いて。
手が真っ赤になって、痛い。
「馬鹿にしないで! 女がみんな地位やお金目当てだなんて思わないでよ! わたくしだって好きでこんなところにきたわけじゃないわ! わたくしのことが気に入らないのならどうぞ離婚に同意してください!」
そう言って胸元からわたくしの名前が書いてある離婚届を取り出して叩きつける。
そのままバッと振り返り部屋を出ると、隣の隣、自分の部屋に戻り勢いよくドアを閉めた。
■■■■
「なんだ?」
いきなり平手打ちを喰らって呆然としてしまった。
しかし。
「泣いてた、な……」
はたかれた頬はそこまで痛くない。というよりも習慣で、瞬時に治癒魔法を発動してしまったから、痛いと思ったのはほぼ一瞬の出来事だった。
それよりも。
投げつけられた白い紙。あれは……。
寝台に落ちた紙を拾い、中をみると、それは離婚申請用の契約魔法紙だった。
婚姻中の男女がお互いに名前を書き教会に届けることで、それまでの婚姻関係を解消できる、そういう契約書。
詳しい離婚条件なども記入でき、それを互いに履行させるための契約魔法の書類だった。
そこにあるのは私の妻であるエーリカの名前。
あとは私が署名し教会に提出するばっかりになっている。って、なっているわけだが——
って、エーリカ? エーリカ、って、エリカ、か!?
まさか!!
エリカは、エーリカだったのか!!?
騙されていた?
そんな気持ちより先に、あの微笑ましい彼女の笑顔が目の前に浮かぶ。
まさかエーリカがメイドのふりをして自分の世話をしてくれていただなんて。
というか、父も母も、妹だって知っててさせていたんだろう。
彼女が勝手にそんなこと、出来るわけはないから。
「泣いて、いた、な」
悲しそうに涙を流していた彼女。
そんな顔、させたかったわけじゃなかった。
笑っている彼女の顔をもっとみていたかっただけだった。のに。
夜が更けていく。
月も星も分厚い雲に隠れ、灯りもない。
そんな窓に、ポツリポツリと雨粒があたりだし、それは急速に大粒の雨となっていった。
♢ ♢ ♢
一晩中泣き腫らして目がパンパンに腫れてしまっている。
夜中遅くまで激しい雨の音が聞こえていたけれど、なんだかそれが自分の心の奥底の気持ちを代弁してくれているような気がしていた。
どうしよう。
もう、ここに、いられない。
そろそろ朝食の時間。
いつもだったらその前にジーク様の朝のお世話をするんだけど、昨夜の今日ではそんなの無理。
耳をすませてみても、ジーク様のお部屋は物音ひとつしないから、まだ寝ていらっしゃるのかしら?
そんなふうに思いながらとりあえず着替えを済まして食堂へ向かって。
お暇を、頂こう。
侯爵様に、昨夜の事をお話しして。
それで終わりにしよう。そう決意して。
食堂に着くと、正面の席に既に侯爵様が座っていらした。
少し早い時間だったからか、奥様やお子様たちはまだいらして居なくて。
ちょうど、いい。
そう思って侯爵様のお顔を見つめ。
「おはようございます侯爵様。突然ですみません。わたくし、もうここにはいられません。どうか侯爵家からは離縁してくださいませんでしょうか……」
そう吐き出して、深々と頭を下げる。
「父が頂いた支度金は何年かかってもお返しいたします。どうかそれでお許しくださいませ」
涙がボロボロとこぼれ、食堂の床に涙の滲みをつくっていくのがわかる。
でも、どうしても止められなくて。
頭を下げたまま、侯爵様の言葉を待った。
時間が、ものすごく長く感じ。
音もなにも聞こえなくなって。
肩に大きな手が当てられるのを感じ。
ビクッと身体を震わせる。
もう、だめ。
心がもたない。
「悪かったね。エーリカさん。君がそんなふうに思い詰めているなんて、気がついてもあげられなくて」
そんな、優しい声がした。
「エーリカ、ごめん。全部聞いたよ。俺が悪かった。君の顔もわからないままだったなんて、本当に情けない。ごめん」
え? ジーク様?
顔をあげるとそこには侯爵様とジーク様。
おふたりとも、わたくしのすぐそばに立って。
「ジーク、さま?」
しょんぼりと、捨てられた子犬のように申し訳なさそうな表情をしていらっしゃるジーク様。
いつもの俺様なきついお顔とも、ちょっと違ってみえる。
それがなんだかおかしくて。
なんだか、少し、心が軽くなって。
「ジーク様が謝ることなんかありませんわ。わたくしがメイドと偽ってお世話していたのですから」
そう声に出ていた。
「だけどね、君を好きだっていうのはほんとなんだ。信じてくれないか?」
「だって、貴方が好きだったのはメイドのエリカでしょう?」
「意地悪を言わないでよ。俺が好きになったのは君なんだよ。君のその笑顔に惹かれたんだから」
クスッと、笑みが溢れる。
わたくし、いつのまにか笑顔になっていた?
彼の顔も、ちょっと苦笑いみたいに崩れて。
ふふ。
しょうが、ない、ですね。
もう少しだけ、貴方のメイドでいてあげても、いいかな。
「離婚届、返してもらってもいいですか?」
「いや、あれはもう燃やしちゃったよ。っていうか、離婚だなんて嫌だ。お願いだ。やり直させてくれないか?」
真剣な表情でこちらをみつめるジークハルト様。
でもどこか、子犬のようにも見えるそんな表情に。
「わたくしを愛してくださいますか?」
そう甘えてみる。
「もちろん。愛してるよ、ううん、ずっと君を愛するよ。神に誓って」
そう仰った彼に。
わたくしは思いっきりの笑顔を返したのでした。
Fin