その四 日本人の帰還
翌日は一日、いかにもパリらしい雨だった。〝ライフ〟誌の支局長から電話があって、俺はホテルのロビーで四時と約束した。
大井茂三郎博士の葬儀は日を待たず略式で行われた。まだ学会の開催が継続されていたため、消え去った日本への追悼の意味を含めて、チューリヒ物理学総会が主となり、フランス、スイスをあげて、参列者は限られたが顔ぶれは国葬級のイベントとなった。ほんの走り書き程度の遺書はド・ゴール氏の人々の心に訴えるような朗読となってラジオ、テレビを通じ全世界に流され、その後で原文を読んだ駐仏全権日本大使は、読みながらスタジオで涙を押さえきれず、残された日本人達はおそらく一様に涙を流しただろう。
今は亡き祖国日本の栄光を背負い続けてきた博士の自殺は、日本の消滅を明確に象徴していた。
大井博士の短い遺書は残された日本人同胞達に宛てたものと、全世界の人々に宛てたものとの二通に別れていて、いずれも博士の日本への祖国愛を端的に表していた。
ー―ひとつの民族がその歴史を完全に失ってしまう事はかってなかった。しかも、日本のように長い歴史を持つ国において、そのような前例はありえないと言ってよかった。しかし、自然はかように無慈悲な事も何の躊躇いもなく実行する。
ー―いかに自然が偉大で、いかに歴史が大きな流れを持っていようとも、その流れの中には必ず人間が生き、考えている。それがどれ程、微少でとるにたらないものであろうと、それは何処かへ向って着実に、いつの時代も、そして地球のどこにおいても歩み続けているのだ。
――その内の幾人かは敗れ去り、消えてゆくだろう。が、それをむやみに振り返り、ためらう事はならない。我々は人間として生き続けてゆかねばならぬ。このような事を私が書く事を許したまえ。
と博士の遺書は続いている。
――私は敗れ去った人間となるだろうだが、私にはこれ以上、生き延びる場所はないように思われるのだ。
「ライフからのお声がかりだ。四時に会うことになってる」
俺は加納に報告のつもりで言った。
「それは良かった。君には仕事があったんだっけ」
彼はものわびしげに俺を祝福してくれた。
「あんた達はどうなるんだ。国がなくなっちゃ、大使館なんて成り立つまい」
「そうなんだ。今、各国の日本大使館と連絡しあってる。国はなくなっても日本人は残ってる。ほんのひと握りにすぎないが、ちゃんと日本語で話しあえる貴重な人間だ。一億の人間が一瞬にして日本語を忘れたんだからな。私達は英語か仏語で語らざるをえなくなったわけだ」
「俺達にはもう国籍もないわけじゃないか」
「亡命って事になるだろうと私は思う。君はおそらく〝ライフ〟に拾われてアメリカ人になれるだろう」
「いや、ただの仕事の依頼かもしれないんだ。物珍しいんだろうな。日本人のカメラマンてのは」
幸いな事に、俺の持って来たカメラは日本でも最高級品だ。不器用な連中には貴重なものだ。
「それにしても」と加納は言った。
「仕事があるって事はいい事だよ」
加納の表情は暗かった。この二日の間に眼に見えてやつれていた。何のために自分が動いているのか。彼にはまだつかめていないのだ。空まわりになってしまわなければいい。いや、なるはずがない、と俺は、祈りにも似た思いでいた。
「だが、俺達は日本人なんだぜ。誰でもない。俺達が日本人なんだ」
そう言った俺に、加納は無理して笑おうとしたようだった。そして、学生時代のように、俺の肩をどやしつけて、けたたましく鳴りだした電話にとびついた。
「はいこちら日本大使館」
日本語で電話に叫んでから、加納は蛇口を手でふさいで、
「また、逢おう。成功を祈るよ」
彼は快活に笑って言った。そうした時の加納を、俺はいつか大学時代に見た事があると思った。
それで、俺も笑い返し、ドアを開けて、手を振って、そして学生時代の別れの言葉の定番を思い出して言った。
「あばよ」
〝ライフ〟誌のパリ支局長は、俺に達うとすぐ仕事の話しを切りだそうとした。
俺は遮って、「バーへ行きませんか」と誘った。
「いいでしよう」と背の高いアメリカ人は俺の気持ちを察してか、いたわるように言った。
「俺に何を撮れって言うんです」と俺は訊いた。
「日本です」
とだけ彼は言った。
「日本はもうないんだよ」
「いいえ。日本はありますよ。あなたの心には日本があるはずです。そしてあなた自身が日本なのです。それがたとえ存在しなくとも、あなたなら海の上に日本が見えるはずだ」
彼は真剣だった。
「その海を撮れって言うんですか」
俺はしかめっ面をしてグラスを空けた。
「そうです。もう今は亡い日本、その日本を日本人に撮って欲しいんです」
断る。と言いかけて、俺は口をつぐんだ。
鞠子の面影が、ふいに俺の眼いっぱいに甦った。
あの東京。あの下宿の二階の四畳半。造ったばかりのスタジオ、ライトに照らされて俺のためにポーズをとっていた鞠子、俺の世界。
「悪趣味だね。それは」
「そうでしようか。私は考えます。日本には我々外国人に理解できないものがありました。それを把握し、日本的に表現できたのは、日本人だけでした。同じ事がアメリカにも言えます。イギリスにもドイッにもフランスにも。だから、あなたにあなたの祖国を撮っていただきたいのです。すでに日本がかつて存在していた海は写真になって『タイム』に発表されようとしています。しかし、それはただの写真です。たとえどんなにうまく撮れていようと、冷たいカメラと、同情するだけしかできないカメラマンのものです。私が欲しいのはそんなものではありません」
彼は細身の長身を前のめりにして、俺の顔を覗き込んだ。
俺に今更なにができるだろう。俺が失ったものはあまりにも大きかった。そしてあまりにも決定的だった。
日本のかって在った、その海の上を飛んで、俺にいったい何が見えるだろう。
「あなたはカメラマンである以前に、日本人だ。違いますか」
アメリカ人はきっぱりと俺を見て言った。
俺はそのとたん、引き込まれるような強さで自分の心が日本へと飛んで行くのに気付いた。どうしようもなく日本が、鞠子が恋しかった。
俺はそのアメリカ人をしっかり見つめ返した。
「引き受けましよう」とうなずいた。
「そのかわり、記事も書かせて下さい。俺の写真を他人が、それも日本人でない奴が勝手にキャプションするのはとてもたまらない」
彼は俺を見つめ、しばらく考えた。
「いいでしよう。そうしなければ間違いと言うものだ」
それから、彼はグラスを上げ、俺を促した。
「あなたは日本人だ」
「ありがとう」と俺は答え、一息にグラスを空け、床にたたきつけた。
〝ライフ〟誌の支局長が仕事の段取り等のメモを残して帰った後に、加納から電話があった。
――私のアパルトメントに来ませんか。オテル・リッツではあまり長く生活できないでしよう。
そう言われて俺はホッとした。新聞社が払い込んでくれたホテル代は明日で切れる事になっていた。
俺のパリでの取材は結局、無駄になった。
だが、今朝、俺はそのフィルムを報日新聞社に送るために小包みにした。ふとそうしてしまったのだ。そんな新聞社はもう日本ごと消えてしまったのに。
俺は苦笑いして、その小包みを放り出したが、ほどく気にはなれなかった。
とりあえず、明日の朝、加納のアパルトメントにスーツケースを置き、それから、日本上空へ飛ぶ事にした。
加納が、今夜にでも一緒に食事がしたいと言うのを断って、俺はアイダのアパルトメントを訪ねた。
彼女は孤りでウィスキーを飲っていた。
「どうしたの」
と彼女は訊いた。
「君にさよならを言いに来たんだ」
俺は――さよなら、だけを日本語で言った。
「入って」
彼女は俺の腕をつかまえて中に引き込んだ。俺はもう片方の手にアイダが持っていたグラスを取りあげ、なめてみた。
「何処へ行くの」
「日本だ」俺は言った。
「日本はなくなったわ」
「日本だよ」
俺は繰り返した。
「帰るの」とアイダは言った。
「何処へ?」
俺は訊き返した。
「じゃ、戻って来るのね」
――多分、とだけ俺は答えた。
「待ってるわ」
アイダは言って俺を見つめた。
「誰かに待ってもらうような男じゃないんだ。俺って奴は」
「いいえ。でも、待つわ」
アイダは急に俺に飛びっいて接吻した。俺は首を振って、彼女の身体を支えた。
「俺はさっき多分って言ったのは、多分、帰って来ないだろうって言おうとしたんだよ」
「駄目よ。あなたにはもうここ以外。私のところ以外に帰って来れる場所はないのよ」
俺はアイダの瞳を見つめた。彼女の瞳はひたむきに俺を見つめ返して来た。
待たせてはならないのだ。と俺は自分に言いきかせようとした。
ひょっとしたら、俺は帰っては来ない。
大井茂三郎博士が自ら逝ったように、俺も祖国なしには生きられない人間なのかもしれないからだ。
それは、俺がどれだけ日本を愛していたか、いや、愛しているか、そして日本での俺の過去がどれだけこれからの俺にとって大事なものとなり得るかにかかっているのだ。
俺があの海の上に飛んだ時、それがわかるだろう。
だからアイダを待たせてはいけないのだ。
「いつまででも待っわ。だからきっと戻って来て」
鞠子もそう言った。しかし、鞠子は待てなかった。いや永遠に、俺を待ちつづけているのかもしれない。
エピローグ
「|抱いて《Let's make love》・・・」
アイダは言った。俺は唇を合わせ、彼女を強く抱きしめた。
俺は全てを失ったはずだった。しかし、俺はその瞬間にアイダを抱いていた。
俺がもし、アイダを得ていなかったなら、俺はおそらく大井博士と同じ道を行くのにためらう事はなかったろう。
だが、もう遅すぎる。いったい。何が起ったと言うのだ。
アイダは俺を引き寄せて自らベッドに倒れ込んだ。
「あなたをしばりつけはしないわ。戻って来てさえくれれば」
アイダはつぶやくように言った。首筋に彼女の熱い息を感じながら、俺は何かが頭の中でもがき出ようとしているのに気付いた。
「四日目だな。君と逢ってから」
俺は確かめるように言った。
「そうよ。私にとっては運命の四日間だったわ。そして、多分、あなたにとってもね」
泊ってゆけと言うアイダを振り切って、俺は外套をはおって雨の降る街へ出た。
タクシーは見つかりそうもなかったし、見つけるつもりもなかった。パイプに火を点け、外套の襟を立て、ポケットに両手を突っ込んで歩きだした。
——パリの四月は寒いわよ。きっと。
鞠子は言った。確かに寒い。寒すぎるくらいだ。特に夜は。
並木道に沿って俺は歩き続けた。バイブの煙でか、雨なのか、涙のようなものが頬をつたって、そこだけが夜風に冷たかった。何処へ向って歩いているのかと俺は考えた。そして、俺は何処へ行きつくのか。
――そう。ここは歩きなれた東京の街ではない。
俺は日本人なのだから。
――鞠子、明日は君の上だ。君と俺の国の上だ。だがそれから俺は何処へ行けばいいのだろう。
君はもう何処にも居はしない。
何処にも俺の国はありはしない。
俺は、いつまでこうして知らない土地を歩き続けるのか。
帰りたくとも、戻って行きたいといくら願っても、帰るべき祖国をもう俺はもっていない。
俺のエピロオグにふさわしい雨が降り続いていた。
一九六七年五月十二日脱稿