その三 博士の決断
記者会見が済み、疲れ果てた博士はそのままオテル・リッツへ向った。
加納と俺とは奥の部屋に戻って、アイダの用意したコーヒーを飲んだ。加納は諦めきれないような様子でメルカトール図法の地図を見つめ続けていた。
「確かに、博士の言われた通りなのだろう。しかし、それにしても全く自然のいたずらとは。恐しい偶然だ。防ぎようもない」
偶然。恐しい言葉だ。全く恐しい事だ。何兆分の一かの確率でしかないが、それが一億の人間の生命と動物達と、そしてあのなつかしい国土とを一瞬にして奪い去ったのだ。
夕暮れ時にアイダが俺を迎えに来た。昨日、一緒に食事する約束をしておいたのだった。俺の絶望的な表情に対して、アイダは別に同情するでもなく、ホテルのビュッフェでフル・コースをたちまちたいらげた。
「もう、あなたは孤りだ」
と、アイダはむしろ喜んでいる調子で言う。
「何故、それが嬉しい」
俺は少し腹を立てて言った。
「もう、あなたは帰って行かなくても良い。私のところにいられる」
アイダの瞳は輝いていた。
「しかし。俺はやはり帰るだろう。日本は俺の国だ。そして、俺は日本人だ」
俺はむやみに言い返したつもりはなかった。しかし、帰って行く事を不可能と知りながら、どうしようもなく帰りたいと望んでいる俺自身を俺は否定しようもなかった。
あのせせこましい東京へ、あの東京の小さな四畳半の畳の部屋へ、鞠子が孤り待っている東京の片隅へ。
鞠子はもう幾年かの間、俺を愛し続けてくれていた。俺もしだいに本気で愛し始めていた。
今度のパリ行きが決まってから、鞠子は俺を見つめ、その黒い瞳で或る言葉にならない言葉を伝えた。俺はその問いかけへの答えとして結婚しよう。と言わざるをえなかった。
正直なところ、言いたいと思って言った言葉ではなかった。だが決して嘘ではない。俺は生れて始めて、カメラや絵や行動ではなくて、真実と言えるものを言葉で表現しようとしたのだ。そして、それは成功した。
鞠子は潤んでくる瞳を恥じらいもなく上げ、俺を見つめ続けた。俺は腕を差しのべ、彼女は胸の中に入って来た。
東京での最後の夜、俺は俺の腕の中に愛する者を抱いていた。あれが真実だったのだ。
「待っわ」と鞠子は言った。
「貴方が帰ってくるまで、いつまでも」と。
「ああ、早く帰って来る。待ってるんだ」
俺は俺らしくない言葉を吐いた。
鞠子は今でも俺を待ち続けているに違いない。だから俺は帰らなくてはならない。しかし、どこへ帰るのか。
「何を考えているの」とアイダは訊いた。
「いいや、何も」
彼女はベッドに腰かけて、俺が獣に変わるのを待っていた。
新聞が届けられたが、開いてみる気にはなれなかった。俺は新聞から逃れるためにアイダを抱いた。俺のシャツを脱がせながら、アイダは俺の瞳をのぞき込んでいた。幾ら抱擁し合っても俺達は燃えなかった。アイダの唇もうなじも、すべすべした肌も、脇腹の肉も、全て、俺にとって不可能な堅い肉と化した。
幾度かアイダは俺をのみ込んで、あえぎ、俺の肩に爪を立て、やがて、ぐったりと俺の下でおとなしくなった。その涙に濡れた頬に俺はくちづけし、頬を重ねて、俺はその暖かな涙の中で、同じように涙ぐんだ。
俺の失ったものは大きすぎるくらい大きなものだった。俺が生きて来た場所は、遠い海をへだてた彼方で俺の知らない間に、失われてしまった。それは俺にとってどんな意味を持っていたのか。
最後の夜、東京の夜景を臨むホテルの一室で鞠子は別れの愛を俺に与えた。
鞠子は大きな窓の前に立ってどこか遠い何かを見つめていた。まるで透き通るかのように、決して全く暗闇となりえない都会の夜の中に立っている彼女を見つめながら、俺は心の中にひそんでいる煙のようなものを確かめようと彼女の名を呼び続けた。
「なあに?」
鞠子は振り返って幾度か俺に答えた。俺はそのたびにただ首を振って――何でもない、と打ち消し、しばらくするとまた、彼女の名を呼び始めたのだ。
鞠子は何かというと、じっと遠いどこかを見つめる癖があった。その時の横顔を、俺はいつか海を背景に撮りたいと考えていた。だがいつも、カメラを向けた途端、鞠子の表情は敏感にそれを悟ってか、造り物めいたポートレート用に変わってしまうのだった。
もしかしたら、俺はあの時の鞠子を愛しているのかもしれない。そして、あの表情を忘れる事のできない俺は、やはりいつまでも彼女を愛し続けるだろう。
こんな事が実際に起こり得るのかどうかは俺にとって疑問だ。しかし、こうした非常な偶然が幾つか重ならない限り、日本列島が消滅してしまうはずはないの
だ。
二百五十億年前に、どこからか、なんのためにかはわからないが宇宙は存在し始め、拡大し続けて来たと言う。銀河系を遙かに離れた或る星雲で、この悲惨な運命の扉は三十億年前に開かれた。その星雲中の或る恒星が、おそらく異常な爆発を起こして砕け散ったのだ。
そしてそれはあたかも仕掛け花火の如くに星雲全体に同様な連鎖反応を引き起こした。その時、その爆発から発した光の幾らかが、或る惑星の大気圏を通過した時、おそらくレンズの性状を有していたであろうその大気によって、光は特殊な偏光と生れ変わり、一直線に太陽系へ向けて出発したのだ。
三十億年間、弱められる事もなく、また、何にも防ぎられもしなかったほんの一部の光線は、太陽系にたどりつき、その第三惑星を見いだした。そこに、日本列島は存在していたのだ。
偏光は名古屋をほぼ中心とした細長い日本列島と、中国大陸の端をけずり取り、一瞬にして蒸発させ、黒い煙と化した。
えぐり取られた地表の焼け跡に、海水は熱湯となりながらなだれ込み、巨大な津波をひき起こした。
また、地球の大気圏に突入した偏光は幾らか拡がり、その余光は地表に焼き印を押さないまでも生物を死滅させ、焼き払った。
日本列島の消滅により、地球自体におよぼされる地球物理学上の影響は大したものではなく、微少の時間帯の狂い、電磁波の妨害、大気汚染程度のもので、放射能による被害は今のところとるに足らないものとされている。
日本の現代の世界状勢下で果たしている役割を考えれば、東西陣営の間に在って、微妙な対外関係を結んでいた島国の消滅は資本主義各国の間で異常な株価の変動を巻き起こし、中共では主都北京の完全な滅亡で、またも紛争の起こりそうな気配を見せ、世界史は全く例を見ない百八十度の転回にぶち打たる事となった。
日本列島の消滅が三十幾億の残った世界人類に与えた心理作用は同情と不安とであったろうが、果たして心からの同情がどれだけ、そして、いったい誰に向けて寄せられるのかはさだかではない。
夕刊には日本の偉大な科学者、大井茂三郎博士の言葉として、自然は偉大なるかな。と大文字で載せられていた。
午後九時を少し回った頃、加納から電話があった。
――大井博士の部屋は君の部屋近くだったろ。
――ああ、同じ階だ。
――だったら訪ねてみてくれないか。遅いのは承知の上だ。博士の昼間の様子が気になるんだ。昨日、私が君にもらう約束をした日本のウィスキー、あれを持って行けば理由はなんとかなる。
大井博士の部屋の前で俺は少しためらった。だが、思い切ってドアをノックし、俺は待った。不気味な沈黙があった。もう一度俺はノックした。あいかわらず何の反応もなかった。
ドアには鍵がかかっていた。背筋を不吉な予感が走った。フロントに降りていって、博士が出て行かなかった事を確認し、電話をかけてみた。
いつまで経っても返事はなかった。フロント・クラークを説得しながら、俺は加納のアパルトメントに電話した。
――どうした。まさか。
――いや、まだわからない。ぐっすり眠ってしまったのかもしれない。疲れていたから。しかし、どうも嫌な予感がする。
――君もそう思うか。よし、もう一度電話してみてくれ。それで駄目だったら、クラークに部屋を開けさせるんだ。私もすぐ行く。
俺は再び博士の部屋に電話した。一分待ち、二分待った。一〇分待って、加納が現れた。
「どうだい」と問いかけた加納に、肩をすくめて見せ、受話器を置いて二人がかりでフロント・クラークにつめ寄った。
さすがにクラークは頑固だったが、加納が大使館証を見せると、渋々ながら合鍵を持って先に立った。
幾度もノックしてから、ドアを開け、中をのぞき込んだ。厚いカーテンでネオンも遮られ、部屋の中は暗かった。
白いシーツにくるまって博士はベットに静かに横たわっていた。枕元の小さなランプに照らされた博士の顔は妙に年老いて見えた。
それ見た事かと我々を見返し、クラークはドアをそっと閉めようとした。然し、加納も俺も決定的な一点を見逃してはいなかった。クラークの腕を押さえ、我々は中へ踏み込んだ。ベッドの枕元のランプの下に半分程水の入った水さしがあって、空になった小さな瓶のあるのを、クラークに指し示した。
「何です」とクラークは訊いた。
「おそらく、毒薬だろう、ホテルの迷惑を考えて腹切りだけはしなかったようだ」俺は答えた。
「どうしてそれが・・・眠ってるみたいだが」
物わかりの悪いクラークはなおも訊いた。
「生きてる人間てぇものは眠っていても呼吸だけはしているものだよ」
クラークは始めて気が付いたようにまじまじとベッドの上の大井茂三郎を見つめた。しばらくして、はじかれたように我々を見、あわてて部屋の電話を取りに走るクラークだけが生きている人間のようだった。
取り残された二人の日本人達は、立ちっくしたまま日本式に手を合わせた。
それから俺は加納を見、彼は、わかってるよと言いたげに俺を見返した。