その二 宇宙のいたずら
この詩をモチーフにしました。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
引用:室生犀星【小景異情―その二】
――グッドモーニング、ミスター加納をお願いします。
――やあ、私だ。おはよう。たいして良い朝でもなさそうだが。
電話の向こうで、加納は笑えない冗談を言った。
――新聞を見た。何が起ったんだい、教えてくれ。とても信じられない。
——私もだ。今、入った報告だが、アメリカ軍のジェット機が日本列島の上空を通過したはずなのだが黒い煙のおかげで島影は見えないし、レーダーにも映らないって言うんだ。
――島影だって。日本列島と言って欲しいな。莫迦にしてやがる。
――そう、かりかりするな。チューリヒの学会に出席していた大井茂三郎博士がパリへ戻って来る。もうそろそろ着くんで迎えに出るんだ。
――俺も行っていいか。何時の汽車だ?
――十一時だ。まだ時間がある。君は、オテル・リッツだったな。じゃあ、ラ・メールってカフェで会おう。フロントで訊けば教えてくれる。
――ああ、今からすぐ着替えるよ。
電話が切れてから、俺は着換えようとし、ワイシャッにネクタイを巻きつけたところで、髭を剃るつもりだったのを思い出して、バス・ルームヘまた、入った。
鏡をのぞきこんで、そこに映った顔に俺は訊いた。
「信じるか?」
タオルをもって入って来たアイダが、それを聞きつけて後ろから鏡の中の俺に向って言った。
「信じないわ」
しかし、それは俺にとって慰めとはならなかった。
「ボンジュール」
「おはよう」
パリ住まい四日目の俺はフランス語で、二年目に入った駐仏日本大使館勤務の公使参事官付きの一等書記官、加納元彦は日本語で挨拶した。
俺がラ・メールに着いた時には加納はもう来ていて、コーヒーをすすりながら、大きなハンバーグに大きな口を開いてかじりついているところだった。
「どうだい。何か珍らしいものでも撮れたかい」
加納は口の中をハンバーグでいっぱいにしたまま訊いた。
「いいや、大したものはないな。ところで、あの話しだが」
加納はさすがに真面目な表情に返って、胸のポケットから手帳をひっぱりだして俺に見せた。
「報告の抜粋だ。米軍の飛行機が写真を撮って来た。日本列島のあった場所に向って海水が流れ込んでいる。上空三千メートルまで黒煙がたちこめて、もっぱらレーダー飛行を続けているようだ。ゴールデン・フラワー号からの報告だと、日本付近の海、ったって日本列島はもうなくなっちまったらしいが、まあ、そのあたりの海は大変な荒れようで航行不能って事だ。フイリピンに向けて必死の逃走中とある。それにあたり一面真っ暗で、まるで熱帯のように熱いそうだ」
「一体、何が起ったんだ。まさか水爆かなにかで日本列島をそっくり吹き飛ばしたってんじゃないだろうな
俺は運ばれて来たコーヒーに手をつけながら、半ば冗談に言ってみた。
加納は真顔を崩さなかった。
「そうかもしれんのだ。キノコ雲も、大した放射能も、衝撃もなく、日本列島を一瞬にして吹き飛ばしてしまうような水爆があるとしたなら」
「考えられん」
俺は自分が言いだした事ながらあきれて加納を見返した。
ハンバーグの残りを口の中へ放り込んだ加納は、
「ありえない事だ。が、実際に日本は消えちまったらしい」
まるで、何かちょっとした失くし物をしたような口調で言った。
「俺達はどうなるんだ」
「わからない。我々が祖国を失ったらしいって事以外にはね。私はあくまで外交官として仕事を続けるつもりだが。それにしても」
と加納はつぶやいて、その後をコーヒーに口をつけ、後を濁して、黙り込んだ。
俺達はそれからすぐ、そこを出て、パリ中央駅へ向った。チューリヒの物理学総会に出席していた大井茂三郎博士を迎えるためにだ。
大井博士は、次期ノーベル物理学賞の呼び声高い日本の誇る物理学者だ。今度の事で学会を放り出して、パリへやって来る。日本へ帰るのだと、超距離電話で大使館へ言って来たと言うが、その気持ちもわからないではない。しかし、ポッカリと日本列島が消えてなくなってしまって、うずを巻き、波の逆だっている黒い海へ、誰が故郷を求めて帰れるだろう。
それにしても、信じ難い事だ。あの世界一の大都市東京が昨夜の内になくなったなどと誰が信じるだろう。それでも、俺達は信じざるをえないのだ。否応なく。
「子供は?」
加納の運転するベンツはあちこちで立ち往生した。パリの市街で大型のベンツを走らせようというのが、そもそもの間違いだ。
「去年生まれた。顔も見てないし、一度だって抱いてやれなかったが」
外交官たる肩書きにはバカでかいベンツがふさわしいと、こんなに急いでいる時にも引っぱり出してくるところは全く、加納らしい。
彼は大学時代から肩書きにはうるさくて、何とか言う大臣の令嬢と結婚したと聞いた時にも、成程と思ったものだ。
チューリヒ発の特急は少し早目に着いた。大井茂三郎博士はそれと見てすぐわかる白髪の堂々とした犬柄な紳士だった。当たりは柔かだが、ひどく説得力のある瞳が印象的だった。
しかし、その瞳も、なんだか沈んでもの悲しげに見え、加納から聞かされた――若々しい。という感じとは程遠かった。
中心街を避けて行くはずだったが、どこも同じような混雑ぶりで、加納自慢のベンツはまたもたびたび立往生した。大井博士は黙り込んだまま、目を閉じていたが幾度目かにベンツが止まってしまった時に、誰に言うともなしに、こうつぶやいた。
「こうして、パリの真ん中をベンツに乗って、三人のさまよえる日本人がうろうろしている図はなんともわびしいね」
それを加納は皮肉と受けとったらしく、しきりに博士に詫びた。しかし、加納の必死の努力にもかかわらず車は遅々として進まず、さまよえる日本人達はベンツの中で重苦しい沈黙を守り続けた。
アイダはもう出勤していて、盛んにかかって来る電話の応対に忙しそうだった。彼女はこの大使館で公使参事官の秘書をしていた。
三日前、俺が報日新聞のデスクの紹介状を持って大使館を訪れた時、なんとなく近付いて食事に誘ったのが始まりだった。俺は何か妙に魅かれるものを彼女に感じたのだ。おそらく彼女も俺に対して同様な何かを感じたのだろう。
偶然というものは確かに色々な事をひき起こす。公使参事官とデスクは大学時代の親友だったという事だが、俺も大学時代につきあいのあった加納に、ほぼ一〇年ぶりにここで再会したのだ。
応接室を占領した新聞記者達の騒々しい話し声が、この奥の公使の部屋まで届いていた。
博士は壁から大きなメルカトール図法の地図を降ろさせて、机の上に拡げ、手で日本を中心に円を描いて見せた。
「つまり、この円内の地域が消えてしまったわけだ。中心は名古屋の少し北よりの場所だ」
「ここです」
公使参事官が正確な場所を横から手を出して示した。
「そう、しかし、実際には消え去った地域は円形ではない。これだけの地域を吹き飛ばすだけの爆発があったと仮定するならば、少くとも、大きく見れば円形を成しているはずだ。が、しかし、どうも円形と言うよりは三日月形に近い。これは爆発によるものではない。どう考えても人間の仕業ではない。ところで、例の光について聞いているだろう」
俺達は一斉にうなずいた。博士はこうして喋りだすと実際、若々しく見えた。彼は身体中のポケットをあちこち捜し、とうとう小さく折りたたんだ新聞を取りだし、地図の上に拡げた。
「これだ。多分、正体はこれなんだよ」
博士は俺達に三面の端の小さな写真を指さして言った。俺は、みんなと一緒にのぞき込んでみて、仏語にぶっかってやめた。どうも仏語はめんどうでいけない。
公使参事官と加納は最後まで読んでしまうと、理解しかねる表情で博士を見た。
「これは、三十億光年の彼方の星雲の爆発の記事ですが」
公使参事官は不安気に博士に問いかけた。。
「そうだ。その銀河系から遙か彼方の星雲で三十億年程前に、一つの恒星が寿命尽きて爆発を起した。それによってその星雲全体が大規模な爆発をひき起し、その最初の光が、やっとこの三十億年後の現在になって地球に届いたのだ。人間は今になって初めてその星雲の臨終を知ったのだよ。何と自然とは偉大なるものなのか」
我々三人は博士の火の点いていない、ゆれるパイプを見つめながら、その言葉の意味を考えた。
「日本列島が消滅したのは活火山のせいでもなければ水爆で吹き飛ばされたのでもない。三十億光年の彼方に存在していたこの星雲の道連れとなったのだ。自然のいたずらとしか言えまい。あまりに大きな、そしてたちの悪いいたずらだが・・・」