第六話:征馬は西へ
メラムを発した、王弟カラツ率いる胡軍は西へと進路を取り、献上品と、大王ズクライへ宛てられたメラム王ヴィホフの親書は、絹と青磁を求めてやってきた欧伯人の交易商マルケ=ポワロの商隊に預けられた。
護衛と案内、監視役を兼ねた胡軍の一部隊が、水上商都ヴェレツの一行を前後から挟んで東へと向かっていく。これから、最後の難所である地底沙漠を越えるのだ。
地底といっても、地下にあるという意味ではなく、周囲の山脈や高原と打って変わって、鍋底のように非常に標高が低いことからそう呼ばれている土地である。
西へ馬首を向けた胡軍の本隊は、冷涼な高地に広がる大草原を進んだ。天へ突き刺さるほどの鋭い峰こそないが、メラムの位置するところも地勢としては高原に属している。
馬や羊に草を食ませながらの、牧歌的でのんびりとした移動に見えるが、歩兵不在の行軍速度は存外に迅い。馬が疲れてしまう前に乗り換えて、消耗させることなく進みつづけるのだ。
陽がかたむき、一日の行軍を終えた胡人たちが馬の脚を止めた。遊牧民である彼らにとって、野営の準備は馴れたものだ。
草原に幕屋がつぎつぎと広げられる様子は、遠目からは花が連鎖的に開いていくように見えるだろう。
王弟カラツは、野営の支度をする陣中をひとりで歩き、メラムの公主リーシェンがいる幕屋を訪ねた。
「なにか不足はないか、リーシェンどの。必要なものがあればすぐに用意させる」
「お気遣いありがとうございます。なにも不自由はしていません。一日に五十里も移動しているとは信じられないくらいです」
カラツがリーシェンに与えた幕屋は、大きくはないが本営と同じ布と革で作られていて、行軍中もたたむことなく荷駄によって牽かれる。
波剌斯の玻璃や達羅蓖荼の象牙に、羅麝沙の黒檀、帝国の絹製など、贅を尽くした調度がそろったその内部は、移動する小宮廷というにふさわしい。
賓客であると同時に政治的人質でもあるリーシェンだったが、カラツは、彼女の容色や、交易路の要衝であるメラムの公主という地位にではなく、勇気と知性に好ましい興味を持っていた。
公主の世話係だというユン婆さんが淹れた、甘く濁った茶を飲みながら、カラツは同盟国の姫に目下の状況を説明する。
「あと二日も進めば、花刺子模の辺境に達する。先発として送り込んであるキドゥバという将が、周辺の部族を服属させ、兵をそろえて本隊の到着を待っているはずだ」
「帝国を攻略したときと同じく、現地の民に歩兵を担わせ、本隊の騎兵を主力となさるのですね」
「リーシェンどのがメラムの王子であったら、一軍をまかせることができたな」
用兵の話をすぐに理解したリーシェンに対し、カラツは楽しげに笑った。その貌に、冷酷な征服者の蔭はない。
「東から高原を下りていくと、ボラートとシャーシュガンタがちかいですね。どちらへ向かわれますか」
「花刺子模の辺土はすみやかに通過し、マリガンタを衝く」
「城市を無視して、敵地の奥へ進まれると?」
「王ムハラズは兵権を掌握できていない。かの地には、定住している耕作民と、草原を渡り歩いているわれら胡族と似た習俗の遊牧民、そしてもっと西からやってきた巴刺伯人が、あまり混じり合うことなく住んでいる。平原で決戦に臨むか、それぞれの都市で籠城するか、黒河沿いに広がる北の湿地帯へ逃げるか、南の山岳に拠って持久戦に持ち込むか、方策が定まっていない」
「花刺子模の軍がまだ展開していないうちに、要衝であるマリガンタをまっさきに押さえ、彼らの機先を制しようというのですね」
リーシェンの飲み込みの早さに、カラツは満足げにうなずく。
「そのとおり。マリガンタに母御の実家があるといっていたな、リーシェンどの」
「母の両親は十年前に流行り病でみまかりました。ですがマリガンタの太守は伯父の女婿です。わたくしを使者として使っていただければ、マリガンタの城門を開くよう太守へ勧告してもらえないか、伯父に働きかけますが」
「そなたが流血を望まないというなら、マリガンタの城壁を囲み、交渉の席に着くよう呼びかけよう」
「城門を閉じたままであったら?」
「そのときは寨外の持たざる者と市に住む持てる者、その古来よりの倣いに従うまでだ」
ここで凶猛な馬賊の頭目としての面を示したカラツだったが、鋭い眼をすぐにゆるめた。
「……そなたとヴィホフどのは、われらの騎影を見かけただけで、こちらからなにもいわぬうちから正しい選択をした。あなたがた父娘の半分でも聡ければ、マリガンタの太守も判断をあやまりはすまい」
「メラムはひとつの城市がそのまま国すべてです。父ヴィホフが定めればそれが国の方針になります。ですが、マリガンタは花刺子模でもっとも大きく重要な城市であっても、首府ではない。城内には王の代官もいることでしょう。囲んで外から呼びかけるだけでは、太守の一存で開城の決断はできないはず。こちらから出向いて説得しなければなりません」
リーシェンの話を、カラツは真顔で聞いていた。胡族の王弟は、目の前の美しい公主に、現実を見据えた政治的決断を下すメラム王ヴィホフの知性が受け継がれていることを確信している。
「われらの側から、ぜひにも交渉に応じてほしいと、頭を下げることはない。彼らのほうからわが幕営へ出向いてくることが前提だ。……が、たしかに、リーシェンどのと同様の胆力と知性を兼ね備えた交渉人が、どこの城市にもいると期待するのは過大だろう。こちらから城内へ使者を送ることも検討せねばなるまいな」
「その役目、わたくしに」
母の故郷を兵火から救うため、リーシェンは勢い込んで身を乗り出した。しばしの沈黙をはさんでカラツはうなずいたが、
「では、リーシェンどのに頼もう。ただ、ひとつ条件がある」
と、黒い目に、なにやらいたずらを思いついた童子のような光を浮かべた。
異世界なので、地球よりも地形や民族分布は簡略にしています。単語はテュルク・タタール系を中心に拾いましたが、厳密ではありません。当字の漢語も適当です。