第十五話:大王と王弟
王弟カラツは占領地を太守ハザンらに任せ、直属の胡族精鋭部隊のほとんどすべてと、王ムハラズを通じて得た沙斯伯の工兵を連れて東へ向かった。
アラムク包囲軍はムハラズが派遣してきた、城攻めが巧みだというアル・ラッディンにゆだねて、副将キドゥバを呼び戻し、書記官アリ・サーバスも連れ、文武の幹部すべてを帯同した。
その陣中には、当然のようにメラム公主リーシェンも伴われている。
大王ズクライを出迎え、西征の成果を観閲したもうため、とされたが、完全装備で進むその軍列は、あたかも王弟が兄王を邀撃するかのようなありさまであった。
カラツの軍は秋深まる大高原を越え、メラムの近郊で地底沙漠を渡ってきたズクライの禁軍と出会った。
全軍を戦闘隊形で布陣させ、カラツは単騎で大王の大旆がたなびくズクライの本営へと向かっていく。
大王もまた、近侍二騎のみを伴って陣を出た。弟の姿を認め、従者を待たせてひとり馬を進める。
草原を風が渡る中、歳の離れた異父兄弟はひさしぶりに顔を合わせた。鞍が触れるまで馬を寄せ、互いの肩を抱擁する。
「仰々しい出迎えだな、カラツ」
「兄者、見てのとおりだ。木乃奚の山城を囲んでいる兵がいるのですべてではないが、預かったわが胡族の戦士、ひとりも死なせていない。……腹を下したり、風土病に罹って死んだ者はいるが、それは遠征にはつきものだ」
「おまえが不殺主義に宗旨変えするとは、思わなかった」
本当に意外そうな顔で、ズクライは弟をしげしげと見遣った。
閲兵というには剣呑な、兄王に対して会戦を挑むかのような隊形を敷いてみせるところからして、その覇気、闘志が衰えたというわけではないようで、不可解さはひとしおであった。
「王朝が代替わりしても、われらを千年軽侮してきた帝国と、父祖からの怨恨があるわけではない花刺子模を同列に見ることはできないさ」
「……おまえがそういう因果を気にするとは知らなかった。では、いま一度帝国へ派遣先を変えようか?」
「そのことだ、兄者」
カラツは馬首を巡らせ、麾下の陣容を示し、語をつづける。
「花刺子模の王ムハラズに仲介させ、巴刺伯人の工兵を傭った。あの者たちは、沙斯伯の地において、欧伯から襲来し、聖地奪還を称して居座っていた連中を石造りの城から叩き出した実績を持っている」
「ほぉう」
「沙漠で木製の攻城器は作れぬゆえ、坑道を掘って城壁を突き崩し、石や鉛の弾を青銅の筒から撃ち出す業を編み出した。いずれも、火薬を使う」
「火薬は帝国の技術だったな。閃光と音で夜間も狼煙のように使え、馬を威かすやっかいな代物ではあったが。城を陥とすのに使えると聞いた憶えはない」
「巴刺伯人は火薬を改良したのだ。調合を変えると、勢いよく爆ぜるようになる。城壁の下を掘り抜いて火薬をしかければ、その一点から崩れ落ちる。青銅の筒に火薬と弾丸を詰めて火を点ければ、材木と縄で組んだ投石機と同等以上の破壊力を発揮する」
「帝国の南部、獲れるな」
弟の説明に、にやりと覇王の笑みを浮かべたズクライだったが、
「工兵部隊と、大型船の設計技師を兄者にまかす。キドゥバ、ヤヒツ、ドゥーロも返そう。ガヤン、ジュペ、バングら、兄者の手元の勇士を合わせれば、帝国全土は手に入ったも同然だ」
と、カラツが述べたので眉をしかめた。
「カラツよ、わが軍最高の勇士は、ほかならぬおまえ自身ではないか」
「もう、東には興味がなくなった」
「どういうことだ?」
怪訝げに訊ねる兄へ、胡軍一の将は静かに答える。
「オクシス川から地底沙漠の西端までを大王国の一州とし、おれをその長官としてもらいたい。もちろん、兄者の覇権に挑む者が現れれば討つ。木乃奚はおれとムハラズの責で掃滅する。……だが、花刺子模からさらに西、波剌斯、沙斯伯、土琉其、欧伯を征するのは、つぎの世代にゆだねたい」
「南の達羅蓖荼、羅麝沙、越南も、東の倭本も、北の俄羅斯もある。カラツよ、おまえほどの驍将が都合よく何代もつづけて現れると思うか? われら胡族は地上で最も精強な戦士でありながら、朕が征服すべき外の世界を示すまで、牧草地と羊を巡ってつまらぬ争いに明け暮れていた。おまえという最強の剣と、朕という最も視点の高い牧者があるうちに、馬の踏みうるすべての地を征さねばならぬ」
爛々と輝く眼で、大王は熱っぽく野望を説いた。対して、王弟は爽やかなまでの笑みで応じる。
「兄者とおれで地上をすべて征したところで、後継に器がなければ意味がなかろう。故郷からはるか離れた世界の涯てで、代替わりした無能な頭目に泣かされる朋輩の歎きを、墓の中で聞きたくはない。現状で、すくなくとも胡人全員に馬と羊を養う土地は充分に分配できる。さらに必要かどうかは、われらの子、われらの孫が決めればいい」
「……カラツ、おまえがなぜ後継の世代の選択に託す気になれる? 朕がどれほど娶せようとしても女を避け、今回の遠征でも差し出された美姫をことごとくこちらへ送りつけてきたおまえが」
ズクライの声には、皮肉とあきれがあった。カラツは、眉を寄せ、二度ばかり目をしばたたかせた。
「この前出した手紙で、母者には伝えたのだが。聞いていないのか、兄者?」
と、いったところで、カラツも、ズクライも、同時に気づいた。
国母エルンは、あえて話さなかったのだ。弟カラツの想い人の話を、漁色家ズクライが聞けば悪い意味で興味を持つ。兄弟それぞれの性格を承知している、母の深慮であった。
「……では、おまえの后はメラムの公主か」
「まだ后ではない。大王の許しを得るのが先だと、ずっと待たされている」
うらめしげな顔でそういうカラツに、ズクライはこらえきれずに笑いはじめた。憮然とする弟へ、笑いすぎで出てきた涙を指で弾きながら、からかう。
「莫迦正直なやつめ。東西両洋最高の美女を毎夜抱いている、腹にはもう子もいる、くらいのことをいえばよかろうに」
「おれは真剣だぞ。もし兄者がリーシェンどのを求めるなら、おれは王弟の称号も将軍の地位も、なにもかも捨てて、彼女ひとりを選ぶ」
「ここで俺が、不感症の弟がようやく巡り合った伴侶を奪うと? 母御もおまえも、ずいぶんとひどいな。俺はそこまで色狂いに見えるのか?」
世界を征さんとする新時代の帝王ではなく、自由奔放な遊牧民の男の顔で、ズクライは肩をすくめてみせた。
「帝国の皇帝が逃げ出した京で、取り残された後宮の女たちを前に兄者がいったことだぞ。『ここに西域各国の美姫も並べる。筆頭はメラムの珠玉だ』と」
「いったな、そんなことも。しょうもないことを憶えている、おまえは」
「君主の言葉は流れ出た汗のごとく、ひと度出て戻ることはない」
「……ああ、よせよせ、ありがたい経の一節まで唱えんでいい」
口うるさい宰相を黙らせるときの仕草で、ズクライは手を振った。それも束の間、すぐに兄としての顔で、カラツの仏頂面を見つめる。
「……なんだ、兄者?」
「ひとつだけ聞かせてくれ。おまえのことだ、見た目が理由ではあるまい。メラムの公主、どこが気に入った?」
「頭が良くて話が合ったから、だが……最初におれのことを見て、正直におどろいたからかな」
征服王ズクライの弟にして、無数の血を流してきた馬賊の実働隊長という先入観と、小柄で柔弱そうな当人の落差は大きい。
カラツがそれまで、各地の有力者、あるいはズクライから勧められて引見した美姫たちは、彼の実像から目を逸らそうとした。
自分とではなく、王弟という地位と縁を求めているのだと感じ、カラツは女性に気を許すつもりになれなかった。
リーシェンは、カラツが印象とちがっていたと、素直に表情で認めた。そして、胡族の王弟との縁が必要とされている、と政治的動機を隠すこともなかったが、父ヴィホフとメラムの民のみにとどまらず、広大な範囲の安寧を求めていた。
彼女と出会わなければ、カラツは花刺子模はもとより、波剌斯も、さらに西の諸邦も、帝国同様に胡軍の力で制圧していただろう。
弟の目を見て、ズクライはひとつうなずいた。
「そうか」
「兄者、リーシェンどのと会っていくか? すぐそこの幕屋にいるが」
「いや……やめておく。母御の気遣いだ、万にひとつの邪心が起きる可能性も、避けろということだろう」
存外に真面目な顔でそういい、ズクライは馬首を返した。
君主の言葉は汗のごとくひと度出て戻らず、というのは易経の渙卦九五にある言葉です。正確には、君主は肌から出た汗が戻らぬように、一度発した言葉を貫く覚悟を持たねばならない、となります。