第十二話:血の贖い
幕屋へ戻るリーシェンについてきた王弟カラツは、ユン婆さんの淹れた茶を飲みながら、はるか東方の地で戦いに明け暮れていたころの話を語りはじめた。
「もっとも、私が一人前の戦士になったときには、すでに兄が、あとは勝つだけですむところまで部族をまとめ、対立を単純化してくれていたのだが――」
ズクライの父テンゲムは、胡人どうしの部族抗争のさなか騙し討ちに遭って殺され、その妻エルンは、まだ年端のゆかぬ童子であったズクライが成人するまでの時間を稼ぐため、苦労を重ねたという。
嫡流であった兄テンゲムから氏族長の座を奪おうと狙っていた、義弟ディヤンに保護を求めたエルンは、その愛妾となるという立場に甘んじながらも、ズクライ成人の暁には長の座を返すよう説得し、承諾させた。
当然ながら、族長の位を確固たるものとしたいディヤンはズクライを邪魔とし、危険をともなうさまざまな雑用を命じた。成年に達していない若者を直接害することは胡人の流儀に反するため、事故が起きることに期待したのである。
母エルンの助言と、父テンゲム譲りの馬術の腕で、ズクライはいくども死地をくぐり抜け、ディヤンの陰謀は、却って次期氏族長をたくましく育てる結果となった。
胡人の理非を定める法則は力だ。ズクライが成人を迎えれば、ディヤンは正面から族長の座を要求し、決闘に訴えてかまわない。だが、人望でも、剣の腕でも、ズクライはもはやディヤンなどでは到底敵わない存在となっていた。
ズクライに位を返上し服従することを認めがたいディヤンは、帝国を頼って南へ逃亡し、ひとまずテンゲムの後継者争いは決着を見た。
ディヤンは帝国の北狄対策官にズクライの野望の危険性を吹き込み、胡族統一を妨げる障害のひとつとなりはする。とはいえ、それはズクライの大業の前では些細な挿話にすぎない。帝国は帝国で、誇張のつもりで実は正鵠を射ていたディヤンの話を信じ切らず、最後は騎馬軍団の大侵攻という結果を招くのであった。
一方、夫の忘れ形見ズクライに族長を継がせるという大望を果たしたエルンだったが、十年におよんだディヤンと寝所をともにする生活は、あらたな生命をもたらしていた。
それがカラツである。
ズクライにとってカラツは歳の離れた異父弟にして従弟であり、カラツからすれば、もの心ついたときにはすでに氏族を率いていたズクライは、兄というよりは父のようなものに近い存在であった。
ズクライが大王を称するには、父テンゲムの後継者として氏族を率いるようになってから、十五年の歳月が必要とされた。
統一事業の終盤、ズクライをもっともよく祐けたのはカラツであり、胡族の領袖が確定する二度の決戦で総指揮を揮い、キドゥバ、ヤヒツを下し、兄に大王の呼号をもたらした。帝国北部攻略に際しても大王から主力軍を任され、四十回あまりにおよんだ会戦すべてで勝利を収めた。
そしていま、王弟カラツは西方攻略を大王ズクライからゆだねられている。
「――私は兄から敵だと教えられた相手を倒すだけだった。キドゥバやヤヒツのように、最初は戦場で敵として相対し、のちに友となる男もいたが、基本的には迷うことなどなにもなかった。帝国はわれら胡族を犬あつかいし、必要なときは粗末な物品や鐚銭を投げ与えて傭い、邪魔になれば追い払った。やつらに斟酌遠慮をする義理はなかった。……いまは、難しい」
これまでだれかに聞かせたことはないだろう、カラツが弱音を吐いているなど、諸将が知れば仰天するにちがいない。
リーシェンは、王弟の話で意外だったところを素直に口にしていた。
「大王と殿下のお父上は、べつべつのかただったのですね。存じませんでした」
「私は自分に父がいたとは思っていない。兄と私は国母エルンの息子であり、兄にはテンゲムという父がいて、私にはいない、それだけだ」
「お母上のエルンさまは、ほんとうにご立派なかたですね。お会いしてみたいです」
「もうだいぶん歳だが、まだ元気だ。機会があれば、母もリーシェンどのに会いたがるだろう。……そういえば、ヴィホフどのとは会見も酒宴の席もともにしたが、王妃どのにはお会いしなかったな」
「母はわたくしが幼い時分にみまかりました」
「そうだったか。すまない」
「わたくしも、自分に母がいたという実感は、薄いのです」
罪深いことをいった、とくちびるをつぐんだリーシェンへ、カラツは黒い眼を凝っと向けた。
「……殿下?」
「リーシェンどの、私がメラムの次期王位を望むといったら、受け入れてくれるか?」
王弟カラツの事実上の求婚発言に、ガチャ、と茶器を鳴らしたのは、常は平静なユン婆さんで、リーシェンのほうは音を立てずにひと口飲んで、また卓上へ戻す。
べつに、カラツの話を聞いていなかったとか、意味がわからなかったということではない。
「メラムは強兵で立つ国ではありません。外敵を寄せつけにくい地形ではありますが、東の沙漠からも、南の山岳からも、西の高原からも、北の沼沢地からも、旅人が絶えないからこそ栄えてきたのです。父ヴィホフとわたくしの望みは、メラムが交易の中継地であり続けることです」
リーシェンが平静な声でそう述べると、カラツはうつむく。
「……私の血塗られた手では、平和な国の王にはふさわしくないか」
王弟の声がずいぶんと気落ちしていたので、リーシェンは小首をかしげた。
「東西両洋を治める統一朝のもとで、ひとつの城市としてメラムが存続できるなら、王統の継続にこだわるつもりはない――父もわたくしも、そう考えているだけです」
「私の后になるのがいやだ、という意味ではない?」
「もちろん」
リーシェンが、いわずもがなのことをいまさら? と思いながら応じると、カラツはずいぶんと情けない顔になった。初陣で距離を読み誤って十倍の敵に囲まれ、兄ズクライに救い出されたときでも、こんな気骨のない表情をすることはなかったのだが。
「私のような、戦しか知らぬ粗暴な男では、リーシェンどのが認めてくれないのかと……」
「わたくしは、最初にお目にかかったときから、カラツさまを好ましいと思っていました」
「ほんとうに……?」
「ええ」
いよいよ腑抜けた貌になったカラツがおずおずとリーシェンの手を取ったところで、ユン婆さんが咳払いをした。
「老い耄れからひとつだけ。大王からお墨つきをとってくだされ。わが姫さまはメラムの珠玉、西域全体にしろ、帝国にしろ、並ぶ佳人がひとりいるかどうか。古来、傾城が皇帝と皇子を、君主と臣下を、一国の王どうしを相争わせ、破滅をもたらした例は、枚挙にいとまがありませぬゆえ」
「兄と争う気はないが。もし兄がリーシェンどのを要求するなら、ほかのものは捨てて逃げる」
「王弟殿下、あなたはまだ役目を終えていない、捨ててはなりません。帝国の民いく百万の血も、胡族の剣の威名を研ぎ澄まし、花刺子模無血服命の礎となればこそ、わずかながらの慰めとなりましょう」
死者たちのかたわらで寝起きをしてきたユン婆さんの言葉には、ただの生者には語りえぬ重みがあった。
「わかった。これ以上無駄な血は流さない。これまで流した血も無為にはしない」
いる意味薄いな……となっていたユン婆さん、ここにきて重要な発言ができました。