第十話:月下の剣舞
またチャンバラです。興味のない方はスルーしてください。
公主リーシェン襲撃に失敗した黒ずくめが、ナジャールの館の軒に降り立ったとき、すでに周囲の街路は灯火の光でくまなく照らされていた。
胡軍の兵士は城門から内側には入っていないので、すべてマリガンタの守備隊である。練達の隠密である黒ずくめの耳には、太守ハザンが下知を発する声が聞こえていた。
「くせ者は館の敷地内にいるはずだ。ネズミ一匹這い出る隙を作るな!」
館の露台の上からは、ナジャールが手兵へ指示を飛ばしていた。
「逃がすな! まだそのあたりにいるぞ」
舌打ちをして、黒ずくめは背中に担いでいた弩を取り出した。弓床のくぼみに、太矢を込める。鏃に強力な毒が塗られているが、一本限り。
ハザンか、ナジャールか、どちらを道連れにしてくれようかと弦を引き絞りはじめた黒ずくめの耳に、今度は馬蹄の轟きが聞こえてきた。
「……殿下!」
ハザンの声で、馬でやってきたのが王弟カラツであると知れる。
黒ずくめが侵掠者の頭目の姿を確認しようと、発見される危険を押して物陰から首を伸ばす前に、カラツの声が響いた。
「出てこい、相手になるぞ。私が城外で兵らに囲まれていたから、リーシェンどのを人質に取ろうとしたのだろう? おまえの狙いは私の首のはずだ」
呼ばわってから、ハザンの制止を振り切って、カラツは馬の背を蹴ってナジャール邸を囲う石塀を乗り越え、ひとりで裏庭に立った。
「王弟カラツ!」
黙りこくって闇に身を沈めていた黒ずくめは、ついに立ち上がり、声を発した。憎悪と、ある種の希求の入り交じった、異様な叫びであった。
遮るもののない開けた場所に身をさらしているカラツ目がけ、弩の引き金を絞り、すぐに投げ捨てるや、三階の屋根から身を踊らせる。
カラツは腰から倭刀を抜き打って、飛来する太矢を切り払った。
猫のように着地し、黒ずくめは、聞き取ることのできない、おそらく主君か神をたたえる喚声とともに、剣を振りかざして胡族の王弟目がけて突っ込んでいく。
一合目の衝突で生じた火花が空中で散る前に、二度、三度、四度、月下に刃が交差した。
蹴り込まれてくる黒ずくめのつま先からも隠し刃が繰り出されると見切って、カラツは体を開いて躱し、斬り下ろして相手の右腕を剣ごと宙に飛ばす。
黒ずくめはひざの溜めのみで身の丈ほども跳躍すると、残された三本の手足の先すべてから刃を生やし、カラツの頭上から躍りかかった。
カラツは交錯ざまに斬り上げ、黒ずくめの右足をひざから断ち、地べたに転がった相手の覆面を刀の切っ先で剥ぎ、頸へ刃身を据える。
――が、カラツが降参するよう口を開く前に、黒ずくめは悽愴な笑みを浮かべ、左手の刃で自らの心臓を刺し貫いた。
「……敗れて一命永らえるようには躾けられていないか」
刀を納め、カラツは腕利きを惜しむつぶやきを発した。
そこへ、護衛を引き連れたナジャールが息を切らせて駆けつけてきた。
「殿下! 卑劣な賊の相手など、御身がなさる必要は、ございませんぞ」
「私自身をおとりとして釣り出さなければ、こいつは闇にまぎれて逃げおおせていただろう。そうなっていたら面倒が増える。戦士としてはいっぱしの腕だった、きちんと埋葬してやれ」
「こやつらは、どうせ……」
「木乃奚だろう? 殉教使徒というやつだな。主義が異なるといっても、まったく異教徒の私に弔われるより、同宗のおまえたちのほうがまだよかろう」
黒ずくめの正体をカラツはあっさりと看破し、ナジャールは口ごもった。
「殿下、われわれは……」
「こいつを手引きしたのが、おまえたちでないことはわかっている。すくなくとも、リーシェンどのを襲わせる理由は、伯父であるナジャール卿にはなかろう。だが、木乃奚は花刺子模の王と敵対し、各地に間諜を忍び込ませていると聞く」
「そのようなことまで……」
「われらは思いつきで征西を決めたわけではない。帝国を攻略する前から、その完遂いかんに関わらず、西方を統治範囲に加えることは規定事項であった。各地の政事的動静の調査はすんでいる」
この男が敵にならなくてよかったと、ナジャールは姪のリーシェンに感謝し、その父であり、縁としては義弟であるメラム王ヴィホフの判断の早さに舌を巻いた。
王ムハラズに諮れないまま開城してしまったことで、のちのちまずい結果になるのではないかと内心危惧していたが、胡軍が兵略でも政略でも花刺子模を圧倒するのはもはや疑いない。
だが……リーシェンの伯父という立場を利用してこの王弟に取り入り、さらなる栄達を目指そう、という発想には、にわかに飛びつきかねるナジャールであった。
すこし……いや、だいぶ怖い。
ここで参考資料をご紹介します。
ちくま学芸文庫 岩村忍著『暗殺者教国―イスラム異端派の歴史』ISBN4480086560
タイトルとは裏腹にモンゴル帝国による中央ユーラシア征服の話がメインになっている本で、学術書というよりは物語の雰囲気が強いです。原著の刊行は1964年であり、学説としては「古典的」で、今日の知見からすれば必ずしも正確とはいえないようです。
ですが、いまやムハンマドさんとは無関係な異世界ファンタジーでも基本クラス化している〈アサシン〉というイメージは、旧来のロマン主義的学説が根っこになっていることも事実であり、ある意味フィクション書くなら適切な資料だと言えましょう。
また、ソ連侵攻以前のアフガニスタンなどを実際に見て回った岩村先生の筆による現地の描写はあざやかで、8世紀さかのぼる当時を想起させてくれます。その光景の多くは、以後半世紀あまりの環境の変化や人為的な破壊で現在では失われているものと思われます。