8.兎の里へ
兎の里と聞いて、フィリアの妄想が花開いた。
童話で見たふわふわの兎。それがお祭りをしているだなんて、なんと可愛らしい光景だろう。
しかも聖女祭ということは、フィリアは丁重におもてなしされること必至である。
「ここに行ってみたいわ!狼族の村と近いし」
リュカもトラベラーズ・ガイドを覗き込む。
「確かに兎の里には温泉があるし、この時期にはお祭りもあるし、いいかもしれないな」
「どんなお祭りなのかしら」
「屋台が沢山出て、そりゃもう」
「屋台!?何それ、聞いたことがないわ」
「とりあえず見に行こう。フィリアが行きたいところに行くのが一番だから」
「うん!楽しみ」
そこに、聖堂の正面玄関からエメが入って来た。
「おお、ふたりともお揃いで」
「長老。我々は兎の里に行って来ます」
「そうか、兎の里なら協定を結んでおるから安心だ。あそこにも、様々な聖女伝説がある。色々聞いて回るといい。何日間滞在するつもりだ?」
「そうですね……三日ほど、ですかね」
「先に伝えておこう。どんな街に留まるにしろ、最長でも三日以内にするのだ。噂が回って人間界から城塞を攻められるにしても、どの街も侵入に最低四日はかかるからな」
「はい」
更に、エメは様々な通行手形をリュカに渡す。
「これがあれば、大抵の協定締結済みの城塞都市に入れる。更にこれは狼族の長老しか持てない通行手形だから、これを宿で見せれば、宿で消費したもの全ての請求が私のもとに来るようになっている。大切に持ち運ぶように」
「ありがとうございます、長老様」
「感謝します、エメさん」
リュカは手形をくるくると丸めると、フィリアのスカーフ包みにそれを突っ込んだ。
「そうだ。狼獣人は人間と体のつくりが近い。聖女様も今着ている粗末な服は捨てて、新しい服をここらで買うといい」
フィリアは目を輝かせる。
「服!?」
「そうだ。そのキナリのズドンとした寝間着では旅をし辛かろう。そのつっかけも捨てて、いいブーツでも買って来い」
「本当!?私、服を買ったことないから楽しみ!」
「リュカ、見立ててさしあげろ」
「俺もあんまり服は買ったことないけど……」
リュカはフィリアの寝間着のような服を眺め、彼女のきらきらした瞳に視線を移すと、ふっと笑った。
「はいはい。じゃあ行こうかフィリア」
「初めて選ぶ服……どんなのにしようかなぁ」
小さな洋服店で、フィリアは目を輝かせる。
「この世にはこんなに可愛い服があるの!?狼族は着道楽なのね!」
リュカは隣でそれを眺め、小さく呟く。
「人間の方が着道楽だよ……」
「五種類も服がある!」
「五種類しかないんだよ、今からじゃオーダーメイド出来ないから……」
「ブツブツ言ってないで。リュカはどれがいいと思う?」
「うーん。あんまりヒラヒラしたのはどこかに引っかけるからだめ。あと、アイロン必須なのは洗濯後に困るぞ」
「そうなのね?店員さん!」
店員の狼族の娘はしとやかに「はい」と答えた。
「麻の服なら、洗った後絞らずに水浸しのまま干せば洗濯後も皺なく着られますよ」
「そうなの!ひとつ賢くなったわ」
「ですから、旅にはこちらがお勧めです」
結局残ったのは、リネンのツーピースだった。上下分けて洗え、丈夫で引っかかりの少ない女性の普段着だ。ペチパンツもリネンのものを購入し、フィリアは試着室でそれに着替えた。
幽閉されていた部屋で着せられていたキナリの寝間着とは、もうさよならだ。
フィリアは試着室のカーテンを開けるや、リュカの前でくるりと一回転して見せた。
「どう?」
「あ、まあ……」
「ねえ、どう?」
「……うん……かわいい」
「オッケー!これ全部下さい!」
あとは一足しか店に残っていなかった女性用のブーツを履き、長老にツケる形で購入する。
フィリアはリュカと共に、意気揚々と店を出た。
「準備は整ったわね」
「……そうだな」
「新しい服っていいわねぇ」
リュカはじっとフィリアの頭部を眺めた。
「どうしたの?リュカ」
「まだ言ってなかったけど……癒されると、聖女の髪は色づいて来るんだ」
フィリアは自身の毛先をつまんで眺めた。
「……まだ変化はないわよね?」
「段々変化するんだよ。さっきのモザイク画では、途中から聖女の髪が黄色になってたし」
「へー。私の髪にも、その内、色が……楽しみ」
リュカも、フィリアの髪をそうっと触る。
ふわふわの、滑るような御髪。
「リュカ?」
彼はハッと我に返り、顔を隠すように少しうなだれた。
「……早速出発しよう。兎の里はここから近い。昼には着くはずなんだ」
「兎の里の聖女祭り……ああ、目に浮かぶわ」
期待は否が応にも高まる。
何せフィリアは童話の絵本と家の中以外、見たことがないのだから。
まだ見ぬ世界がどんなものなのか、楽しみで仕方がない。
「じゃあ、乗せてくれる?リュカ」
「はいよ」
リュカは風と共に狼に変身した。
フィリアはその背に乗ると、ぴたりとうつぶせに抱き着いてその毛並みに頬ずりする。
「しっかり掴まってろよ」
「うん!」
「行くぞ」
リュカは風を切って走り出す。フィリアは期待に胸を鳴らした。
兎、お祭り、温泉。ふわふわした暖かな夢。
その綿菓子のような妄想が兎の里にて脆くも崩れ去ることになろうとは、この頃の聖女フィリアは知る由もない──
兎の里の城塞都市の前に着くや、城壁の向こう側で野太い声がする。
「てめぇ、どこのシマのもんじゃコラァ!?」
「オーン?やんのかてめぇ!」
フィリアは青ざめて固まり、リュカはするりと変身を解く。
「さあ、行こうかフィリア」
「な、何か壁の向こうでケンカしてる声がするんだけど……?」
「ああ、兎の里はいつもそうだよ」
リュカは平然と、兎の里の門を叩く。
「どこのシマのもんじゃコラァ!?」
向こう側からの門番の怒号に、リュカは答える。
「狼族の村、イレオンから来ました。神官のリュカです」
すると、ギイとさびた音を立てて扉が開かれた。
フィリアは声にならない叫び声を上げる。
門の向こうでは、筋骨隆々の兎耳大男兵士が鋭い眼光で白い髪の二人を見下ろしていた。