37.死者の声
その頃。
フィリアは聖女の宿で温泉に浸かっていた。
イチョウやカナデの葉が湯面に舞い落ちる、小さな温泉だ。
やはり男湯と女湯は竹垣で仕切られている。
一方の海側は竹垣で仕切られておらず、オーシャンビューを楽しめる。
夕日が水平線に沈み、何もかもがオレンジ色に染まっている。
フィリアは敷石にもたれ、うっとりした。
隣では、きっとリュカも同じ風景を見つめているのだろう。
「リュカ?」
竹垣に向かって問うと、「はーい」と間の抜けた声がした。
「この温泉の効能は何?」
竹垣の向こう側がしばらく静まって。
「死者と対話が出来るよ」
何やら物騒な話が飛んで来た。
「し……死者と!?」
「うん。夜だけ使える能力だね」
「やだぁ。霊能力者みたいになるってこと?」
「そうだ」
「何だか怖い……」
「大丈夫。この能力は、使おうと思わなければ使えないようになっている。死者の前でその名を呼ばない限りは、対話出来ないようになっているんだ」
「そうなの?」
「やみくもにお化けが見える能力じゃないよ。だから大丈夫」
「でも……」
「俺がついてるよ。それに霊には力がないから、心配しないで」
フィリアは湯面を眺め、この湯に浸かってしまったことを少し後悔する。
「霊と話が出来て、何の役に立つのかしら」
「聖女に必要な能力らしいよ?俺にもよく分からないけど」
フィリアは落ち着かなくなって、ざばんと上がった。竹垣の向こうから声がかかる。
「フィリア、先に着替えて部屋に戻ってて」
「……分かった」
フィリアはユカタを着ると、そっと男湯を振り返る。
余り大きい声では言えないけれど、フィリアは最近リュカの体が気になっている。
以前は獅子の湯で彼の視線を嫌がったフィリアだったが、今はあの時の彼の気持ちが少し分かってしまう。
彼を見たいし、彼に触れたい。
しかし先程部屋で話したことを反芻すると、こうも思う。
(こういうことは、きっと言わない方がいいんだわ)
フィリアは自分の中の何かが変わって行くことに気づいていた。
異性と触れ合い続け、今までにない新しい欲望や感情が芽生えているらしい。
フィリアは部屋に戻った。
しばらく夕日が水平線の向こうへ行くのをしんみりと眺めていると、リュカが戻って来る。
「あー、いいお湯だった」
リュカが畳に座る音。フィリアは振り返ると、彼をじいっと見つめる。
「……何だよ」
フィリアは再び海に視線を戻した。
「別に」
「どうしたフィリア?何か変だぞ」
「……変じゃないよ」
夕暮れが次第に去って、星空がやって来る。
「ねえリュカ」
「何?」
「リュカは私と旅をして、大体の温泉を回ったらどうするの?私達、おじいさんおばあさんになるまで旅をするのかしら」
リュカは怪訝な顔をしたが、ふと笑う。
「そうだな。いつか、二人でどこかに定住したいな。狼の里でもいいけど」
「でも私たち、ずーっと結界の依代として人間に追い回されるのかもよ」
「うーん。その覚悟は出来ているけど……落ち着いたら、隠れて住みたいね」
「でも誰かを癒すのを仕事にするとなると……」
「フィリアは、そこまで考えてるのか」
リュカは立ち上がると、窓辺まで歩いて行く。
フィリアの不安げな瞳を、彼の期待の眼差しが覆った。
「前から、ずっと言おうと思ってたんだけど」
リュカが膝をつき、フィリアと同じ目線になる。聖女は何かの予感に、頬を染めて頷いた。
「俺、いつまでもずっとフィリアと一緒にいたい」
彼の手が伸びて来て、フィリアの頬に触れる。
フィリアはその湿った指先にどきどきと胸を鳴らし、呼吸をするのも苦しくなる。
「フィリアは、どうかな」
彼の少し甘えるような視線にくらくらしつつも、フィリアはこくこくと数度頷いた。
「……フィリアの声で、返事を聞かせて」
耳元で囁かれ、フィリアは震える声で言う。
「……私も、ずっとあなたと一緒にいたい」
その返答と同時に、フィリアは彼に正面から抱きすくめられた。
「フィリア」
暖かい声で名を呼ばれる。
フィリアはぼろぼろとリュカの肩越しに涙をこぼした。誰にも親しまれずにいたこの名を、彼は何と大切に呼んでくれることだろう。
「うー、リュカぁ……」
「ありがとう」
「いえ、それは私の言葉だわ。あなたには、お礼を何度言っても足りないと思うもの」
「俺、フィリアが好きだ。それに、もう怖くない」
フィリアはそれを聞いて更にしゃくり上げた。
「私も……もうリュカを怖がったりしないよ」
ふと、室内が波の音だけになる。
二人は同じタイミングで同じことを思い、そっと唇を重ね合わせる。
それからフィリアの体に、リュカは手を滑らせた。
その時。
(そういうことなのね)
フィリアは全てを悟った。
自分の中で整理し切れずにいた様々な体の機能が、現象が、何のために用意されていたのかを。
「ねえ、リュカ」
「ん?」
「人間と獣人は異種族だけど、子どもが出来るって本当?」
「いきなり、何だ?」
「私、猪の町でエレンに言われたの。人間も獣人の子どもを産めるんだって」
それを聞き、リュカの顔色が変わる。
「は?あいつ、どういうつもりでそんなこと……」
「エレンは私を塔に閉じ込めてから、お嫁さんにするつもりだったらしいわよ」
「何でその発言、もうちょっと早く教えてくれなかったんだよ。そうと聞けば、さっさとあの時エレンをぶっ潰しておいたのに」
急に甘い雰囲気から物騒な話になり、フィリアはたじろぐ。
「……リュカ、怖い」
「そりゃ怖い顔にもなるよ。俺、フィリアしか好きにならないんだから」
「そっか」
「狼獣人は、生涯ひとりしか愛さない。フィリアを失ったら、俺には二度と──」
リュカは言い募ってから何かに気づき、そっと口をつぐむ。
「俺、フィリアを失わないように頑張る」
フィリアはごくりと唾を飲み込む。
「サシャみたいに、ならないように」
「……サシャ?」
その瞬間。
フィリアの耳に、ふわりと聞きなれない声が飛び込んで来た。
──セシリア。
呼びかけるような、優しい声。
──セシリア。
フィリアは青くなって口をつぐむ。
「……どうした?フィリア」
異変に気づいたリュカが、聖女の顔を覗き込む。
「リュカ、あのね」
そう言おうとした、その時だった。
引戸の滑る音。
「夕飯をお持ちしました」
その声に気を取られ、そこから例の声は聞こえなくなってしまった。




